新しい創造へ   作:なつきさん

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やっぱり英雄なんてなるもんじゃない。


アリアドネの糸

【世界を救う英雄よりも、】

 

スバルは闇の底から浮かび上がるように目を開いた。

胸はまだ熱に灼かれ、息を吸うのさえ苦しい。

それでも、生きていた。

 

――闇の奥から声が響いた。

『命を繋いでやろう』

 

黒竜、アマカケルヌバタマノミコト。

その慈悲によってスバルは一命を取り留めた。

 

だが致命傷による失血と損傷は深く、彼の記憶は大きく削がれていた。

黒竜は現し世から退いている。けれど、その声だけは、なおも耳の奥に残っていた。

 

  ◇

 

彼はしばし瞬きを繰り返し、その顔を見つめる。

見知っているはずの顔。呼ばれたはずの名。

けれど心の中には、何も映らなかった。

 

「……カグヤを探しているんです」

再会の場で、スバルはそう言った。

目の前にいる私を見ながら、まるで“別人”に語りかけるように。

 

「私が……カグヤです」

縋るように名乗ると、彼は穏やかに首を傾げた。

「偶然ですね。同じ名前の方なのでしょうか」

 

胸が抉られる。

だが彼の瞳には、嘘も打算もなかった。

 

  ◇

 

医師は静かに告げた。

 

「……外傷と失血による虚血性の後遺症です。

 記憶の障害に加えて、顔を認識する力にも支障が出ています。

 彼は今、人を声や仕草で見分けているのです。

 

ですから――“今の姿の貴女”を、もう過去のカグヤさんと同一人物だと結びつけることはできないでしょう」

 

胸に突き刺さる言葉だった。

彼は確かに私を見ている。けれど、その視線には“私”はいない。

 

(……そういうことなのですね)

(だから、目の前にいる私を“カグヤ”とは認識できない)

 

胸の奥が裂けるように痛んだ。

縋りつきたい、叫びたい。

 

しかし、立場がそれを許さなかった。

大地の舞手としても、里長としても。

兄様と無邪気に呼んでいた頃には戻れない。

 

  ◇

 

市井の喧騒の中でも、彼は耳を澄ませていた。

誰かの呼び声がすれば、すぐに振り向く。

声の高さ、抑揚、言葉の癖――それが彼にとって唯一の手掛かりだった。

 

顔の輪郭は曖昧にしか残らない。

だが、耳の奥に響く黒竜の声だけは鮮烈に刻まれていた。

 

『生きろ。それでいい』

 

その響きだけが、記憶を失い、顔を識別できなくなった彼を支えていた。

 

 

夜、宿の寝台。灯りを落としても眠りは来ない。

(オレは……どうして、ここにいるんだろう)

 

幼馴染の名を呼んでも、顔が浮かばない。

ただ「カグヤを探している」と口走ってしまう自分がいる。

 

「偶然ですね。同じ名前の方なのでしょうか」――そう返した時の彼女の顔が、なぜか胸に残る。

裏切っているような気がして、息が苦しくなる。

 

「……オレは、誰なんだ」

 

声に出すと闇に吸い込まれていった。

耳の奥には、あの黒い声が残っている。

その響きだけが、記憶を失った自分を支えていた。

 

  ◇

 

黒竜は現し世から退いている。

巨躯も、美しい鱗も、いまはどこにもない。

ただ、耳の奥に残る声だけが、なおも彼を惹きつけていた。

 

深くて、熟していて、冬の暗さの中に灯る焚火のような声。スバルはそれを思い出すたびに、胸のあたりがふっと軽くなるのを感じた。理由は分からない。名前も過去も思い出せないのに、その響きだけは自分を包み、疲れた身体をやさしく支える。

 

夕刻の商店街の片隅、帳簿を閉じる手が一瞬止まる。風が通り、軒先の幟が揺れた。声はそこにはないのに、まるで後ろから抱き寄せられるような安心が戻る。スバルは眉を寄せ、思わず小さく笑った──誰に向けるでもない、無意識の笑みだった。

 

『……生きろ。それでいい』

 

あの低い響きが、記憶のざらつきを撫でていく。考えればおかしなことだ。命を繋いでくれたのが誰かは知らない。だが、その声を思い出すと、なぜか居場所が確かになる。目の前の帳面の墨も、ツバメの掛け声も、ほんの少しだけ鮮やかに見えるような気がした。

 

スバルは顔を上げ、遠くの空を見た。そこに黒竜はいない。だが胸の奥では、声が繰り返し言葉を紡いでいく。声に惹かれていく自分に気づきながらも、彼はそれを問いただすことすら忘れてしまう。問いの形を思い出すほどの記憶は、もう残っていないというのに。

 

商店街の喧噪が戻る。

スバルは筆を取り、淡々と帳簿の枠を埋めていく。だが耳の奥のその声は、ときおり潮の満ち引きのように戻ってきて、彼の胸の内側に小さな灯りをともしては消える。

 

──黒竜はそこにいない。しかし声は残り、彼を確かに連れ去っていく。スバルはまだその行き先を知らない。それでいい、と、その声は言う。

 

あの女性(カグヤ)はスバルに並ぶ影に気づくだろうか。気づかないままでいるだろうか。どちらでもいい。今は、声に縋るわけでもなく、ただその響きに少しだけ救われている自分がいるのだと、スバルは静かに受け入れていた。

 

 

この頃には、スバルは声に囚われていて、戻れなくなっていた。

 

【貴方の隣に在りたかった。】

 

ある日、彼は見てしまった。白竜と共に立つ私の姿を。

その瞬間、彼の胸の奥に黒い影がよぎったことを、私は知る由もなかった。

だが次の瞬間、彼の唇からこぼれた一言が耳に届いた。

 

「……羨ましいなぁ」

 

振り返ろうとしたが、足は動かなかった。

声を掛ければ、彼を繋ぎ止められたのかもしれない。

けれど、その一歩を踏み出す前に、彼は視線を逸らし、人混みに紛れて去っていった。

 

 

スバルが仮住まいとしている場所に行くと、机の上に組紐が残されていた。

かつて故郷から出立の折に、私が彼に贈ったもの。

繋がりを象るはずの糸は、忘れ物のように置かれていた。

 

私はそれを手に取り、胸に抱きしめた。

白梅の髪飾りを撫でながら、窓から月を仰ぐ。

そして静かに呟いた。

 

「……“今の私”では、貴方を繋ぎ止められなかったのでしょうね」

 

風が過ぎる。

スバルは自ら姿を消したのか。

それとも、黒竜がその想いに応えてしまったのか。

あるいは、声だけでは満たされず、どこかへ歩いて行ってしまったのか。

 

誰も、確かなことは知らない。だが一つだけ言えるのは――彼はもう、ここにはいない。

 

 

後に歴史書に偉業と共に名を記される彼女は、最期にこう言ったと伝えられる。

 

「アズマの国の英雄になるより、貴方と共に在りたかった。

 国を救えば、貴方も救えると信じていたのです」

 

役目のために生まれ、役目のために生き抜いた彼女が残したのは、遅すぎた気づきと深い後悔だった。

一方で、スバルは黒竜の声に導かれながらどこかで生を紡いでいるのかもしれないし、黒竜の元へ行ったのかもしれない。

 

もし彼がどこかで幸せに暮らしているのなら――それだけが、カグヤにとって救いになるのだろう。




人に生まれた意味などない。人の身でありながら生まれた意味を定義してしまい、永遠に囚われ続けた大地の舞手の話。
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