君の隣を歩きたい。─車椅子の女の子が百合ハーレムを築く話   作:豚姫

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5話 ボロボロの心

 

 

 

 まただ、また暗闇の中から声が聞こえる。

 いくつもの声が、私を責め立てるようにして、まとわりついて離れてくれない。

 

 

『お父さん…身体がぐちゃぐちゃになっちゃったよ。これじゃあ、お仕事できないなぁ。本当に、何で柚華(ゆずか)じゃなくて、お父さんが死んじゃったんだろうなぁ?』

 

 ごめんなさい、お父さん。

 そうだよね、生き残るべきなのはお父さんだったよ。

 何もできない私じゃない。

 お父さんは病院を経営してる凄い人なのに、どうして私なんかが生き残ってしまったんだろう。

 

 

『柚華…お母さん先行ってるからね。貴方みたいな子、もう知らないから』

 

 お母さん、待って、置いてかないで。

 私1人じゃ寂しくて、息もできないよ。

 

 

『ゆず…何で、助けてくれなかったの?』

 

 ごめんなさいお姉ちゃん。

 目の前で倒れているのを見ていたのに、私は諦めて気を失った。

 本当に、ごめんなさい。

 

 

『ねぇ、ゆずちゃん!お母さんたち助かったんだよね?お姉ちゃんが助けてくれたんだよね!?』

 

 わからない私にはわからないよ。

 ごめんねももちゃん。私何もできなかったよ。

 

 ごめんなさい。 

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 

 ごめんなさ──。

 

 

「─── ─ ──?」

 

 

 だれ?

 闇の向こうから、誰かの声がする。

 

 

「─── ──。───!」

 

 

 分厚い水の膜を隔てたみたいに、くぐもって聞こえる声。誰か私のこと呼んでるの…?

 

 

 

「──ちょっと、大丈夫なの?」

 

 頬を優しく、でも何度も叩かれる感覚。

 その衝撃で、私にまとわりついていた暗闇が、すうっと潮が引くように消えていく。

 

 はっ、はぁっ、と自分の荒い呼吸の音で、現実世界に引き戻された。

 

「っ、まお、ちゃん…?」

「…待ってて、いまナースコール呼ぶから」  

 

 隣から聞こえたその言葉に、私はハッと我に返った。

 それは困る。体の具合が悪いわけじゃないのに、夜勤の看護師さんの手を煩わせるのは申し訳ない。

 

「ぁ、ま、待って。だいじょぶ、ほんとに、悪い夢を見てただけだからっ…」

「悪い夢って…顔、真っ青よ。本当に、それだけなの?」

 

 心配そうな声色に、私はかろうじて頷いた。

 私のせいで、彼女を起こしてしまったのかもしれない。そう思うと、罪悪感で胸が押し潰れそうだった。

 

「はぁ…これ使っていいから」

 

 ため息まじりの声。

 目元に柔らかな布が押し当てられる。じわり、と私の涙が、綺麗なハンカチに吸い込まれていくのがわかった。

 

 私、泣いてたんだ……。

 

「手、握っててあげるから。ちゃんと寝て」

「だ、ダメだよ…!それじゃ、真央ちゃんが疲れちゃ─」

「はいはい。夜中だから静かに」

「ぁ、ごめん…」

 

 拒む言葉は、もう出てこなかった。

 繋がれた手の温かさだけを頼りに、私はゆっくりと意識を手放していく。

 

 悪夢の気配は、もうどこにもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇

 

 

 

 真央ちゃんの手の温もりに包まれて、久しぶりに安らかな眠りだったはずなのに、一般病棟3日目の朝、私は実に2週間ぶりの食事に苦しめられていた。

 

 作業療法士《さぎょうりょうほうし》の森先生が運んできたのは、食べやすそうなお粥とスープ。

 右手はまだギプスが外れていないので、左手にスプーンを握りお粥をゆっくりと口元へ運ぶ。

 

「ぅ…きもち、わる…」

「無理しないでいいからね」

 

 楽しみにしていた2週間ぶりのご飯は、まったく喉を通らなかった。

 なにしろ、PICU(小児集中治療室)では絶食が基本で、食事は点滴で賄われる。固形の食事は久しぶりで、胃がびっくりしてるみたいだ。

 

 

(頭が、ぐわんぐわんする…なんで、わたしこんな目に合ってるんだろう)

 

 食事のためにベッドは30度傾き、私は半座位の態勢になっている。

 2週間も寝転んでいた身体は、急な姿勢の変化に耐えきれず、血の気が引いたように視界が揺れる。反射的にぎゅっと目を瞑った。

 …本当に、最悪の気分だ。

 

「もぅ、限界です…」

「ん、よく食べたね。左手でちゃんと食べれてたし、偉い偉い」

 

 おかゆとスープを半分ほど残してしまった。

 農家さんごめんなさい、と心の中で謝る。そんな私の頭を、森先生は優しく撫でた。

 

「無理しないでいいんだからね。…あ、そうそう、本郷先生が柚華ちゃんとお話ししたいみたいで、この後すぐ来るらしいよ」

 

 本郷先生……。

 昨日の嵐のような登場を思い出し、億劫な気持ちが胸に広がった。

 なにせ、今は眩暈で気分が悪い。あの独特のテンションに、今の私がついていける自信はなかった。

 

「じゃ、またね。何かあったら言うんだよ」

「…はい」

 

 森先生の足音が遠ざかっていく。

 

 

 私は目を伏せて、じっと不快感の波が過ぎ去るのを待った。

 やがて、控えめに、けれど躊躇なく病室の扉が開く。

 

 

「柚華くん!やぁやぁ…って。おや、今日は具合が悪そうだね」

「わかるん、ですか…?」

「もちろん。ちゃんと見てるからね、君たちのことは」

 

 昨日とは打って変わって、その声は羽のように柔らかく、低いトーンだった。

 私に気を遣ってくれているのがすぐに分かり、少しだけ身構えていた力が抜ける。

 それに、今日はあの奇抜な星型の眼鏡ではなく、知的な印象のリムレス眼鏡をかけている。それだけで、いくらかまともに見えた。

 

 先生はベッドの横に椅子を持ってくると、少し距離をあけて腰掛けた。

 そして、抱えていたクマのぬいぐるみを、ぽすん、と自分の膝の上に乗せる。

 

「クマ五郎。どうやら柚華くんは、今日船旅の途中らしい」

「…ふなたび?」

 

 思わず聞き返すと、先生は真面目な顔で頷いた。

 

「そう。世界がぐるぐる回る、長い船旅だよ。そういう時はね、一点をじっと見つめるといいんだよ。例えば、このクマ五郎のつぶらな瞳とか」

 

 あまりに突拍子もない提案に、私は思わず、ぬいぐるみの黒いプラスチックの瞳を見つめていた。

 …言われてみれば、一点に集中していると、少しだけ眩暈が和らぐ気がする。

 

 先生は、私がなぜ具合が悪いのかまで正確に見抜いていたらしい。…それは、ただ仕事をこなしているだけの人にはできないことだ。

 

「…その子、名前あるんですね」

「彼は私の最初で最高のクライアントだからね。口が硬くて、聞き上手なんだ」

 

 先生は、いたずらっぽく笑った。その笑顔は、昨日見た胡散臭いものではなくて、まるで子供にするような、温かくて、少しだけ寂しそうな色をしていた。

 

 変な人。でも、他の大人たちとは何かが違う。

 この先生になら、聞けるかもしれない。

 

 ずっと胸につかえていた、あの質問。

 

 毎晩のように夢に出てきては、私を苛む、大事な人たちのこと。

 

「…あ、あのっ。先生、えっと」

 

 喉がカラカラに乾いて、声がうまく出ない。

 いざ聞くとなると、怖くてたまらない。言葉が張り付いて出てこない。

 

「大丈夫、ゆっくりでいいよ。時間ならいくらでもあるから。よし、深呼吸してみよう、はい息吸って───吐いて───。そうそう、リラックスが大事だよ」

 

 先生の優しい声に導かれるまま息を整える。

 

 そして、私は震える声で、ずっと聞けなかった言葉を口にした。

 

 

「…私の、家族はっ、生きてますか…っ?」

 

 

 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。

 チクタク──時計の音が、やけに大きく耳に残る。

 

 本郷先生は、ゆっくりと、本当にゆっくりと、浮かべていた笑みを消した。

 その表情は、ただ悲しいだけでも、同情しているだけでもない。これから嵐の中に飛び込む子供を、覚悟を決めて見守る大人の、真剣で、覚悟に満ちた顔だった。

 

「……そうか。1人でずっと悩んでいたんだね」

 

 先生は独り言のようにそう呟くと、ベッドの横に静かに膝をつき、私の視線と同じ高さに顔を合わせた。

 

「柚華くん、すまない。それはね、私が一人で答えていい質問じゃないんだ」

「え…」

「これは、君の心と体に関わる、一番大事な話だ。だから、君の主治医である鈴風先生と、いつも君のそばにいる佐倉さんと、そして私が、一緒に君に伝える責任がある。君も、その方がいいだろう?」

 

 諭すような、けれど有無を言わせない力強い言葉。

 先生は私の冷たい手を、大きな温かい両手でそっと包み込んだ。

 

「約束するよ。今日この後、ちゃんとお話をしよう。君が勇気を出してくれたんだから、私たちも全力で君に向き合う。……そのために、先生たちに少しだけ準備の時間をもらえるかい?」

 

 答えなんて、もう聞かなくても分かっている。

 

 その真剣すぎる瞳が。

 その絞り出すような声が。

 その祈るように握られた、手の温かさが。

 

 残酷な真実を、何よりも雄弁に物語っていた。

 

 堪えていた何かがぷつりと切れて、視界が滲む。私の頬を、熱い涙が止めどなく伝っていく。

 

 先生は何も言わず、ただ、私の嗚咽がしゃくりあげるような小さな震えに変わるまで、その手を離さずに、そばにいてくれた。

 

 

 

 

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