絶望少女と魔王達の神殺し 〜魔女狩りの世界に転生したので、神に抗います〜   作:なないろすらいむ

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第9話 谷底の記憶

バリは長い睫毛を伏せ、遠い記憶を辿るように語り始めた。

 

「――今の天女たちは、意志も知恵も持たぬ、ただ空っぽな器だ。だが、かつては違った」

 

セレスティアが背中の少女をそっと抱き直しながら、静かに息を呑んだ。

 

「そう。かつてこの地には、大地の神々と精霊たちが暮らし、その中に一柱の知恵の女神がいた。名をニンスンという」

 

「ニンスン様……」

 

アマンガラが、小さく呟いた。バリはそんな彼女を一瞥し、言葉を継ぐ。

 

「ニンスンは、魔王ジャランダラと共にこの地――サントーンカーシャヘルを治めていた。彼女の加護のもと、天女たちは知恵と意志を持ち、人々に寄り添う存在だったのだ。争いのない、豊かな時代だった」

 

「え……天女って、それに、ジャランダラって!」

 

ミツキが思わず声を漏らす。バリの深い瞳が、彼女をまっすぐに見据えた。

 

――ジャランダラ、翁が話していたアヤメと契約した魔王の名前だ。

 

「そうだ。今のように、神官に言われるがままに動き、いずれ死が訪れることを待つだけの、抜け殻のような存在ではなかった。だが天上神どもが、再びこの地に牙を剥いた」

 

バリの声に、初めて明確な怒りの色が滲んだ。

 

「ジャランダラは謀られて殺された。ニンスンもまた、魔女の烙印を押されて処刑された。……知恵の女神を失った天女たちがどうなったか、想像がつくか」

 

エリシェヴァが息を呑み、震える声で答えた。

 

「まさか……ニンスン様が守っていた、加護そのものが……」

 

「その通りだ」

 

バリは静かに、しかし重く頷いた。

 

「ニンスンという柱を失った天女たちは、意志も知性も失い、ただ天上神の理に従うだけの器へと成り果てた。神官どもが天女を『物言わぬ清き乙女』と崇めているのは、彼女たちが人としての心を奪われた結果に過ぎないというのに」

 

その言葉に、セレスティアの腕の中で眠る少女の寝顔が、いっそう痛ましいものに見えてくる。ライラが涙をこらえるように唇を噛んだ。

 

「そんな……意志も感情もなく、何も分からないまま生きてるだけなんて……」

 

「哀れなことだ。だが、話はまだ終わらない」

 

バリは玉座の肘掛けに手を置き、続けた。

 

「ニンスンを失ったこの地に、天上神は再び統治の手を伸ばそうとした。だが、思わぬ形でそれは阻まれることになる」

 

ライラが小さく首を傾げ、続きを促すように身を乗り出す。

 

「ジャランダラが遺した呪いだ。彼が処刑される間際にかけたその呪いにより、この地の川や海の大半は、人が触れれば即座に死に至る毒の沼と化した。天上神どもが手をこまねいている間に――東方より、また別の魔王が攻め入ってきたのだ」

 

『――あァ、テメェらが何も知らねェのは百も承知だ。だから言われた通りに動け。二つ目だ。水辺へは絶対に近づくな。川だろうが湖だろうが、水の一滴にすら触れるんじゃねェぞ』

 

ミツキの脳裏に、東の森を逃げ惑ったあの夜の光景が鮮明に蘇った。ラーヴァナの警告、追手だった神官兵たちが赤黒い濁流に触れた瞬間、肉も骨も一瞬で溶け落ちていった、あの理不尽なまでの即死。

 

(あれ……ただの毒の川とかじゃなくて。ジャランダラっていう魔王の、呪いそのものだったんだ……)

 

得体の知れない恐怖でしかなかったあの光景に、ようやく名前と輪郭が与えられていく感覚だった。ルークもまた、同じ記憶を辿ったのだろう、微かに息を呑む気配がミツキの隣から伝わってくる。

 

「その魔王が、今のサントーンカーシャヘルを……?」

 

ライラの問いかけに、バリは静かに頷いた。

 

「文明の魔王、ラーヴァナ。彼はこの毒に阻まれた天上神を尻目に、たちまちこの地を掌握した。奇しくも、彼の統治のもとサントーンカーシャヘルは、かつてないほど高度な文明を築くに至った」

 

バリは静かに息をつき、続けた。

 

「だが天上神にとって、魔王の統治する繁栄など到底許せるものではない。そこで彼らは、ラーヴァナを討つため、天上界の穢れなき土から一体の超人を創り出した」

 

「――っ!? 待ってください」

 

エリシェヴァが、戸惑いを隠せぬまま口を挟んだ。

 

「私が教会で教わったのは、天上神様御自身の裁きによって、文明の魔王が滅ぼされたという話でした。超人などという存在が介在したなど、聞いたことがありません」

 

セレスティアも小さく頷き、不安げにバリを見上げる。バリは二人の反応に、あぁ、というように静かに目を細めた。責めるでもなく、ただ哀れむような色を瞳に湛えている。

 

「――そうか。地上ではそう伝えられているのだな」

 

「違うのですか……?」

 

「違う」

 

バリは短く、しかし確かな声で否定した。

 

「ラーヴァナを討ったのは、天上神自身ではない。彼らが人間界に送り込んだ、一体の超人だ」

 

エリシェヴァとセレスティアは、顔を見合わせた。困惑がありありと浮かんでいる。ミツキとルークだけが、静かにその名を胸の中で反芻していた。かつてラーヴァナ本人と、アスタロトから聞かされた真実。二人の中では、既に繋がっている話だった。

 

「……やっぱり、そうだったんだね」

 

ルークが静かに呟いた。エリシェヴァが驚いたように振り返る。

 

「ルーク……? どういうこと、知ってたの?」

 

「うん。実はカルデア・ザフラーンにいた時に、アスタロト様から聞いたことがあるんだ。ラーヴァナを討ったのは超人だったって。……あの時は正直、半信半疑だったけど。バリ様の口から同じ話が出てくるなら、間違いないんだと思う」

 

「ですが……村の教会でそんな超人がいたなど、聞いたことが……」

 

セレスティアが言い淀む。バリは深く息を吐き、玉座の背に身を預けた。

 

「無理もない。彼は天上神への反逆の罰として、人間界から存在そのものを消された。魔界の魔王たちや、この私、地主神たちですら――彼が確かにいたことは覚えていても、その名だけはどうしても思い出せんのだ」

 

ライラが眉をひそめ、自分の記憶を探るように視線を宙にさまよわせた。

 

「名前だけ……そんなことが、本当にあり得るんですか?」

 

バリは苦く笑った。

 

「考えてみるといい。今この瞬間、彼の顔も、成し遂げた功績も、確かに脳裏にある。だが名を呼ぼうとした瞬間、それだけがすり抜けていく。天上神の理とは、それほどまでに残酷で、徹底している」

 

その言葉に、ルークの表情がわずかに翳った。

 

エリシェヴァは胸の前で手を握りしめ、震える声で呟いた。

 

「教会は、天上神様の栄光として語っていたことが、本当は名前さえ奪われた誰かの犠牲の上に成り立っていたなんて……」

 

「そうだ」

 

バリは静かに、けれど重く頷いた。

 

「地上に伝わる歴史の多くは、天上神に都合よく塗り替えられている。それが、この世界の理不尽の正体だ」

 

そして――と、バリは続けた。

 

「彼が土へと還ったその瞬間、大地そのものが、彼の力で歪んだ」

 

ミツキとルークの間に、緊張が走る。二人にとっても、ここから先は初めて聞く話だった。

 

「彼が最期に空間を引き裂いた傷跡こそが、このイリガルの谷だ。かつて一つだった国は、この巨大な渓谷によって東西に引き裂かれ、西をサントーンカーシャヘル、東をアガスティア連邦と呼ぶようになった。そして谷底――魔界と人間界の狭間となったこの地に、行き場を失った者たちが流れ着き、いつしか国を成した。それが、私の治めるクル国だ」

 

ミツキは思わず声を上げた。

 

「じゃあ、この国自体が……その方が命を懸けて作った場所ってことですか……」

 

「命を懸けた、というより――ある選択の果てに、世界を裂いた、と言った方が正しいだろうな。だが結果として、行き場のない者や、地上で穢れとされた者たちの居場所になったのは、救いだったと言えるかもしれない」

 

バリは一度言葉を切り、アマンガラへ視線を移す。彼女は静かに一礼し、代わって語り始めた。

 

「そしてもう一つ、旅の方々が地上で目にしてきたであろう不可解な現象――女性が神力を使えるという、本来ありえない事態についても。これも、彼が土へと還ったことに起因します」

 

ミツキとエリシェヴァが、はっと顔を上げた。まさか、という表情が二人の間に広がる。

 

「彼が大地に還った際、この一帯の土壌そのものが深く汚染されました。本来、天上神の理では神力は男にしか許されぬもの。ですがその理を縛る大地そのものが乱れたことで、女性はおろか、未亡人や奴隷等――穢れとされた者たちにまで、神力が宿ってしまうようになったのです」

 

「そうか、だから……地上の神官達は、私達を……」

 

セレスティアが青ざめた顔で呟く。バリが静かにその後を継いだ。

 

「地上の神官達が女を処刑して回っているのは、まさにその『理の乱れ』を正すためだ。天上神にとって、女が神の力を振るうこと自体が、許しがたい冒涜なのだよ。……彼は、怒りに任せてこの地を裂いたわけではない。ただその選択の代償が、結果として天上神の理そのものを揺るがし続けている」

 

沈黙が場を支配した。ミツキは膝の上で拳を握りしめる。知らなかった歴史の重さが、一気に肩にのしかかってくるようだった。

 

「……この子も、その被害者の一人ってことですね」

 

セレスティアの背で眠る少女を見つめ、ミツキは静かに、しかしはっきりと言った。バリは深く頷く。

 

「そうだ。知恵の女神という守り手を失い、意志を奪われたまま地上に落とされ、なお穢れとして迫害される――天女とは、この地の歴史そのものが生んだ、最も理不尽な犠牲者と言っていい」

 

「…………………」

 

バリの言葉が静かに玉座の間に染み渡り、誰も言葉を発せぬまま、重い沈黙だけが場を支配していた。

 その時沈黙を破ったのは、小さな身じろぎだった。

 

「……ん……」

 

セレスティアの背中で、消え入りそうな声が漏れた。

 

「っ……この子……!」

 

セレスティアが弾かれたように振り返る。閉じられていた少女の瞼が、幾度か震えるように瞬きを繰り返し、やがてゆっくりと開かれた。焦点の定まらない虚ろな瞳が、ぼんやりと宙を彷徨う。

 

「大丈夫? 私が分かる? ここは安全だから、怖がらなくていいのよ」

 

エリシェヴァが素早く歩み寄り、少女の顔を覗き込みながら、慈しむような声をかけた。少女はしばらく、まるで初めて光を見た生き物のように瞬きを繰り返していたが、やがてエリシェヴァの声に反応するように、ほんのわずかに首を傾けた。

 

「……あ……」

 

言葉にならない吐息のような声。意志の光はまだ薄く、どこか幼子のように頼りない。だが、確かにこの少女は、今、目を覚ましたのだ。

 

「よかった……本当に、よかった……」

 

セレスティアが涙ぐみながら、少女の頭をそっと撫でる。ライラもほっと胸を撫で下ろし、小さく微笑んだ。

その様子を静かに見守っていたバリが、玉座からゆっくりと立ち上がった。

 

「――目を覚ましたか。何よりだ」

 

バリの声に、少女がびくりと肩を震わせる。まだこの世界そのものへの怯えが、身体の奥に刻み込まれているのだろう。バリはそれを察したように、それ以上近づくことなく、静かに言葉を継いだ。

 

「旅の者たちよ。この子については、私から一つ提案がある」

 

「提案、ですか?」

 

ミツキが顔を上げると、バリは深い瞳で少女を見つめながら、ゆっくりと語った。

 

「この子を、これから先の危険な旅路へ連れていくのは、あまりに酷だ。まだ意志も定まらず、己の身を守る術も持たない。……もしよければ、この子はクル国で預からせてもらえないだろうか。ここならば、地上の狂気に脅かされることもなく、ゆっくりと心を癒していける」

 

セレスティアが少女を抱きしめる腕に、思わず力がこもった。

 

「……この子と、離れるということですか」

 

「ああ。だが、見捨てるという意味ではない。この国の巫女たちが、責任を持ってこの子に寄り添おう。そなたたちが再びここへ戻る日まで、必ず守り抜くと約束する」

 

アマンガラも静かに一歩前へ出て、頷いた。

 

「私たちも、天女という存在の哀しみを誰よりも知っています。この子を、蔑ろにするようなことは決してありません」

 

ミツキは、セレスティアの腕の中で瞬きを繰り返す少女を見つめた。まだ何も語れず、ただ庇護されるだけの、あまりにも小さな命。連れて歩けば、この先の戦いに巻き込んでしまう。だが置いていけば、それもまた一つの別れだ。

 

「……セレスティアさんは、どう思う?」

 

ミツキが静かに問いかけると、セレスティアはしばらく少女の頭を撫で続けた後、涙を拭って顔を上げた。

 

「……この子のためを思うなら、それが一番だと思います。魔女である私たちと一緒にいたら、いつかこの子まで傷つけてしまうかもしれない。ここでなら、きっと安心して眠れます」

 

「そっか……」

 

ミツキは小さく頷き、バリへと向き直った。

 

「分かりました。この子のこと、お願いします」

 

「承知した。任せておくといい」

 

バリが穏やかに頷くと、控えていた若い巫女の一人が静かに歩み寄り、少女をそっと抱き上げた。セレスティアはその手に自分の手を重ね、少女の耳元に顔を寄せる。

 

「必ず、また会いに来るから。それまで、ゆっくり休んでいてね」

 

少女は答えなかった。だが、その虚ろな瞳が一瞬だけ、セレスティアの顔をじっと見つめたような気がした。

 

巫女に連れられ、少女の姿が奥の間へと消えていく。その後ろ姿を見送りながら、玉座の間には、これまでとは違う、静かな安堵と、わずかな寂しさの入り混じった空気が満ちていった。

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