新しい創造へ   作:なつきさん

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歴代アースマイトが人身御供過ぎるので、「役目のためではなく生きるために生まれた」と伝えたかった。



テセウスの船

【世界を救う英雄よりも、】

 

 

スバルは闇の底から浮かび上がるように目を開いた。

胸はまだ熱に灼かれ、息を吸うのさえ苦しい。

それでも、生きていた。

 

「スバル!」

泣き笑いの声で名を呼ぶのは、幼馴染であるカグヤだった。

 

彼はしばし瞬きを繰り返し、その顔を見つめる。

見知っているはずの顔。呼ばれたはずの名。

けれど心の中には、何も映らなかった。

 

「……すみません。どちら様、でしょうか」

 

カグヤの瞳が大きく揺れる。

その涙が零れ落ちるころ、竜神社の外の空はすでに群青に染まり始めていた。

淡い影が伸び、部屋の隅々まで満ちていく。

それはまるで、彼の記憶をすべて覆い隠してしまうかのようだった。

 

――耳の奥にだけ、声が残っている。

『命を繋いでやろう』

 

だが、その声はもう二度と彼を導かない。

記憶を封じたのは黒竜――アマカケルヌバタマノミコト。

大神龍の眷属たる黒竜の慈悲は確かに彼を生かした。だがその慈悲は、愛も罪も、すべてを闇に沈めたのだった。

 

冷たくも慈しむようなその響きだけが、再度記憶を失ったスバルの唯一の拠り所だった。

理由はわからない。けれど、その響きに抱かれると、生きているだけでいいのだと、初めて教えられた気がした。

 

――役目のために生まれたのではなく、生きるために生まれたのだと。

大人と呼べる年齢になるまで、そのきっかけを与えられずに過ごしてきたスバルに、誰ひとりとして教えてはくれなかったことだった。

 

 

  ◇

 

四季の里から離れた場所にある診療所。

診察室の空気は薄暗く、薬草と墨の匂いが漂っていた。

村の医師は帳面に筆を走らせながら、ため息をつく。

 

「症状だけを見れば……解離性健忘、というものに似ておりますな」

 

カグヤは息を呑んだ。

「……健忘、ですか?」

 

医師はうなずき、視線をスバルへ向ける。

「強い衝撃や心の傷で、自分に関する記憶がすべて抜け落ちる。

歩く、食べる、話す……日常のことは保たれている。これも典型例です」

 

スバルは首をかしげる。

「……つまり、オレは何を忘れているんですか?」

 

医師は筆を止め、苦笑した。

「ご本人がそう問うほどに、すべてを、ですな」

 

カグヤの胸に鋭い痛みが走る。

「……スバル、貴方は……全部を……」

声は震え、最後まで続かなかった。

 

スバルは困ったように笑みを浮かべる。

「まあ……でも、生きてるならいいんじゃないですか?」

 

その無邪気な一言が、かえって重く響いた。

 

  ◇

 

その帰り道、神殿の石段に差しかかると、六柱のひとりが彼らを迎えた。

春の神――ハルノウララカノミコトが、花の散るような声で呟く。

 

「……黒竜との契約を絶った代償かもしれません。」

 

白竜の声が、空から割り込んでくる。

澄み切った水音のような理屈っぽい響きで。

 

「黒竜との契約を絶った以上、もはや大地の舞手ではない。記憶を忘れたのであれば咎人でもない。

 大地の舞手とは国を救う(たて)でなければならぬのだから。」

 

カグヤは拳を握りしめる。

白竜の理屈も、春の神の含みも、彼には届いていなかった。

ただ石段に腰を下ろし、群青の空を仰ぐ。

 

「……いい天気ですね。商売するなら、こんな日がいいって、ツバメさんは言うでしょうね」

 

お世話になっている行商人――ツバメの笑顔を思い浮かべ、スバルは口元を緩めた。

「オレもそう思いますよ」

 

病み上がりの身で雇って貰ってすぐに休みを頂いて申し訳ないな、せっかくの商売日和なのに。と思いながら。

今のスバルにとって大事なのは、発注を間違えないこと。帳簿を正しく書くこと。慣れないことだが、やりがいがある。

それだけで、彼の暮らしには十分な実感があった。

 

カグヤの胸を締め付けるのは、その何気ない呟きだった。

英雄(大地の舞手)の資格を失った彼は、確かに“人並みの幸せ”の中に立っていたのだから。

 

――黒竜の慈悲によって命を繋がれた彼は、もう戦えない。

戦場の記憶もすべて失い、血を見れば顔を青ざめさる彼に、再び戦えと言うのは酷だろう。

 

カグヤも周りも、スバルに戦いを強要しなかったし、スバルが命の淵にあった理由も教えなかった。

 

  ◇

 

「そこの樽、逆さにしないように」

軽やかな声に振り返ると、行商人ツバメが手を振っていた。

 

戦場とは無縁の商店街。

そこにいる自分が不思議で、けれど確かに心地よい。

荷を運び、帳簿を開き、笑い声に混じって過ごす日々。

 

「そうそう、これもお願いできる?」

差し出された帳簿を受け取り、スバルは筆を走らせる。

紙の上に並ぶ文字は、流れるように整っていた。

 

ツバメは覗き込み、目を丸くする。

「……ほんと、きれいな字。最初からこんなに書ける人、なかなかいないよ」

スバルは苦笑する。

「そうですか? 理由は分かりませんけど……書いていると落ち着くんです」

 

記憶はなくとも、身体が覚えている所作だけは残っていた。

それが過去の痕跡だと、彼自身は知らない。

 

都から里へ荷を運ぶ途中、子供が樽の隙間に足を突っ込もうとした。

「おっと、そこは危ない。足を入れると怪我をしてしまいますよ」

反射的に声を掛けると、子供は目を丸くして逃げていった。

 

ツバメは笑って言う。

「面倒見がいいじゃない。あんた、やっぱり商人に向いてるよ」

スバルは首をひねった。

「そうですかね……まあ、悪い気はしませんけど」

 

夕暮れ時、最後の客が帰っていくと、スバルは深々と礼をした。

背筋を伸ばし、視線を逸らさず、言葉を区切る。

妙に整ったその仕草に、ツバメは「立派だね」と褒める。

スバルは笑って肩をすくめた。

「どうせなら丁寧にやった方がいいでしょうし。……商人の信用、大事ですから」

 

そう言いながら、ふと耳の奥に声がよみがえる。

『――生きろ。それでいい』

 

その響きに胸をざわめかせた瞬間、脳裏に浮かんだのは、黒い影。

けれど、なぜかその面影に重なるのは別人――微笑む少女の姿。

名を思い出せない、けれど確かに自分の隣にいたはずの誰か。

 

スバルは首を振って追い払うように笑った。

「……いや、気のせいか」

 

ツバメは首をかしげながらも、特に問いただすことなく店じまいを続けていた。

 

戦場は遠く、英雄譚もまた遠い。

白竜の声も、自分を救ってくれたらしい少女の影も、ここには届かない。

ただツバメのもとで荷を捌き、帳簿をつけ、商人仲間と笑い合う日々。

スバルは商人としての小さな誇りを胸に、“人並みの幸せ”を生きていた。

 

 

【貴方の隣に在りたかった。】

ミホシハバキの心臓を天に還し、流星崩落から始まる危機からアズマを救った後。

 

英雄は彼女の名だった。

白竜の光を背に、群衆の喝采に包まれるカグヤ。

その姿は凛として美しく、誰もが憧れる存在となった。

 

スバルは群衆の後ろから、それを眺めていた。

帳簿を抱え、商人仲間に小さく笑みを返す。

「……すごいな。本当に、絵巻物で読んだような英雄って実在するのですね」

驚きはする。けれど心は淡く静かで、明日の商いのことの方が気に掛かっていた。

 

「強い女性ですね。皆が惹かれるのも分かるような気がします」

遠巻きの称賛は嘘ではない。だが、愛も情もそこにはなかった。

彼の胸に残るのは、ただあの日の黒竜の声。

優しくも冷たく、抗えぬ響き。

『命を繋いでやろう』――その残響に、彼は今も惹かれ続けている。

 

カグヤは風に乗って聞こえたその言葉に胸を抉られながらも、涙を堪えて笑った。

人々に見せるのは英雄の微笑。

けれどその胸の奥で、ただひとりの名を呼び続けていた。

 

やがて夕陽は沈み、夜が訪れる。

月は静かに昇り、凍えるほど澄んだ光で地上を照らす。

太陽を忘れた国を、ひとりで見守るように。

 

国は救われた。

けれど二人の物語は、まだどこにも辿り着いてはいなかった。

 

……そのとき、風に溶けるように微かな声がした。

『――生きろ。それでいい』

 

スバルは振り返る。

けれどそこには、もう誰もいない。

 

  ◇

 

群衆の声が遠ざかり、夕暮れの空に月が昇り始める。

カグヤは立ち止まり、そっと目を閉じた。

 

――生きていてくれれば、それで十分。

それでも私は、あなたにもう一度、心を動かしてもらう。

 

言葉は遠回しになるかもしれない。

けれど、狙いは外さない。

大きく振りかぶって、胸の奥から放った想いを――

大地の舞手などではなく、ひとりの“女”として、まっすぐに、あなたへ届ける。

 

(忘れてしまった貴方を、私に恋させてみせる)

 

だって、ずっと前から私は貴方が好きだった。ならばその熱量を相手にぶつけるだけ。

恋の仕方なんて分からない。しかも相手は私を覚えていない。だったら空回りでも全力で頑張るしかない。

大地の舞手(英雄)としての笑顔の裏で、ただひとりを見つめる少女の気迫が燃えていた。

 

やがて夜が訪れ、月は静かに輝いた。

白い光が、彼女の決意を抱きしめるかのように。

 

大地の舞手(英雄)としての道と、ひとりの少女としての想い。

その二つを抱えて立つカグヤは、スバルへ声をかけるのであった。

 

「ねぇ……スバル。貴方のお仕事が終わったら、一緒にお茶屋にお団子を食べに行きましょう。美味しいんですよ」

 

大地の舞手(英雄)の言葉ではなく、ただの少女の誘い。

その一歩には、恋する乙女の精一杯の勇気があった。

 

スバルはきょとんとし、少し困ったように笑った。

「わかりました。ぜひ、ご一緒させていただきます」

 

そのかしこまった言葉に、カグヤは小さく首を振る。

「私相手に敬語は要りませんよ。気楽になさってくださいね?

 私も、この口調で慣れてしまっているのですが……貴方相手には、少し砕けた口調にするように心がけようと思います」

 

スバルにとって彼女は――命を救ってくれた、どこか既視感のある女性。

彼女は自分が何故命の淵に居たのか、どうして救ってくれたのか、教えてくれなかった。

――何故そこまで自分を気遣ってくれるのだろうか。

 

スバルは驚きと共に目を瞬かせ、やがて小さく頷いた。

「……そうですか。ありがとうございます」

その声には、ほんのわずかに硬さが解けていた。

 

二人の影が夕暮れの道に並んで伸びていく。

その頭上には、昇りはじめた月が淡く光を落としていた。

英雄譚の続きを照らすのではなく、

ただ二人の新しい恋の始まりを、静かに祝福するように。

そこから始まる物語は、英雄譚ではなく、ただの恋の物語だった。

 

 

茶屋を出て、夕暮れの道を並んで歩く。

二人の影は細長く伸び、やがて重なり合った。

 

スバルはまだ敬語を崩せない。

けれどそのぎこちなさが、なぜだか愛おしかった。

 

ふと、胸の奥で言葉が浮かぶ。

 

(役目のために生まれて生きるのではなく……生きるために生まれてきたのだと)

誰かに教えられたわけではない。

けれど隣に歩く彼を見ていると、不思議とそう思えた。

 

カグヤはそっと笑みをこぼす。ただの女の子の顔で。

 

(ならば私は――恋をするために生まれてきたのかもしれませんね)

 

そう心の中で呟き、肩を並べた歩みを一歩先へと進める。

 

(……スバルの命を救ってくださったことには感謝します。

 ですが――恋だけは譲りません。負けませんよ、黒竜)

 

いつか白梅の髪飾りを作ってくれたのはスバルで、スバルがつけている組紐はカグヤが贈ったものだと伝えられる日が来れば良いなと祈って。

 

頭上には白い月。

その光は英雄の道ではなく、二人のこれからを静かに照らしていた。




“大地の舞手”が黒竜の乗り手にも通用するのかわかりません。
民間伝承のようなものだと思っていますので、そう扱います。大事なのは雰囲気。
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