絶望少女と魔王達の神殺し 〜魔女狩りの世界に転生したので、神に抗います〜 作:なないろすらいむ
明くる日、聖レクス市の空は朝から重い雲に覆われていた。
診療所の窓から見える大通りは、かつての賑わいを失い、果物の露店は閑散とし、パン屋の前には子どもたちの笑顔がない。代わりに、不安のざわめきが石畳を這っていた。
エリシェヴァは机の上で薬草を刻むが、手は機械的に動くだけ。いつもと変わらない薬草の匂いが漂うが、胸の重さは消えなかった。
数年前、故郷の村で交わした契約が脳裏をよぎる。青年の深緑の瞳、蛾や蜂のように歪んだ翼。
「君は優しい。だから、傷つくだろう。」
癒しの力は、彼女を魔女にした。
この街では、魔女は火刑台に送られる。広場の教皇アダムスの石像が、まるで彼女を見張るようにそびえ立つ。
診療所は、熱気と苦しみの息遣いで満ちていた。
最初に運び込まれたのは、近所の露店で果物を売っていた少年だった。日に焼けた頬は異様に赤く、目は落ちくぼみ、荒い息が木の床に響く。
エリシェヴァは慌てて椅子に座らせ、額に手を当てた。
「どうしたの?」
声は穏やかだが、心臓が締め付けられる。
「朝から、ずっと……寒いんだ……」
少年の細い肩が震え、唇は青白く乾いている。脈を取ると、速すぎる鼓動が指先を打った。
「ただの風邪じゃない……」
呟きが漏れ、エリシェヴァの背に冷や汗が伝う。
彼女は棚から蜂蜜湯と薬草の包みを取り出し、少年に与える。琥珀色の液体が瓶の中で揺れ、薬草の匂いが漂った。
だが翌日、少年はさらに衰弱して戻ってきた。
唇は紫色に変わり、目は虚ろに彷徨っている。
「……水が……苦い……誰かが……呼んでる……」
母親の腕の中で繰り返される言葉。エリシェヴァの胸に恐怖が広がる。
(この病……自然じゃない。)
少年の目は、まるで何かに取り憑かれたように揺れ、母親のすすり泣きが部屋を満たす。
エリシェヴァは薬瓶を握り、ガラスの冷たさに震えた。
やがて、診療所の前には人が列をなすようになった。老人、若い母親、子どもたち──皆、同じ症状を訴える。
高熱、衰弱、幻聴。
「水が苦い……」
「誰かが呼んでる……」
その言葉が、診療所に重い空気を広げた。
こんな病、聞いたことがない。エリシェヴァの声は震え、額に汗が滲む。
薬棚は空になり、煎じ薬も乾いた薬草も尽きた。彼女は布を湿らせ、子どもの額に乗せ、水を飲ませる。だが、熱は下がらず、荒い呼吸が続いた。
(どうしよう…。水がもう無くなってしまったわ汲みに行かないと…。)
群衆のざわめきが窓の外から響き、浄化官の白いマントがちらつく。
(この病……教皇アダムスの目が届く前に、抑えなければ……)
「はい! これでいい?」
明るい声が、診療所の重苦しさを切り裂く。
振り返ると、先日診療所を訪れた黒髪の少女が立っていた。両手で抱えた水桶がずぶ濡れで、服の裾から水滴が落ちる。紅いツバキの髪飾りが、曇天の光に映えていた。
「お、お水! 重かったでしょうに。」
エリシェヴァの声に驚きが混じる。
「まあ、ちょっと腕がプルプルしてますけど、筋トレと思えば平気です!」
少女は肩で息をしながら笑う。
その笑顔は無邪気だが、瞳の奥には鋭い光が宿っていた。エリシェヴァは一瞬、肩の力を抜く。
「どうして、こんなことまでしてくれるの?」
声は小さく、疑念と感謝が交錯する。
「だって……困ってる顔してましたから。」
少女は屈託なく笑う。
その笑顔は、まるで春の陽だまりのように温かかった。だが、エリシェヴァの胸にざわめきが広がる。
(この子……私の秘密を見抜いてる?)
少女の瞳は、まるで彼女の心を覗くようだった。
――
その日の夕刻、最年少の患者が運び込まれた。八歳の少年。衰弱した体は母親の腕に抱かれ、唇は紫色に変色している。
「どうか、この子だけは、お願い!」
母親の叫びが診療所に響く。
エリシェヴァは奥歯を噛み、扉に鍵をかけた。外のざわめきを遮断し、灯りを一つだけ残す。
(やめなさい、エリシェヴァ。これは禁忌。見つかれば火刑台だ。)
心の中で、あの青年の声が彼女を止める。
だが、少年の荒い息と母親の涙が、彼女の心を締め付けた。
(目の前で死なせるのは、もっと嫌……)
震える指を組み、古い言葉を紡ぐ。
「お願いします……魔王様。
“豊穣”の魔王ベルゼブブ様……どうか私に力をお与えください……」
詠唱を終えると掌から淡い緑の光が溢れ、少年を包んだ。
熱が引き、荒い息が落ち着く。母親はすすり泣き、子を抱きしめる。
「生きてる……ありがとう……!」
エリシェヴァは唇を噛み、光が消えるのを待つ。
胸に残るのは安堵と罪悪感。
あの青年の声が脳裏に響く。
「君は優しい。だから、傷つくだろう。」
彼女は目を閉じ、震える手を握りしめた。
その瞬間、窓の外で人影が走り去る。怯えた目がこちらを振り返り、通りへ駆け出していった。
(見られた……!)
診療所の周囲に、ひそひそ声が広がる。
「光を見たぞ。」
「やっぱり、あの娘は……」
救いの奇跡が、“魔女の証”へと変わる瞬間だった。
エリシェヴァの心臓が跳ね、薬瓶が机に当たってカタンと鳴る。
(この街は、私を許さない……)
だが、あの少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「困ってる顔してましたから。」
その言葉が、なぜか希望のように胸に残った。
――――
──数年前。
エリシェヴァの故郷の村は、酷く荒廃していた。
畑は干上がり、ひび割れた土は赤茶けた傷口のようだった。井戸は涸れ、底に残る泥が腐臭を放つ。村人たちは痩せ細り、頬はこけ、目は希望を失っていた。
朝になると誰かが倒れ、そのまま動かなくなる。夜には常にすすり泣きが響いた。
幼いエリシェヴァは手に握ったパンの欠片を母に差し出すが、母は病に伏し、熱で赤らんだ顔で弱々しく微笑むだけだった。
父の瞳は、かつての温もりを失い、ただ空虚に遠くを見つめている。
エリシェヴァの胸を満たすのは、恐怖と絶望だけだった。
村の祭壇に集まり、村人たちは神に祈った。粗末な木の台に供物を置き、声を合わせて唱える。
「神よ、恵みを……」
だが、空は灰色に閉ざされ、風は冷たく吹き抜けるばかり。神は答えなかった。
――エリシェヴァは、両親の墓前で膝を抱え、震える唇で祈りを繰り返す。
だが、母の荒い息、父の空虚な目が思い出され、涙が止まらなかった。
(神はいない……この村は、死ぬだけ……)
村人たちは次々に倒れ、彼女も飢えに体が弱っていく。
ある日、村の外れで老人が焚き火の前で語った。
声は枯れていたが、どこか懐かしさに満ちていた。
「むかしむかし、この地には“豊穣の神”がいたという。田畑を潤し、病を癒し、大地に恵みをもたらした。だが、いつしか忘れられてしまったのだ。」
老人の目は遠くを見、炎の揺らめきに映る。
「その神は、森の奥の祠に眠ると言う。だが、近づく者は呪われるとも……」
村人たちは顔を見合わせ、恐怖に身をすくめた。
だが、エリシェヴァの胸に、かすかな希望が灯った。
(神が応えないなら……その“忘れられた神”に縋るしかない。両親の分まで、生きてみせる。)
その夜、彼女は両親の墓前に花を供え、村の外へ走った。
森は暗く、木々の間を冷たい風がうなる。足元の小石が素足を刺し、棘がスカートを裂いた。
だが、エリシェヴァは止まらなかった。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かした。
やがて森の奥、苔むした祠が現れる。
古びた石には誰も読めない文字が刻まれ、湿った空気に草の匂いが混じる。
祠の前で、彼女はなんとか掻き集めた少量の葡萄酒とパンを供え、膝を折り、両手を組んだ。
「どうか……この村を救ってください……! 私をどうなさってもかまいません。だから、お願い……!」
涙が頬を伝い、雫が地を濡らす。
その瞬間、祠から淡い緑の光が零れ、視界が歪んだ。
エリシェヴァの体が浮き上がり、まるで何かに引き込まれるように闇に溶ける。
森の木々が遠ざかり、彼女は目を閉じる。
次の瞬間、足元に固い石の感触が戻った。
開いた目に広がったのは、古びた神殿のような空間だった。
柱は苔むした石ででき、壁には古い文字が刻まれている。天井は高く暗く、淡い緑の光が全体を照らしていた。空気は湿り気を帯び、草の香りが濃く漂う。
(ここは……どこ?)
「その願い、確かに聞いたよ。」
背後からの声に振り返ったエリシェヴァは、息を呑んだ。
月明かりのような淡い光に照らされ、そこに立っていたのは青年の姿をした存在だった。
淡い茶髪が風に揺れ、草原を思わせる深緑の瞳が彼女を見つめる。整った顔立ちは穏やかで、微笑みは人間以上に優しい。
だが、その背に広がる羽が、彼の正体を物語っていた。
頭には二本の羊のような大きな角。片翼は蛾の翅のように透け、粉を散らすほど脆い。もう一方は先が蜂の羽のようにねじれた異形。
かつて白く美しく輝いていたはずの神の翼は、天の神々の呪いによって歪められていた。
「あなたは……」
エリシェヴァの声は震えた。恐怖と希望が交錯し、足が動かない。
「かつては“豊穣の神”と呼ばれた者。今は──ベルゼブブと呼ばれている。」
その名は、村人たちが恐れ忌む“魔王”の名だった。
だが、目の前の存在は恐怖を煽るどころか、膝を折り、幼い彼女と目線を合わせた。
「怖がらなくていい。君の祈りが、あまりに必死で、応えたくなっただけだ。」
声は柔らかく、まるで風に揺れる草のようだった。
「村を……救ってくださるんですか?」
エリシェヴァの声は涙で掠れる。
ベルゼブブは頷き、静かに言った。
「そのために来た。だが、力を渡すには契約が要る。君の命の一部を私に預ける代わりに、“癒し”の力を授けよう。」
彼の深い緑の瞳は、悲しみと優しさに満ちていた。
エリシェヴァは震える手でスカートを握り、両親の顔を思い出す。母の温もり、父の優しい手──それらが、彼女の小さな体を突き動かす。
「……はい。」
ベルゼブブは微笑み、彼女の小さな手を取った。
瞬間、緑の光が二人を包み、熱と温もりが体を駆け抜ける。心臓が脈打ち、命そのものが流れ込むようだった。
光が収まると、エリシェヴァの手にはかすかな緑の輝きが残っていた。
村に戻ると、奇跡が起こっていた。
衰弱していた村人たちが呼吸を取り戻し、頬に血の色が差す。畑に緑が芽吹き、井戸に水が湧く。村人たちは地に伏して涙を流した。
「神の恵みだ!」
彼らは叫んだ。
だが、エリシェヴァは知っていた。
救ったのは“神”ではなく、忘れられた“豊穣の魔王”であることを──。
1話に対する文字数についてです。今迄他小説サイトと同じ感じで投稿していましたが他作品を観察した所文字数が少ないかも?と感じたのでアンケートを開催しました。今後の再編や投稿の参考にしたいと思います。
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