君の隣を歩きたい。─車椅子の女の子が百合ハーレムを築く話 作:豚姫
その日の朝は、いつもと同じはずだった。
窓から差し込む光は薄暗く、曇り空から小雨の音がパラパラと降り注ぐ。
湿気を感じる布団を剥いで、ベッドの背もたれを起こすと、佐倉さんのバイタル測定が始まる。検温、血圧、脈拍のチェックをテキパキと終わらせると、私の頭を一撫でした。
「はい、おしまいね。じゃあ、つぎ睦美ちゃんだよー」
「はーい!」
佐倉さんが正面のベッドへ向かうと、睦美ちゃんの快活な笑い声が響く。楽しそうな二人の声を聞いていると、まるで病室が真ん中でくっきりと区切られたように感じた。あちらは光、そしてこちら側は闇といったところか。こちら側の空間は沈黙が支配している。
(そういえば、今日はまだ真央の声聞いてないな)
ふと、昨日の真央の様子が脳裏をよぎった。
好きな冒険小説も読まず、いつも美味しそうに食べてる焼き鮭を残して、ひたすら窓の外を見つめる真央の背中。
心配になって隣を見ると、真央は既に起きていて、昨日と全く同じように窓の外をじっと見つめていた。
「真央、おはよう」
私がいつものように声をかけると、真央の背中がぴくりと反応した。でも、それだけ。いつまで経っても返事はない。
「真央? 具合悪いの?」
聞こえなかったのかもしれない。
そう思ってもう一度呼びかけるが、今度はぴくりとも動かなかった。
「真央、だいじょ」
「うるさい」
──〝大丈夫?〟そう言いたかった言葉は、冷たい言葉にぴしゃりと切り裂かれた。
その瞬間、遠くで雷鳴が轟き、大きくなった雨音がやけに耳に響く。一瞬だけ明滅した光に照らされ、真央の背中が逆光を帯び、黒い影が私の前に立ちはだかった。
(真央、怒ってる……?)
まったく身に覚えがない。
私が記憶を探るように視線を彷徨わせると、正面の二人が検温の手を止めて、こちらを見つめているのが目に入る。
気まずい沈黙。それを破るように、再び否定されるのを恐れながらも、もう一度か細い声で尋ねた。
「真央、何か、怒ってる……?」
返事はなかった。真央が私の言葉を無視しているという事実に、私の心臓はきゅっと縮こまり、バクバクと音を立てはじめる。
(真央が、こわい)
もう一度声をかけようと口を開いては、怖くて閉じてを何度も繰り返す。そんな私を見かねた二人が口を開こうとした、そのときだった。
「もう話しかけてこないで。迷惑だから」
今度は私の目をしっかりと見て、そう言い放った。
「真央っち、それはひど──」
「これは私たちの問題だから。口を挟まないで」
睦美ちゃんの抗議を、間髪入れずに冷たい言葉で遮る真央。佐倉さんが探るように私たちの様子を見守る中、私はわけもわからずに呆然としていた。
その後の地獄のような雰囲気を、どう表現すればいいだろう。回診に来た先生たちは険悪な空気に戸惑い、私たちはただ押し黙る。真央だけはどこ吹く風で、私以外とは普通に会話をしていた。私だけを、見えていないかのように扱って。
(なんで、そんなことするの、真央)
睦美ちゃんの心配そうな視線が、今は逆に辛い。同情されている自分の惨めさに、息をするのも苦しくなった。
「……佐倉さん。プレイルームに、連れて行ってくれませんか」
今はここにいたくない。
ただ、一人になりたい一心だった。
「うん。行こっか」
私の声に佐倉さんはこくりと頷く。
睦美ちゃんの不安そうな顔に見送られながら、私は逃げるように103号室を後にした。
◇◆◇◆
プレイルームまでの道は天気も相まって、ひどく静かで、冷たい。
雨音を聞きながら、ただぼーっとしていると、いつの間にか目的地に到着していた。
「──柚華ちゃん大丈夫?」
心配そうに覗き込む佐倉さんの顔に、私は我に返って姿勢を正す。
「ごめんなさい佐倉さん。一人に、してもらえませんか……今は一人で考えたくて」
私が暗い顔でそういうと、佐倉さんは仕方ないというように少し悩んでから頷いた。
「わかった。でも、一人で抱え込みすぎちゃダメだからね。何か困ったら誰かに相談すること。いい?」
「…はい」
念押しを何回もした佐倉さんは、静かにプレイルームを後にした。
がらんとした部屋の隅で、私は何をするでもなく、大きな窓から外を眺める。ガラスの上を雨粒がいくつも筋になって流れ落ちていった。
(真央は、私が部屋移動するのがそんなに寂しいのかな)
真央の様子がおかしくなったのは、その話を聞いてからだ。……でも、寂しいというだけで、あんなに冷たい態度を取るだろうか。
(やっぱり、私が何かしたのかな)
過去の発言を顧みるが、いくら探してもそれらしきものはない。無意識に傷つけるようなことを私が言ってしまったなら別だけど……真央がそんなことで怒るかな。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
それでも、今までずっと真央に助けられて、支えられてきた。このままお別れなんて嫌だ。
あと、二週間。
それまでに、私たちは仲直りできるだろうか。
「はぁ」
重たい息を吐き出し、何気なくそばの机に視線を落とすと『親子でつくろう!おりがみプレゼント』という、子供向けの工作本が目に入った。
子供っぽいなぁと思いながらも、私は無意識にその本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。鶴、手裏剣、犬……。色々な作例を見ていると、ふと、一つの写真に目が留まった。
──黄色い薔薇。
写真の横には『花言葉:友情』と書いてある。仲直りには、ぴったりかもしれない。
(真央、喜んでくれるかな)
早く仲直りしたい。その一心で、私は箱から黄色の折紙を取り出し、本の指示にそって紙を折った。久しぶりの折紙に手こずりつつも、角を合わせながら丁寧に折り進めていく。
やがて、私の手のひらの上に、花びらの歪んだ一輪の黄色い薔薇の花が完成した。
(私って不器用なのかも……)
丹精込めて作ったのに、出来栄えはお世辞にも上手いとは言えない。ちょっぴり歪んだ薔薇をもう一度折り直そうか悩んだとき、バサリと後ろで何かが落ちる音がした。
「あ、やべっ」
音のした方を振り返ると、そこには車椅子の少年がいた。ミルクティーみたいな髪色の、たぶん私より年下の男の子。彼はスケッチブックを床に落としたようで、小さな体を折りたたんで慌てて拾おうとしている。
「手伝うよ」
車椅子を方向転換し、少年に駆け寄る。
私も落ちたスケッチブックへ手を伸ばそうとしたが、鈴風先生に前傾姿勢を禁止されてたのを思い出す。伸ばしかけた手を慌てて戻そうとしたとき、スケッチブックに書かれた絵に目を奪われた。
「これって……」
画用紙に描かれていたのは、色鉛筆で彩られた一人の少女。窓の外を眺める、その横顔は紛れもなく〝私〟だった。頬のガーゼ、少し癖のあるアッシュブロンドの髪。ヘーゼルの瞳に混じる、微かな緑の色まで。事細かに描写されている。
「そのっ、ごめんなさいっ!すごく絵になってたから、勝手に描いちゃって…!」
少年は慌ててスケッチブックを拾い上げ、身体を90度に折らんばかりの勢いで頭を下げた。その必死な姿に、私は思わずふっと笑ってしまう。
「気にしてないよ。それより、絵上手だね」
そう言って微笑みかけると、彼はおそるおそる顔を上げた。リスみたいにくりくりとした丸い瞳が、安心したように細められる。そして、照れたようにぽりぽりと頬をかいた。
「あ、ありがとうございます…!オレ、
太陽くんは、少し早口で自己紹介をしてくれた。私も自己紹介をすると、嬉しそうに自分のことを話し始める。
「オレ〝筋ジストロフィー〟っていう、全身の筋肉が少しずつ衰えていく病気なんです。最近はもう自分の足で歩くのは難しくなっちゃって。さっきスケッチブックを落としちゃったのも、指が疲れやすいからで、えへへ」
彼は本来なら重く、辛いはずの自分の境遇を、まるで昨日の天気の話でもするように、あっけらかんと笑い飛ばした。
太陽くん、すごい。ほんとに太陽みたいだ。私もいつか、こんなふうに自分の境遇を笑い飛ばせるようになるのだろうか。……彼の明るさなら、私の抱えてる問題すらもポジティブに捉えることができるのかな。
「……太陽くん、ちょっと聞いてもらってもいいかな」
気づけば、私は目の前の小さな男の子に助けを求めようとしていた。
初対面の相手だからだろう。何のしがらみもなく、今の気持ちを素直に話せそうな気がして、気づけば、私はこれまでの経緯を全て太陽くんに話していた。
「──そんな感じで、今同じ部屋の子とうまくいってないんだ。……あ、ごめんね。年下なのにこんなこと相談しちゃって」
「全然気にしないでください!オレでよかったら、いくらでも聞きますから!」
途切れ途切れの話を、太陽くんは一度も遮ることなく聞き終えると、彼はそれまでの明るい笑顔を消し、ぐっと小さな拳を握りしめた。
「って言っても、オレにわかるのは一個だけです」
彼は少し考えるように黙り込み、そして意を決したように顔を上げる。
「その人が柚華さんのこと、嫌いじゃないってこと。それだけ」
「……ほんとに?」
「はい!それだけは、オレが保証します!」
胸をぽんと叩いた太陽くんの言葉。証拠なんて一つもないのに、不思議と説得力があった。
「だから、ちゃんと話し合った方がいいですよ!このままじゃ、仲違いしたままお別れになっちゃいます」
──そんなの、嫌でしょ?
そう言って私を見つめる太陽くんの瞳からは、先ほどまでの幼さは消えていた。
私は、自分が本当に恐れていたことに気づいた。本当に怖かったのは、真央に拒絶されることじゃない──真央と何もかも分かり合えないまま、離ればなれになってしまうことだ。
「太陽くん。ありがとう行ってくる」
私が強く頷くと、太陽くんは顔を輝かせて、これまでで一番の笑顔で、親指を突き出した。
「頑張ってください!」
その声援を背に、私は机の上の黄色い薔薇を掴んだ。そして車椅子を翻し、103号室へとまっすぐに漕ぎ出した。
◇◆◇◆
(勢いで来ちゃったけど、いざとなると……)
私は103号室の扉の前で、車椅子を止めた。
また拒絶されたらと思うと、近くに行くのも、話しかけるのも、すごく怖い。扉にかけた手が氷漬けされたように固まる。
『このままお別れしていいんですか?』
脳裏に響く、太陽くんのまっすぐな声。
──それだけは、絶対に嫌だ。
私は汗の滲む手を握りしめて扉を開けた。
ゆっくり車椅子を漕ぎ進め、真央のベッドサイドへ着ける。文庫本を開いた真央は、私がすぐそばまで来ても一瞥だにしない。
重苦しい雰囲気の中、私はポケットから取り出した〝黄色い薔薇の折り紙〟を、彼女の視界に差し入れた。
「真央、これ──」
「いらない」
本を閉じることなく、淡々と告げられる言葉。引っ込めそうになる手を意地でその場に残す。
「お花好きだよね、喜んでくれるかなって……」
「だから、いらないって言ってるでしょ。しつこいんだけど」
パタン、と本が閉じられる。苛立ちを隠そうともしない瞳が、初めて私を捉えた。迷惑そうに細められた瞳に、私の折り紙を持つ手が震える。
(ひどいよ、真央)
私が心配するのも、お話ししたいのも、仲直りしたいのも、真央のことが大切だからだ。なのに、全然伝わってない。それが悔しくて、仕方ない。
「……捨ててもいいから」
私の掠れた声に、真央の肩がぴくりと揺れた。捨ててもいいから、せめて私の気持ちくらい真央に知って欲しい。
「真央が私のこと、どう思っていようと関係ないよ──私が真央のこと〝大好き〟なのは変わらないから」
しっかりと目を見つめて私の気持ちを伝えた。真央がいくら私を拒絶したって、私の真央を大切に思う気持ちは変わらない、そう伝えたかった。
しかし、その言葉を口にした瞬間、真央の瞳が、戸惑いと苛立ち、そして隠しきれない痛みの色で、ぐらぐらと揺れるのがわかった。
「……なんで、なんで、そんなこと言うのよっ」
雨音の響く室内に、ぎりっと歯を食いしばる音が聞こえた。真央は持っていた文庫本を叩きつけるようにテーブルに置き、勢いよく立ち上がると、怒鳴りつけるように言った。
「私が、どんな気持ちであんたを避けてるのか知らないくせにっ、勝手なこと言わないでよ!!」
車椅子に乗った私の前に、真央の怒りに満ちた顔が広がる。
なにそれ、そんなのっ──。
「知らないよっ…!私、言われないとわかんないし、真央がどんな気持ちなのかなんて全然わかんない。だから、真央の考えてること私に全部教えてよっ…!!」
私の前に立つ真央のその手を握りしめた。
「っ、あんたには関係ないでしょ!」
「関係なくないよ…ッ!!」
乾いた喉が裂けそうになった。
掴んだ右手の中には、黄色の折り紙があった。真央が受け取ってくれることを信じて、強く握り直す。そうだ、私は仲直りしたくてここまで来たんだ。
「関係なくなんて、ない…! 私たち友達だって、真央がそう言ってくれたとき、私すごく嬉しかった。だから、またあの時みたいに、友達としてやり直そうよ!」
病院だってことも忘れて叫ぶ私の声に、目の前の黒いガラス玉みたいな瞳が、黒く濁っていった。私の掴んでいる手から力が抜けて、ぐっと重くなる。
「冗談じゃない」
パシン、と乾いた音が響いた。
手に熱い衝撃が走り、折紙が私の手から弾き飛ばされる。少し遅れて、叩かれた手の甲がひりひりと痛みはじめ、脈打つように熱くなった。じわじわと赤くなっていく皮膚に、自分の状況をゆっくりと飲み込んでいく。
呆然としたまま顔を上げると、真央は信じられないという顔で、自分の震える右手を見つめていた。そして、私の顔と赤くなった私の手を見て、苦悶の表情を浮かべた。
(なんで)
真央のことが、わからない。
(なんで、真央が、そんな顔するの)
私を傷つけたはずの真央が、誰よりも深く傷ついた顔をしている。私を叩いた右手を左手でぎゅっと握りしめ、震えながら残酷な言葉を口にした。
「私は、あなたのことなんて嫌いよ」
ひび割れ、震えた声で、真央は言った。
「友達だなんて、思ったこともない」
今度こそ、終わりだった。
ひたすら、私の頭の中で言葉がリフレインする。病室は驚くほど静かで、私たちの浅い呼吸だけが響いた。その言葉を最後に、真央は布団に潜り背中を向ける。小さく震える肩に、私は何もできなかった。
床に落ちた黄色の折紙。
ゴミのように床に落ちたそれは、もう薔薇には見えない。まるで私の心みたいに、ぐしゃぐしゃに潰れて見えた。