虫の知らせ、というものがある。
一般に、嫌な予感、胸騒ぎ、直感と呼ばれるものだ。悪いことが起こる予感というものは、時折恐ろしいほどに当たる。不運や悪い流れ、邪気というものにはしばしば予兆がある。そういった予兆を感じとりやすい人間が、あるいは占い師や予言者と言われるのかもしれない。ともかく、その科学的根拠は無いものの、世の中には妙に勘の良い人がいるものだ。
ここに、そんな不思議な勘の良さを持つ少女がいる。「絶望です」という妙な名を名乗る彼女には過去がない。今よりも昔の記憶が殆どと言っていいほど抜け落ちているのだ。彼女の本当の名前は彼女自身も知らない、勿論年齢も不詳だが見た目は中学生から高校生のように見えた。
彼女の知人である何処か頼りのない雰囲気のシスターに依ると、彼女は地獄から来たらしい。地獄といえばよく劣悪な環境などの喩えに用いられる言葉であるが、この場合はある種明確なある場所を示していると言う。彼女はその言葉通りの「地獄」から、やって来たのである。です自身はやはりその場所の記憶は曖昧なのだが、ここではない何処かから来たという微かな実感はその話と妙に符合するのであった。そしてその所為か、彼女はこの世ならざるものを感じ、時にはその目で視ることが出来た。それはある時は神秘の存在であり、またある時は畏れるべき存在であった。彼女としてはそのような在るはずのない存在は当たり前に恐ろしく、出来れば関わりたくないというのが本音だった。
そんな恐ろしいものを愛する者もいる。家庭教師、刺杉あいすはホラーゲームを愛している。それだけでなく、恐怖にまつわる汎ゆるものへの好奇心と情熱に溢れている。
恐怖とは、感情というよりも生存本能に近い。自然や野生というものから距離を置いて久しい人間が根源的な防衛本能たる恐怖に直面することは少ない。人類種が文明として青年期を迎え、空と海と大地のことを幾許か知り尽くした気になろうとも、我々の未知は意外とすぐ傍にある。恐怖とは、脅威と未知に対峙する時に表れる。恐怖は本能の躍動なのだ。人の心は刺激を受けるたびに摩耗し、鈍感になっていく。感情の起伏は心身の発達とともに均される。そこで、恐怖は人間の心を最も手っ取り早くかき乱すものなのだ。刺激的で、魅力的で、蠱惑的。その深淵を好奇心という灯りを使って探求する。それがホラーマニア、刺杉あいすなのである。
地獄から来た少女、絶望です。ホラーを愛する家庭教師、刺杉あいす。二人は友人であり、同僚である。これは、二人が趣味と実益を兼ねて色々なものに首を突っ込んだり突っ込まなかったりしながら、様々な「怪奇」に触れる物語である。
第壱話 むしのいどころ
I県K郡某所。詳細な場所は伏せるが、インターネットで調べればそれなりに情報の出てくる心霊スポットに、絶望ですと刺杉あいす、そして二人の撮影クルー(通称、セバスチャン)が訪れていた。彼らは動画配信サイトにいくつかのチャンネルを有しており、この日もそのチャンネルに上げる予定の動画の撮影に訪れていたのである。
今回撮影を行うのは所謂心霊スポットの探索動画である。ホラー系の配信や動画を取り扱うあいすのチャンネルでは心霊スポット動画は定番の企画である。心霊スポットとされる場所は、日本だけで文字通り無数に存在する。噂程度の場所もあれば、歴史的な謂れがあり実際に事件が起きている場所もあり、知名度も多様である。今回訪れた場所は全国的に有名なわけではないが、地元では知る人ぞ知る謂わば穴場的なスポットであった。それは自然が作ったと思われる横穴であり、中は人が迷うほど深いわけではないが、奥は懐中電灯で照らさなければ暗くて見えないほどには深さのある洞窟だった。その最奥には人工的な祭壇があり、明らかに何かが祀られていた形跡がある。その由来は未だ不明であり、ここが何時代のどういった場所であったのかは専門家でも意見が分かれている、らしい。自治体に許可を取れば中に入って撮影が出来るらしく、彼らも地元の窓口に申し込み、撮影の許可を取り付けていた。
「直前で申し込んでも許可がもらえてラッキーでしたねー」
撮影場所に向かいながら、ですが呟く。
「あそこが撮影NGになった時はどうなることかと思ったけど、たまたま近くにここがあってよかったね」
その隣を歩いているあいすがそれに応える。
今回の撮影は諸事情により直前で場所が変更になり、この場所の下調べはまだ不足していた。「まあそこは編集でどうにかするので!」と撮影クルーの一人はなぜかあっけらかんとしていた。あいすとですの二人は些か訝しんだ。
日は傾き、ちょうど逢魔時を迎えようとしていた。
撮影開始予定地点の手前に差し掛かった時、目の前の道から三人組の男が現れた。大きめのカメラにマイクなどの荷物、明らかに同業者(動画投稿者)という佇まいだ。向こうもこちらの一行に気付いたらしく、一番前の男がちらと目線を送ってきた。三人とも特別変な格好をしているわけでは無いが、なんとなく定職に就いていなさそうな雰囲気がある。怪しい集団である。それはお互いの感想に違いない。様子を見るに彼らもここで動画の撮影をしてきた帰りのようだ。
「?どしたのですち」
その集団とすれ違おうという時、ですが突然あいすの背後に隠れた。あいすはですよりも少し背が高く、その影に入ると全身が隠れる形となる。ですはキュッとあいすの服の裾を掴む。
「いや、なんかヤダ」
「う、うん」
そんな風に言って男らから身を隠すですを庇うようにしながら一行は彼らとすれ違おうとした。
「こんにちは。もしかして、同業者の方でしょうか?つまり、動画の投稿を?」
不意に、一番前を歩いていた男が話しかけてきた。ですが裾を掴む手を強める。
「ええ、そうです。あなた方もこの先で撮影を?」
撮影クルーの一人、セバスチャンAが率先して応える。
「ええはい。ここは穴場と聞きましてね。我々は先ほど撮影を終えたばかりです」
男は一見すると柔和な笑顔で話す。
「それはそれは。撮影が被らず良かったです。お互い、無事に動画が仕上がるのを祈ります」
「それはどうも。あなた方もお気をつけて」
そんな拍子抜けするような普通の会話を経て、我々はすれ違った。と、二つの集団が完全にすれ違い、少し離れたところで男がこちらを少し振り返った。
「あの横穴、日が暮れたときの方がヤバいらしいですよ。お気をつけて」
「え、ええ。どうも」
それだけを言うと、男たちはそそくさと離れていった。最後に見えた顔は、なぜだか少し笑ったように見えた。
「なんか怖かったね」
「キモかった!」
「あはは!」
男らが見えなくなってから、あいすとですの二人は緊張を解いて、勝手なことを言い合った。
「あの人達、最近人気のある心霊系の動画投稿者ですよ。サイン貰えばよかったかな」
先ほどは大人の対応をしていたセバスチャンAが気の抜けたことを言った。
「へー。そうなんですか。チャンネル教えて下さい」
後ろで機材を運んでいたセバスチャンBがそれに応える。プライドとかは無いらしい。聞こえてきたチャンネル名をあいすが検索してみると、確かにそれなりに人気のあるチャンネルのようだった。出来たのは一年ほど前のようだが、最近急激に登録者を伸ばしているようだった。正直心霊系で有名なところとネタが被るのは微妙だ。リスナー層的にはあまり競合していないだろうが、向こうに集まっているような視聴者層にもリーチしていきたい。できれば先に動画を上げられるといいが…。
そんなことをあいすが考えていると、間もなく件の場所にたどり着いた。何処にでもありそうな岩壁に忽然と開いた巨大な横穴。その奥はまだ日が落ちきっていないにも関わらず、見通すことが出来ない。ただそこには暗く静かな闇が佇み、こちらを覗いている。時間帯も相まって、何者かがこちらへ囁きかけてくるような不気味さを感じる。正面から見える天井や壁は岩肌で出来ており、この穴が少なくとも近代の人工物ではないことが分かる。入り口は車が容易に通れるような高さと広さはないが、撮影メンバー四人全員がギリギリ入れる広さはありそうだ。
「うわぁ...こっわ」
ですが全員の共通した感想を率直に呟いた。その一言で少し緊張が解けた一同は各々撮影の準備を始めた。
「深層webからぐっさぐさぁー!こわくないよ!家庭教師の刺杉あいすです!こんぱすー。そして!」
「深層webから絶望です!地雷賭博師の絶望ですです!こんですちー!」
「さて、今日はある心霊スポットに来ています!」
こうして今回の心霊スポット動画の撮影が始まった。あいすの手にはあいすのチャンネルでは定番となった市松人形の通称・松子が抱えられている。横穴の入り口前でオープニングを撮影し、いよいよ中に入っていく。日は殆ど傾き、周囲の木々が影を長く伸ばしている。道は舗装されておらず、土と砂利のごつごつとした感触が足の裏に伝わる。そんな足元には烏だろうか、黒い羽根がいくつも落ちていた。意を決して足を踏み入れると、穴の中は外よりもひんやりと涼しかった。それなりに性能の高い懐中電灯で奥を照らすが、やはり奥の方はまったく見えない。
「中は真っ暗で何も見えないですねー。慎重に進んで行こうと思います!」
状況を伝えつつ、二人は穴の奥へ歩みを進めた。十メートルほど奥に進むと、少し開けた空間に出た。天井が妙に高く、岩壁も四人全員が入れるほど広くなっている。その一番奥には、噂通り異様な祭壇があった。おそらく木で出来た棚に三宝が並び、中央には暖簾が掛かっており、奥にある鏡が懐中電灯の光を反射し瞬いている。町に管理されていなかった期間が長かった割には妙に綺麗な状態だ。管理の一環で手入れされていたのだろうか。
「ですち?」
ですが俯いて静かになっているのを見て、あいすが声を掛けた。
「ここ、ヤバいかも」
それに応える代わりに、ですは震える声で呟く。その顔はまるで何かから必死に目を逸らしているように見える。対してあいすは特に何も感じるところは無く、いつも通りけろりとしていた。
「私は何も感じないけどなぁ」とあいすが呟きつつ、ですを気遣って手を握った。あいすは改めて周囲を観察する。やはりここは人が徒歩で入れる最奥のようで、この空間の隅には人が匍匐前進でギリギリ入れるような開口部はあるが、それ以外はただ壁に囲まれていた。祭壇には破れて文字の掠れた御札のようなものが貼られているが、生憎その文字は読めない。
「何が祀られていたんだろ」
暖簾の向こうに微かに見える鏡を見つめながら、あいすは呟いた。
「何かに見られているような気がする」そう言って目を伏せ続けていたですの手を握り、あいすが外に出ると、辺りは既に夜の闇に包まれていた。周囲は自然に囲まれているため、明かりはほとんどなく、穴の中の暗闇に目が慣れていなければ何も見えなかっただろう。
「ですち大丈夫?」
「うーん...まァなんとか」
あいすの声掛けにですが少し険の取れた声で応える。一旦カメラを止め、セバスBがフィルムチェックをしていると、ある場面で不意にセバスBの動きが止まった。そして、どうやら同じ場面を何度か見直しているようだ。「やっぱりそうだ」と、セバスBの口から思わず声が漏れる。
「何かありました?」セバスAが尋ねる。
「ここなんですが...」と言いながら、セバスBはセバスAにイヤホンを差し出し、セバスAはそれを耳に付ける。二人が画面をじっと見つめる。
「なんか足音みたいなのが聞こえないですか?」
セバスBが画面を見つめたまま言う。
「確かに、何か聞こえますね」とセバスA。画面にはあいすとです、そしてマイクを持つセバスAが映っている。撮影カメラを持っているのがセバスBである。あいすとですも音声を聞かせてもらったが、確かにガサ、ガサ、という音が聞こえる。画面に映っている人物はカメラも含めて全員が立ち止まっている。
「私たち以外には誰もいなかったよね?」
あいすが全員の考えを代表して呟く。
「やっぱり、何かいたんだ...」
ですが今しがた出たばかりの横穴を見つめながら言う。やはりですは何か(あるいは何者か)を感じていたようだ。
「何かって...何が?」
「そこまでは...」
「あと、ここ、なんか映ってるんですよ」
続くセバスBの言葉に全員が画面に再度注目する。セバスBが停止させた画面の左上には黒い塊のような何かが映っていた。画面は穴の中でただでさえ暗く、ピントも合っていないため、それが何かということまでは分からない。
「うーん微妙にボヤケてますね」
「編集の段階で何か分かるかもしれない」
「とりあえず撮れ高があってよかった」
などと全員が口々に呟いた。
それからエンディングパートの撮影をし、この日の撮影は終了となった。
「お疲れ様でしたー」
セバスAの言葉で一同の緊張は解け、撤収の流れとなった。
帰路はすっかり日が暮れており、四人は足元の悪い山道を慎重に降りていった。何処かで烏の啼く声が聞こえた気がした。帰りの車内は静かだった。
この日の夜、ですとあいすは夢を見た。
部屋の隅、洗面所、風呂場、街中、身の周りの様々な場所で虫の群れや巨大な虫が現れるというものだ。この虫の種類は蟻、蟋蟀などの昆虫、蜘蛛などの鋏角類や百足などの多足類など様々だった。最初は心霊スポットに行ったことによるストレスが影響して悪夢を見ているのだと二人は考えていた。だが、この夢は翌日も、その翌日も続いた。
夢は日々酷くなっていった。シャワーを浴びていると足元に何かが触れるのを感じ、目を開けると大量の虫が蠢いている夢。天井が緑色の昆虫に埋め尽くされている夢など、その悍ましさは日々増していった。それは、虫があまり得意ではない二人には悪夢そのもので、特にあいすはまいってしまっていた。二人の睡眠時間は短くなっていき、少しずつ衰弱していっていた。まるで頭の中を虫が這い回り、蠢き、のたうつような感覚。それは二人の意識と無意識をゆっくりと侵していった。
あの心霊スポットに訪れてから三日目の朝。この日の昨夜もあいすはあまり眠れなかったが、朝方の僅かな微睡みの中でまた虫の夢を見ていた。昼間は睡眠不足で活力が湧かず、普段の仕事にも影響が出ていると言わざるを得なくなっていた。
あいすは目を開く。と、そこには見知った友人の顔があった。その大きな翡翠のような目がこちらを少し心配そうに覗いている。あいすの口から、思わずその名が漏れた。
「ちょろすけ?」
つづく