一人の男が、ベッドの上に横たわり、腕で目を覆っていた。
名をダイヤ・サイフォン―――一週間ほど前にレベル2になった上級冒険者である。
彼が所属しているファミリアは、名声も地位も持たない小さなファミリア。
だが、毎日は不思議なほど充実していた。金も名誉もなくとも、そこにあったのは温かな絆であり、気楽で笑いに満ちた時間だった。
しかし、その仲間たちは先程、共に酒を酌み交わしていた場で命を失った。
あまりにも唐突に、そしてあまりにも理不尽に。
冒険者にとって「死」は近いものである。
だが、それはモンスターに敗れた末のことや、無謀な探索の代償として訪れるものだ。
今回のように、ダンジョンでも戦場でもない場所で、ただの宴の最中に命を落とすなど、常識では考えられぬ出来事だった。
「…畜生…畜生っ!」
ダイヤは唇を噛み、拳を握りしめると、そのまま木造の壁を叩きつけた。鈍い音が響き、薄い壁板がわずかに軋む。
心臓は焼けるように熱く、血が頭にのぼるのを感じる。理不尽に奪われた命。それがまるで幻灯のように次々と脳裏に浮かび上がり、彼の胸を締めつける。
(…冗談じゃあねぇ、豊穣の女主人で…事故が起こる訳ねぇ!!)
豊穣の女主人――そこは冒険者たちの憩いの場所だった。
幾多の戦場を生き抜いてきた猛者も、駆け出しの新米も、分け隔てなく受け入れる温かな空間。
笑い声と香ばしい料理の匂いが絶えず満ちている。
だからこそ、あの崩落は「偶然」では片づけられない。
「…ッ…アイツだ、あのジジイが何かやったに違いねぇ」
仲間たちが死んだときから彼の脳裏には、一人の老人の姿がずっとちらついている。
仲間の一人が、尊敬するロキを素通りしようとした老人を咄嗟に呼び止めた、その刹那――。
まるで厄神がとりついたかのように不幸な事が連続していった。
舌を噛み、机にあたり笑い話になるはずの些細な事故――そう思えた。
だが、フォークが防具の隙間に刺さり、その後は梁がまるで仲間を狙うように落下し、死亡した。
仲間を奪ったのは、あの老人――確たる証拠などどこにもない。だが、直感が叫んでいた。
彼はベッドから身を乗り出し立ち上がる。
椅子に掛けてあった剣を乱暴に掴み取ると、ダイヤはその重みを確かめるように鞘ごと腰に差し込んだ。
冷たい鉄の感触が掌を伝い、ずっしりとした重量が腰骨に食い込む。
「…確か…白髪のガキと話してたな…」
彼は記憶をたどった。あの老人は、確か白髪の少年と何かを話していた。
ならば、手がかりはそこにある。
すると突然、まるで彼が外へ行くのを引き留めるかのように、窓ガラスを叩く雨粒の音がポツリ、ポツリと響き始めた。
最初は小さな水滴がにじむ程度だったが、すぐに連続する雨粒が音を重ね、薄暗い部屋にざわめくように響いてくる。
ダイヤの視線は重く曇った窓へと引き寄せられた。
窓の向こうには、オラリオの冒険者たちが楽しげに言葉を交わしながらも、降り出した雨を避けるように足早に通り過ぎていく。
子供たちも、濡れるのを嫌がって互いに手を振り合い、別の道へと駆けていった。
皆が皆、肩をすぼめ、頭巾やマントを深く被り、雨粒から身を守るように急ぎ足で路地を抜けていく。
だが、その雨幕の中に――不自然に動かぬ一つの影があった。
「…ッ…ジジイ!」
ダイヤの口から、掠れた声が漏れた。
窓の外、雨に霞む路地に確かにあの老人の影が立っている。
だが、その姿には何か決定的な違和感があった。
雨は容赦なく降り注いでいるというのに、その背中は濡れていない。
布地が雨粒を弾く様子も、水滴が地面に落ちる気配もなかった。
確信した、あの老人はただの人間ではない、何かしらのスキルを持っている者だと。
勢いよく窓を開け、ダイヤは雨と風に煽られながら叫んだ。
「おい! ジジイ絶対にそこから動くんじゃあねぇぞッ!!」
返事はなかった。雨の帳の向こうで老人は相変わらず背を向けたまま、微動だにしない。
ガンッとダイヤは力強く窓を閉め、一歩扉へと進もうとした瞬間―――
ドンッ!
突如として横の本棚に叩きつけられるように、ダイヤの身体がぶつかった。
その勢いで本棚のガラスは爆ぜ、鋭い破片が四方へ飛び散る。無数の細い刃のような破片がダイヤの両腕に突き刺さり、血が噴き出した。
だが、彼は歯を食いしばるだけで一歩も止まらない。
レベル2の冒険者にとって、この程度の傷はただの擦り傷に過ぎなかった。
―――しかし
「…なッ!」
突き刺さった破片のいくつかは、ただの擦過傷では済まなかった。
右前腕、橈骨動脈のすぐ上。さらに左肘の内側、尺側皮静脈の走るあたり。鋭い破片は、まるで狙ったかのように血管の上に深々と突き立っていた。
じわり――ではなく、どくん、どくん、と鼓動に合わせて鮮血が噴き出す。
動脈をかすった傷は、切り口から高く赤い線を描き、壁や床へ散った。即座に止血をしなければ、数分で意識が遠のいてもおかしくない出血量だった。
「クソッ、こんな場所を…!」
経験のある冒険者として、直感的に理解した。これは単なる偶然の負傷ではない。
まるで傷つけるべき場所を選び、狙い澄ましたような軌道で破片が飛んできた。
(…だが…逃げるってことだけは…ッ…しねえぜ)
歯を食いしばると、腕を強引に動かしながら、扉へと一歩一歩向かう。血が噴き出すたび、鉄の匂いが部屋に満ち、床板を濡らす。
痛みと失血による眩暈が襲う。それでも――彼の執念が、彼を無理やり動かし続けていた。
その瞬間、不意に背後から異様な気配が走った。
ダイヤは血に濡れた腕に最後の力を叩き込み、呻き声を噛み殺しながら剣を引き抜いた。
激痛に視界が白く弾け飛ぶが、そのまま雄叫びと共に横薙ぎへと振り抜く。
しかし、手応えは一切なく、反撃を受けた形跡もない。――だが、それ以上に、彼の目に映った光景は恐怖を呼び起こすものだった。
「…ッ…! これはッ!?」
老人がいたのだ。
窓の内でも外でもなく――硝子という薄膜の狭間に、縫いとめられた影のように。
雨粒が打ちつけるたび、その輪郭は溶けかけ、しかしすぐに再び凝り固まってゆく。
ダイヤは息を荒げながら剣を構え直した。
だが次の瞬間、ぞわりと寒気が背を撫でる。
視線を落とすと――剣の刀身の中に、老人の姿が映り込んでいたのだ。
剣の刃に映る老人は、ただの反射ではなかった。刃の傾きに従って消えることもなく、むしろそこに根を下ろしたかのように、静かに佇んでいる。
「な…中にッ!」
腕はついに限界を迎え、力が抜けた手から剣が零れ落ちた。刃が床板に突き立ち、金属音が乾いた部屋に響いた。
落ちた刀身の中で、なおも老人は歩いていた。鋼鉄の表面をゆらめく水面のように、その姿が歪み、揺れながらダイヤを見据えている。
「死ねぇぇッ! クソジジイがぁあッ!!」
ダイヤは残る力を振り絞り、床に転がる剣へ足を振り下ろした。踏み潰し、砕け散らすつもりだった。
――その瞬間。
バゴンッ!
窓が轟音と共に開き、凄まじい突風が吹き荒れる。
床に転がっていたはずの剣が、まるで見えざる手に引き起こされたかのように縦に跳ね上がり、ダイヤの足は空を踏む。
次の瞬間、閃光のように刃が閃き、彼の腹に一直線に飛んできた。
咄嗟に身を捻ったが、完全には避けきれなかった。
脇腹に剣が突き刺さり、灼けるような激痛が全身を駆け抜けた。
「…グァァアアッ!!」
絶叫が狭い部屋を震わせ、ダイヤの身体は絶叫が狭い部屋を震わせ、身体は床へと崩れ落ちた。
支えを失った膝が力なく折れ、血の匂いと共に冷たい石畳が頬に迫る。
血が一気に噴き出し、赤黒い水たまりを作っていく。
心臓が脈打つたび、出血は加速し、視界はぐらつき、冷たさが四肢から這い上がってきた。
既に彼は両腕の脈も深く裂かれ、自分の体から剣を抜くことは不可能であった。
(このことを…誰かに知らせなくては…!)
震える腕を無理やり動かす。骨の軋む音と共に激痛が脳を突き抜けたが、彼は歯を食いしばり、床に手を這わせた。
指先に触れたのは、自らの血。温かいはずのそれが、もう冷たさを帯び始めている。
(何か残さなくてはッ……オレの…いや、オレたちの死が…無駄にならないために…意味を残さなくてはッ!)
その血を掬い取り、彼は壁へと手を伸ばす。
赤黒い指跡が床に震える指で文字を刻み始めた。
歪んだ筆跡。それでもはっきりと伝わる言葉。
自分たちを襲った理不尽の元凶――あの老人。
次の一文字を書き残そうとした瞬間、
――ドンッ!
部屋全体が大きく揺れ、埃が舞い上がった。
背後から本棚が勢いよく倒れ込み、ダイヤの身体に突き刺さっていた剣を押し込む形でさらに深く肉へとめり込ませた。
◆◆◆◆
ダンジョン七階層――薄暗い洞窟に、足音が響く。
歩いているのは一人の男。真っ黒な瞳に真っ黒な髪、オラリオでは珍しい髪色である。
頼れる武器は腰の短剣一本きり。身につけているのは、オラリオでも滅多に見かけぬ白の水兵服。戦場ではなく散歩にでも来たかのようで、とても冒険者の格好とは思えない。
ドンッ!
獣の吐息、湿った土を踏みしめる重い足音――。
鼻を突く獣臭が洞窟を満たし、岩の間から姿を現す。
「...オークか」
豚のような頭部に筋骨隆々とした人型の体。手には粗末な棍棒を握っている。体長は二メートルを超え、その巨体からは圧倒的な威圧感が漂っていた。
土と血の臭いをまとっていた。洞窟の湿気に混じって、男は顔をしかめる。
刹那オークは咆哮と共に突進した。地響きのような足音が洞窟を揺らし、棍棒を大きく振りかぶる瞬間―――
ドグオオン!
突撃してきたオークの顔面が突然爆発し、眼球と血肉が洞窟の壁に飛び散った。
巨体は惰性で数歩進んだのち、ぐらりと膝を折りかけた。
「ガアアァァッ!」
血に染まった顔を上げ、再び男へと突進するも次は、オークの右肩が爆ぜた。骨片と肉片が四散し、握っていた棍棒が洞窟の床に転がり響く。
なおも倒れまいと、巨体はよろめきながらも踏みとどまるが、胸部、腹部、太腿――次々と体の一部が弾け飛ぶたび、オークの絶叫は掻き消され、血煙と爆風だけが洞窟を満たしていく。
オークは全身が限界に達し、ついに巨体は膝から崩れ落ちた。床に叩きつけられた瞬間、最後の爆発が起こり、肉塊は見る影もなく散り散りとなる。
その爆発音により、続々とモンスターが洞窟の奥から這い出してきた。
振動に誘われるように、影が壁から剥がれ落ち、牙を鳴らしながら這い寄ってくる。
無数の赤い瞳が闇の中で煌き、湿った呼気と咆哮が洞窟の奥から押し寄せた。
だが、その中心に立つ男の眼差しは、なおも揺らがない。
「キラークイーン!」
男の名はキラ・吉影29歳――あるものを求め冒険者をやっている。
これから数話は、吉良吉影(ジョジョリオン)を物語の軸に据えて進めていく予定です。
8部の吉良は原作での登場回が少ないため、口調がおかしな部分もあると思いますがご了承ください。
次回から不定期更新になるので、気長にお待ちを。