君の隣を歩きたい。─車椅子の女の子が百合ハーレムを築く話 作:豚姫
「それじゃ、ちょっと待っててね」
ひとしきり泣いた後、クマのぬいぐるみを抱えた本郷先生は後ろ髪を引かれるようにして103号室を出て行った。
しんと静まり返った病室。
ここにきてからまだ3日だけど、こんなに静かだったことは一度もなかった。
絶対みんなに気を遣わせている、自分の弱さが嫌になる。
「……」
先生を待つ間、私は無心でいた。
何かを考えれば胸が張り裂けそうに痛むから。
だから、何も考えない。
それでも、頭の奥で最悪の想定が疼いて、じわりと吐き気がこみ上げてくる。
真実を聞くのは怖いけど、この生殺しのような時間が続くのも、もう勘弁してほしかった。
(…結局無になれなかったな)
陰鬱な私の思考を遮るように、控えめなノックの音が鳴った。想定より早い到着に心臓が跳ねる。
ガラガラと扉の開く音に続いて、佐倉さんの声が響いた。
「ごめんね、みんな。今から柚華ちゃんとすっごく大事なお話があるの。少しだけ、プレイルームに行っててくれるかな?」
「…はーい」
「真央、いくぞ」
「…ええ」
程なくして、三人の足音が部屋から遠ざかっていく。パタン、とドアの閉まる音が、やけに大きく響いた。
病室は、さらに深く静まり返る。
入れ替わるようにして、三人の大人の、重い足音が入室してきた。
「柚華ちゃん開けるね」
カーテンを開けたのは、表情の硬い佐倉さんだった。後ろには、主治医の鈴風先生と、さっき別れたばかりの本郷先生が立っている。
三人の大人が、私一人を見下ろす。
私は、ただ息を殺して、これから発せられる言葉を待つことしかできなかった。
すると、それを見かねたのか本郷先生が口を開く。
「…さっきぶりだね。クマ五郎が『柚華くんは大丈夫だろうか』って心配してたから、急いで来ちゃったよ」
緩く笑う本郷先生に、鈴風先生が「本郷先生」と、咎めるような低い声をかけた。
その一言で、本郷先生は「おっと、失礼」と悪戯っぽく片目をつぶり、すっと表情から笑みを消す。
本郷先生のおかげか場の空気が少しだけ緩み、バクバクしていた私の心臓もいくらか落ち着きを取り戻した。
しかし、その束の間の安寧は、鈴風先生が覚悟を決めたように口を開いたことで、終わりを告げた。
「柚華ちゃん、落ち着いて聞いてくださいね」
ごくり、と喉が鳴る。先生の真剣な瞳から、もう逃げることはできない。
一瞬のようで、永遠のように長い沈黙。
やがて、先生の唇が、重い言葉を紡いだ。
「あなたのお姉さんと妹さんは──」
世界から、音が消えた。
先生の唇の動きだけが、スローモーションのように見える。
「──生きています。そして、柚華ちゃんと同じように、2人ともこの病院にいます」
時が、止まった。
自分の描いた理想通りの展開に、脳が理解を遅らせる。そんな都合のいいことあっていいのだろうか?本当に生きてる?
「……うそ、だ」
絞り出した声に、本郷先生は首を振った。
「嘘じゃない。二人とも生きてるよ。
それ以上、何も聞こえなかった。
姉と妹が生きている。
その事実だけが、雷のように私の意識を打ち、世界を真っ白に塗りつ潰していった。
「──か、くん?」
2人に会いたい。会って喋りたい。
「柚華くん…!大丈夫かい?」
本郷先生の焦ったような声で、私ははっと我に返った。
「あ…ご、ごめんなさい」
お姉ちゃんが、ももちゃんが、生きている。
嬉しい。会いたい。今すぐ会って、その温もりに触れたい。
「2人とも、ずっと君に会いたがってたよ。君さえよければ、すぐにでも面会できるように手配するけど──」
「会いたいですっ…!」
食い気味に答える。
声が、想いが、涙になって溢れそうだった。
「わたし、ずっと、2人に会いたくて…っ!」
「うん、うん。わかったよ。いつがいいかな?」
「明日…は、その、ダメですか…?」
恐る恐る尋ねると、本郷先生は今までで一番優しい顔で笑った。
「オッケー、オッケー。そしたら明日の午後、私が二人をここに連れてくる。約束だ」
差し出された本郷先生の小指に、私はおそるおそる自分の指を絡めた。
指切りげんまん。その子供じみた行為が、今は何よりも確かな希望に思えた。
(…変な人だなんて思って、ごめんなさい)
誰よりも真摯に、私たち子供に向き合ってくれる、優しい先生なのに。
しかし、その安堵は、鈴風先生が静かに紡いだ次の言葉によって、ガラスのように砕け散ることになる。
「……ここからは、柚華ちゃんにとって辛い話になりますが、大事なことだから聞いてくださいね」
鈴風先生の顔が歪む、悲しそうな顔で私を見た。
「……柚華ちゃんのお父さんとお母さんは、あの事故で、亡くなりました」
先生の唇の動きだけが、やけにゆっくりと見えた。
周りの空気の音も、自分の心臓の音も、何も聞こえない。まるで、分厚いガラスの向こう側の出来事みたいだった。
不思議と、驚きも、涙もなかった。
お父さんはあんなに血を流していた。身体だって変な方向に曲がってたし、助かるはずがないとわかっていた。
お母さんは、もしかしたらって、淡い期待を抱いていたけれど。そうか、お母さんも……。
先程までの熱が嘘のように、すうっと心が冷えていく。
そうか、もう家族四人で旅行に行くことも、くだらないことで笑いながらご飯を食べることもないんだ。
夜、眠る前にお母さんが本を読んでくれることも。
難しい問題が解けた時に、お父さんが頭を撫でてくれることも。
毎日毎日、二人に褒めてもらいたくて必死に勉強した、あの日々も。
全部、もう、一生訪れない。
理不尽で、受け入れ難い真実。
全てはあの車の運転手のせいだ。
私たちの日常を奪った、あの車。
毎晩のように夢に出てきたから、嫌というほど覚えている。
「柚華くん…思っていることがあるなら、先生になんでも──」
「シルバーの、セダン」
本郷先生の優しい言葉を、私は遮った。熱に浮かされたように、記憶が溢れ出してくる。
「ナンバーは、っ…富士山30─、あ1─-26。乗っていたのは高齢者の、男性。……私覚えてるんです、昔から記憶力が良くて…それに、何度も、何度も何度も夢に出てくるからっ…」
息継ぎも忘れ、早口にまくし立てる。三人の大人が、息を呑んで私を見ているのが分かった。
「お母さんと、お父さんの命を奪った人が、呑気に暮らしてるなんて、絶対に許せないですよ…。私なら大丈夫ですからっ、警察の人を呼んでください。事情聴取でもなんでもしますからっ」
本郷先生が痛ましそうに顔を歪めた。
先生は私の手を握る手に、そっと力を込める。
「…柚華くん。君のその気持ちは、誰にも否定できない。当然の、怒りだ。でもね、今は、君の心と体を休ませることが一番大事なんだ」
「嫌です」
私は、その手を振り払うことはせず、そっと自分の手を引き抜いた。
「休んでいる間に、その人が逃げてしまったら…?何もかも忘れたふりをして、毎日笑ってご飯を食べているのかもしれない…。そんなのは、許せません。お父さんもお母さんも、浮かばれないです」
私の必死の訴えに、今まで黙っていた鈴風先生が、静かに口を開いた。
「大丈夫ですよ、柚華ちゃん。犯人は、もう捕まっていますから」
「え…」
「事故を起こした相手も、あなたたちと同じように、今は病院で治療を受けています。…警察が常に監視しているので、どこかへ逃げたりはしません…だから、今は、あなたの心の傷を癒すことだけを考えてください」
鈴風先生の静かな言葉は、私の燃え上がるような怒りに、冷たい水を浴びせた。
頭から抜け落ちていた。
お母さんたちが死んでしまうほどの事故だったんだから。相手も無事では済まないなんて考えればわかるのに。
犯人は、もう捕まっている。
その事実に、私は安堵したのだろうか。それとも、憎しみの矛先を失って、絶望したのだろうか。
自分でも分からない感情の渦の中で、私はただ、シーツを強く握りしめた。