絶望少女と魔王達の神殺し 〜魔女狩りの世界に転生したので、神に抗います〜   作:なないろすらいむ

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第16話 十三番目の妻

 

 聖太守マヌの家宅捜索から数日。

 ヴィクラムは、暗く冷たい自室で一人、絶望と苛立ちに苛まれていた。

 

(……終わった。私の計画は、何一つとして)

 

 大っぴらな処刑が禁じられた今、合法的に「不良品の妻」を処分する手段はない。

 かといって、自らの手で殺せばただの殺人犯として裁かれる。

 完全犯罪を成し遂げ、かつ周囲に怪しまれずに次々と妻を取り替える方法など、この世に存在するはずがなかった。

 息が詰まるような屋敷の空気に耐えきれず、ヴィクラムはその夜、顔を隠すように外套を深く被り、当てもなく夜の街へと彷徨い出た。

 足は自然と、サントーン・カーシャヘルの裏通り――教会の監視の目が届きにくい、貧民街や闇市が広がる区画へと向かっていた。

 

 そこで、彼は「それ」を見た。

  人気のない廃寺院の裏手。

 微かな月明かりだけが頼りの暗がりで、何やら物々しい取引が行われていた。

 一方は、この街の裏社会を牛耳る薄汚れた闇商人たち。

 そしてもう一方は――上質な絹のローブを深く羽織った、恰幅の良い男だった。

 

(……あれは)

 

 ヴィクラムは物陰に身を潜め、目を凝らした。

 男の顔には見覚えがあった。

 隣国『カラート・シャムス』の神殿を取り仕切る最高位の聖職者、神官長カシムだ。

 他国の要人が、なぜお忍びでこのような掃き溜めにいるのか。

 

「……約束の品だ。異端者どもから没収した『神器』の数々。どれも神殿の宝物庫から横流ししてきた極上品だぞ」

 

 カシムが懐から取り出したのは、鈍い光を放つ奇妙な装飾品や、古びた短剣、そして意匠の凝らされた杯だった。

 それは、神がかつて地上に遣わしたとされる奇跡の道具。本来ならば教会が厳重に封印・管理すべき、強大すぎる力を持った『神器』である。

 

「へへっ、さすがはカラート・シャムスの神官長様だ。こいつぁ高く売れそうだ」

 

「金はきっちり用意してあるんだろうな? 私は明日には国へ帰らねばならん。万が一、このサントーン・カーシャヘルの連中に嗅ぎつけられでもしたら、私の首が飛ぶからな」

 

 聖職者の仮面の下に隠された、あまりにも生々しい腐敗の匂い。

 他国で没収した危険な神器を、わざわざ隣国の裏社会に持ち込んで私腹を肥やしていたのだ。

 その光景を見た瞬間、ヴィクラムの淀んでいた瞳に、再び爬虫類のような冷たい光が宿った。

 

(……神器、だと?)

 

 彼の脳内で、パズルのピースが完璧な形で組み合わさっていく音がした。

 神器の中には、人知を超えた現象を引き起こすものがある。

 例えば、病に見せかけて衰弱死させるもの。

 あるいは、事故に見せかけて対象を燃やし尽くすもの。

 もし、そんな『証拠の残らない道具』が手に入れば――マヌの目を掻い潜り、何度でも合法的に妻を「病死」や「事故死」として処理できるではないか。

 

(それに、あの男は『サントーン・カーシャヘルの連

中に嗅ぎつけられたら首が飛ぶ』と言ったな)

 

 ヴィクラムの口角が、ゆっくりと、ひどく歪な形に吊り上がっていく。

 他国の神官長という立場であればこそ、この宗教都市でのスキャンダルは致命傷になる。

 聖太守マヌの耳に入れば、ただでは済まないだろう。

 つまり、カシムの生殺与奪の権は、今、ヴィクラムの手の中にあるのだ。

 

「……素晴らしい」

 

 ヴィクラムは暗闇の中で、誰にも聞こえない声で呟いた。

 神は私を見捨ててはいなかった。

 大っぴらな処刑がダメなら、裏からひっそりと「暗殺」すればいい。

 取引を終え、足早に立ち去ろうとするカシムの背中を、ヴィクラムはゆっくりと追い始めた。

 

 足取りは羽のように軽く、その顔には、新しい玩具を見つけた子供のような無邪気で残酷な笑みが張り付いていた。

 闇商人たちが立ち去り、路地裏に一人残されたカシムが安堵の息を吐いた直後だった。

 

「――素晴らしい夜の礼拝ですね。カラート・シャムスの神官長殿」

 

 暗がりから歩み出たヴィクラムの声に、カシムはビクリと肩を震わせ、振り返った。

 その顔には、先ほどまでの威圧的な態度はなく、見知らぬ男に密会を見られたことへの明らかな狼狽が浮かんでいた。

 

「き、貴様は……何者だ! なぜ私の名を……!」

 

「私はただの通りすがりの貴族ですよ。ですが……聖太守マヌ様は、他国の神官長がご自身の足元で『神器の密売』などという神への冒涜を働いていると知れば、さぞかしお怒りになるでしょうねぇ」

 

 その名が出た瞬間、カシムの巨体がガタガタと震え出した。

 サントーン・カーシャヘルの実質的支配者であるマヌは、異端や規律違反に対して異常なまでに冷酷だ。もしこの事実が知れ渡れば、隣国の神官長という地位であっても、生きて故郷へ帰ることはできない。

 

「ま、待て! 金か!? いくら欲しい! 要求を言え!」

 

 必死で縋り付こうとするカシムを見下ろし、ヴィクラムは薄く笑った。

 

「金など不要です。……私が欲しいのは、あなたが先ほど売り払っていた『おもちゃ』の方ですよ」

 

 ヴィクラムの要求はシンプルだった。

 

 『病死や事故死に偽装できる、殺傷用の神器を寄越せ』。

 他国で押収された危険な神器を定期的に横流ししろという悪魔の契約に、カシムは首を縦に振るしかなかった。自身の保身のために。

 

――こうして、ヴィクラムは「証拠の残らない暗殺道具」という最強のカードを手に入れた。

 凶器を手に入れた彼が次に求めたのは、「文句を言わない標的(妻)」だった。

 

 三度の(処刑)を経たヴィクラムの家には、もはや身分のある貴族の娘など一人も寄り付かなかった。社交界では「呪われた屋敷」として完全に村八分状態だったのだ。

 だが、彼は少しも困らなかった。むしろ、煩わしい外戚が消えたことを好都合だとすら思った。

 

(高慢な貴族の娘など、最初から不要だったのだ。実家という後ろ盾もなく、突然死んでも誰も騒がない女……そう、奴隷でいい)

 

 ヴィクラムは闇市場へ赴き、見目麗しい若い女奴隷を次々と「妻」として買い漁り始めた。

 表向きは「身分を問わず愛を貫く、偏見のない貴族」。

 だがその実態は、ただひたすらに優秀な男児という『結果』だけを求める、狂ったブリーダーに過ぎなかった。

 ――そして、底なしの暗殺劇(ローテーション)が始まったのだ。

 

 四人目の妻。

 美しい奴隷だったが、産まれたのは男児ではなく、娘だった。

 ある夜、ヴィクラムはカシムから得た水銀の神器を、寝室の香炉に放り込んだ。

 熱に触れた水銀は瞬時に溶け、白い煙となって部屋を満たした。それを吸い込んだ妻と産まれたばかりの娘は、「甘い味がする」と無邪気に微笑んだ直後、不可視の刃に内臓を切り刻まれて大量の血を吐き、絶命した。

 

 

 ――――――――

 

 

 七人目の妻。

 またしても、産まれたのは娘だった。

 ヴィクラムは深い溜息とともに、今度は『金色の糸』の神器を取り出した。

 それは対象の生命時間そのものを縛り、切断する恐るべき呪具。だが、使用方法を誤れば、対象の肉体が内側から破裂してしまう欠陥があった。

 

「……絨毯を汚すわけにはいかないからな。手短に済ませよう」

 

 ヴィクラムは、眠る母子の首に金色の糸を這わせながら、作業工程を口ずさんだ。

 三回結んで、二回切る。 

 冷酷な手つきで糸が断ち切られた瞬間、音もなく、血の一滴も流さずに、母子の時間は永遠に停止した。

 

 

 九人目。処分。

 十人目。処分。

 十一人目。十二人目……。

 

 日記に記される文字は、日を追うごとに人間味を失い、事務的な数字の羅列へと変貌していく。

 屋敷の近くにある森の土は、新たな死体を吸うたびに黒く肥えていった。

 気付けば、ヴィクラムの年齢は三十五歳を超えていた。

 最初の妻を処刑した二十代の頃にあった「怒り」や「熱」は、もう彼のどこにもない。

 ただ、「次こそは当たりが出るはずだ」という、壊れた機械のような執着だけが、彼に新しい奴隷を買いに行かせていた。

 

 

 そして、十三人目の妻

 彼が再び奴隷市場へ足を運んだ時、薄暗い檻の片隅で、一人の女がうずくまっているのが目に止まった。

 

「……ほう。随分と年がいっているが、丈夫そうな体つきだ」

 

 それが、アマラだった。

 彼女の年齢は二十五歳。この国の基準ではとうに「行き遅れ」である。だが、彼女が売れ残っている最大の理由は年齢ではなく、その忌まわしい血筋にあった。

 彼女の一族は、はるか昔に恐るべき『魔王』とゆかりを持ったとされる、曰く付きの家系だったのだ。

 

「あの一族の女を抱けば、たちまち魔王の災いが降りかかる」

 

「目を合わせただけで呪われ、正気を失う」

 

「家に疫病と不幸を呼ぶ穢れた血だ」

 

 そんな具体的な凶報や不吉な噂がつきまとっていたため、物好きな客や奴隷商人でさえ気味悪がり、誰一人として手を出さず、檻の隅でずっと埃を被っていたのである。

 

 だが、今のヴィクラムにとって、女の年齢や不吉な血筋など、本当にどうでもよかった。

 自分ももう若くはないし、魔王の呪いなどという妄言より、自分が手にした神器の力の方がよほど絶対的だと思っていた。

 子供さえ産める体ならば、それでいい。

 もし産めなければ、またいつものように神器で『廃棄』すればいいだけなのだから。

 

「これをくれ。……値は払おう」

 

 ヴィクラムはまるで野菜でも買うような気軽さで、檻の中のアマラを指差した。

 

最初は、ただの「産む機械」のつもりだった。

 行き遅れで、呪われた血筋の女。使い物にならなければ、すぐに神器で廃棄して次の奴隷を買えばいい。ヴィクラムは本気でそう思っていた。

 だが、屋敷に連れ帰り、泥に塗れた彼女を洗い清めさせた時、彼の考えは一変した。

 現れたのは、夜空のように深い褐色の肌と、月光を織り込んだような美しい銀色の髪を持つ女だった。

 

「アマラ。……君は今日から、私だけのものだ」

 

 その日から、ヴィクラムのアマラに対する扱いは異常なものとなった。

 彼はアマラを屋敷の奥深くに閉じ込め、外へ出ることを一切禁じた。

 彼女が元々着ていた、肌を露出するような異国の民族衣装は全て焼き捨てさせ、代わりに首元から足首までをすっぽりと覆い隠す、質素で重苦しいドレスだけを着せた。

 

「その美しい肌を、他の男の目に晒してはならない。君は清廉潔白で、ただ私のためだけに存在し、私だけに従属する完璧な『妻』でなければならないのだ」

 

 ある夜、ヴィクラムが重いドレスを着せられたアマラの銀髪を梳かしていると、鏡越しの彼女が静かに口を開いた。

 

「……旦那様は、物好きな方ですね」

 

「何がだ?」

 

「私は長い間、鉄の檻の中で泥水を啜って生きてきました。商人たちは私を『魔王と契約し災いを呼ぶ呪われた肉だ』と唾を吐き、石を投げました。……誰にも愛されず、誰にも望まれない。それが私の世界の全てでした」

 

 アマラは、過去の凄惨な虐待を語っているとは思えないほど、凪いだ瞳をしていた。

 絶望の底を歩き続けた者特有の、静かで揺るぎない達観。

 

「それなのに、貴方は私に温かい寝床と、不自由なほど沢山の絹の衣を与えてくださる。……でも、旦那様。鳥籠をどれだけ黄金で飾っても、中の鳥が忌み子であることは変わりませんよ」

 

「黙りなさい」

 

 ヴィクラムは、アマラの肩を強く抱き寄せた。

 

「愚民どもの戯言などどうでもいい。君の価値は私が決める。君は私の『最高傑作』になる女なのだから」

 

 それは他者を慈しむ「愛」などではなく、類まれなる名画や宝石を見つけた収集家が抱く、どす黒い『独占欲』だった。

 アマラはそれ以上何も言わず、ただ薄く哀しげな微笑みを浮かべて目を伏せた。

 

 ――そして、結婚からしばらくして、アマラが懐妊した。

 ヴィクラムの狂喜は凄まじかった。

 私という完璧な主人と、私に完全に支配された完璧な人形。その二つが交わって産まれる結晶が、優れた『男児』でないはずがない、と。

 ――だが、運命は彼を冷酷に嘲笑った。

 出産の日。寝室に響いた産声は、ひどく弱々しいものだった。

 

「お、おめでとうございます、旦那様。……可愛らしい、女の子でございます。ただ、その……お体が少し弱いようで……」

 

 ヴィクラムは、産婆の腕の中で息も絶え絶えに泣く赤ん坊を見下ろした。

 男児ではない。しかも、透けるように肌が白く、アマラの美しさの欠片も受け継いでいない『病弱な女児』。

 

(……不良品だ。私の完璧な所有物に泥を塗る、失敗作だ)

 

 ヴィクラムの胸の内で、激しい失望と怒りが渦巻いた。

 だが、彼は以前のように即座に殺意を爆発させることはしなかった。三十代半ばという年齢と、カシムから得た神器の力で数々の「死」を偽装してきた経験が、彼に冷徹な計算をさせていた。

 

(……いや、待て。女であっても、徹底的な治療を施して健康に育てば、他国や大貴族への政略結婚の『駒』としては使える。アマラの顔立ちに似てくれば、価値は跳ね上がるはずだ)

 

 投資した時間と金を、完全に無駄にするわけにはいかない。

 彼はベッドの上で愛おしそうに赤ん坊(セレスティア)を抱きしめるアマラを見下ろし、冷たく告げた。

 

「……国中の名医を呼べ。どんな手を使っても、その娘を健康に育て上げろ。私の子が、役立たずのままでいることなど許されん」 

――――――

 

 それから、三年が経過した。

 

「……申し訳ございません、ヴィクラム様」

 

 重苦しい空気の漂う書斎で、高名な老医師が深く頭を下げていた。

 

「セレスティア様のお体は、生まれつき生命の根源が欠落しているかのように虚弱です。高価な霊薬も、浄化の魔法も、まるで底の抜けた樽に水を注ぐようなもの。……誠に申し上げにくいのですが、このままでは、大人になるまで生きられるかどうか……」

 

「…………そうか。ご苦労だった」

 

 ヴィクラムは表情一つ変えず、静かに医師を下がらせた。

 扉が閉まった瞬間、彼の中で、三年間にわたって繋ぎ止めていた「期待の糸」が、プツンと音を立てて切れた。

 

(無駄だった)

 

 三年という年月。莫大な医療費。

 その全てを注ぎ込んでも、あの娘は「政略結婚の駒」にすらなれないガラクタのままだったのだ。

 おまけに、アマラはヴィクラムの用意した鳥籠の中で、彼ではなく、ただひたすらにあの壊れかけの娘に愛情を注ぎ続けている。

 

「……もう、限界だな」

 

 書斎の暗がりで、ヴィクラムの目が爬虫類のように冷たく細められた。

 利益を生まない不良品。これ以上の投資は無意味だ。

 ならば、答えは一つしかない。

 

「処分しよう」

 

 引き出しの奥から、彼はずっしりと重い木箱を取り出した。

 中には、カシムから得た数多の神器の中でも、一際危険なものが眠っている。

 

 ――この世の全てを跡形無く焼き尽くす炎の火種となる智天使ウリエルの羽。

 

 これをあの娘の寝室の暖炉に仕込み、転落事故に見せかけて焼き殺す。

 そして、あの目障りなガラクタが消えた後、悲しみに暮れるアマラを再び自分だけの「完璧な人形」として慰め、今度こそ優秀な男児を産ませるのだ。

 

「フ、フフ……」

 

 ヴィクラムは木箱を撫でながら、暗い悦びに顔を歪めた。

 

 ある夕暮れ時。ヴィクラムが最終的な「損切り(娘の殺害)」を決意した、まさにその日のことだった。

 豪奢だがどこか息が詰まるような子供部屋で、三歳になるセレスティアが窓ガラスに小さな顔を押し付けていた。

 薄い茶髪に金色の瞳が、屋敷の高い塀の向こう側――茜色に染まる空を、食い入るように見つめている。

 

「……お外、きれい」

 

「セレスティア、窓辺は冷えますよ。またお熱が出てしまいます」

 

 アマラが慌てて駆け寄り、娘の細く薄い肩に上質なショールをふわりと掛けた。

 

「ごめんなさい、お母様。でも……私、お外に行きたいな」

 

「お外へ?」

 

「うん。あの塀の向こうには、どんな景色があるの? いっぱいお花が咲いてる? いつか私……お外に出て、世界を見て回りたいな」

 

 それは、無垢で純粋な、子供らしい願いだった。

 しかし、この時の彼女は、自らの足で庭の芝生を踏むことすら許されないほど、脆く弱々しい命だった。

 

「……ええ、そうね。貴女が元気になったら、きっと……」

 

 アマラは胸を締め付けられるような思いで、愛娘をきつく抱きしめた。その目には、微かな涙が浮かんでいる。

 

「素晴らしい夢だね、セレスティア」

 

 背後から、優しげな声が響いた。

 振り返ると、扉の前にヴィクラムが立っていた。口元には、慈愛に満ちた完璧な『父親の微笑み』が張り付いている。

 

「お父様……!」

 

「ああ。君の病が治ったら、どこへでも連れて行ってあげよう。だから今は、お母様の言うことを聞いて、暖かくしていなさい」

 

 ヴィクラムは歩み寄り、セレスティアの薄い茶髪を優しく撫でた。

 娘は嬉しそうに目を細め、アマラもまた、夫の優しい言葉に安堵の吐息を漏らす。

 

 ――絵に描いたような、美しく温かい家族の肖像。

 だが、ヴィクラムの心中は、外を吹く木枯らしよりも冷たかった。

 

(……『世界を見て回りたい』だと? 愚かしい。自分の足で歩くことすらままならない不良品のくせに)

 

 彼は、娘の細すぎる腕や、浅い呼吸を間近で観察しながら、内心で冷酷に吐き捨てていた。

 

(治る見込みのないガラクタに、これ以上高価な薬を飲ませるのも、夢を見させるのも、今日で終わりだ)

 

 ヴィクラムは立ち上がり、部屋の奥にある重厚な暖炉へと視線を向けた。

 暖炉に火を入れると、パチパチと乾いた薪の爆ぜる音が部屋に響いた。

 だが、その炎の奥底には、カシムから得た恐るべき神器――すべてを灰に帰すまで消えることのない神の業火、『ウリエルの炎』が密かに仕込まれていた。

 

「……さて」

 

 ヴィクラムは立ち上がり、完璧な「良き夫」の顔を作ってアマラを振り返った。

 

「アマラ。すまないが、一階の薬棚からセレスティアの気付け薬を持ってきてくれないか? 少し顔色が優れないようだ。それに……久しぶりに、娘と二人きりで話をしたい」

 

 それは、極めて自然な誘導だった。

 愛娘を案じる夫の優しい言葉に、アマラは微塵の疑いも持たず「はい、すぐに」と微笑み、部屋の扉を閉めて廊下へと出て行った。

 パタン、と重い扉が閉まる音がした。

 だが、ヴィクラムはすぐには動かなかった。廊下を遠ざかっていくアマラの足音が、床板の軋みすら完全に聞こえなくなるまで、暗がりの中でじっと耳を澄ませていたのだ。

 

 ――そして、完全な静寂が訪れたことを確認した瞬間。

 

 彼の顔から、人間らしい温度がごっそりと抜け落ちた。

 

「……さて」

 

 ヴィクラムは振り返り、部屋の中央にぽつんと立つセレスティアに向かって、再び完璧な「良き父親の微笑み」を向けた。

 

「セレスティア、おいで。暖炉の火が起きたよ。近くで手を温めなさい」

 

「うん、お父様」

 

 父親の甘い声に、セレスティアは疑うこともなく、トテトテと頼りない足取りで暖炉の前に歩み寄った。

 パチパチと燃える炎の熱に、彼女の青白い頬がほんのりと赤く染まる。その小さな肩を、ヴィクラムは背後からそっと抱き寄せるようにした。

 

「ほら、もっとよく見てごらん。あの薪の奥底……ひときわ白く光っているところがあるだろう? あれは火の妖精が踊っているんだよ」

 

「妖精さん……? わぁ、ほんとだ、きれーい……」

 

 ヴィクラムの優しい嘘に誘導され、セレスティアは身を乗り出すようにして、無防備に暖炉の奥を覗き込んだ。

 その細すぎる背中を、ヴィクラムは氷のように冷たい瞳で見下ろした。

 両手が、音もなく背中へと添えられる。

 

(お別れの時間だ、不良品《ガラクタ》)

 

 ドンッ!!

 ヴィクラムは躊躇いなく、三歳の小さな背中を力一杯突き飛ばした。

 

 「きゃあっ!?」

 

 前のめりにバランスを崩したセレスティアの体は、勢いよく暖炉の中へと吸い込まれる。

 次の瞬間、暖炉に仕込まれていた『ウリエルの炎』が、獲物を捕食する獣のように異常な膨張を見せた。

 通常の赤い炎ではない。白熱した太陽のように眩い、神聖にして残酷な白い業火が、瞬く間にセレスティアの小さな体を包み込んだ。

 

「あぁぁっ! あつ、あついよぉっ! お父様ぁっ!!」

 

 炎の中で、娘が絶叫する。

 通常の火であれば、すぐに飛び出してくることもできたかもしれない。だが、ウリエルの炎は対象の生命力そのものを燃料にして燃え上がる呪われた炎だ。セレスティアの体は暖炉の底に縫い付けられたように動かず、ただ激しい苦痛に焼かれるしかなかった。

 

「……フフッ。ああ、美しい。ようやく我が家の汚点が浄化される」

 

 ヴィクラムは炎の熱に顔を照らされながら、うっとりと目を細めた。

 これでいい。アマラが戻ってくる頃には、すべては悲しい事故として終わっているはずだ。

 

 ――だが、彼は完璧主義ゆえに、予測できない「偶然」を計算に入れていなかった。

 

『……いけない。薬棚の鍵は、寝室の引き出しに入れたままだったわ』

 

 廊下を歩いていたアマラは、はたと足を止めていた。

 普段なら使用人に取りに行かせる鍵を、自分が持っていたことを思い出したのだ。

 彼女は急いで踵を返し、予定よりもずっと早く、子供部屋の扉を開け放ってしまった。

 

「旦那様、申し訳ありません、鍵を――」

 

 アマラの言葉は、途中で凍りついた。

 彼女の目に飛び込んできたのは、見たこともない白い業火の中で狂乱して泣き叫ぶ我が子と。

 それを助けようともせず、口元に醜い笑みを浮かべて見下ろしている、夫の横顔だった。

 

「……あ」

 

 一瞬で、すべてを理解した。

 あれは事故ではない。この男は最初から、セレスティアを殺すつもりだったのだ。

 あの優しさも、愛の言葉も、すべてはこの瞬間のための偽り。

 

「アマラ……!? な、なぜ戻って……!」

 

 ヴィクラムが驚愕して振り返るよりも早く。

 アマラは、獣のような悲鳴を上げて床を蹴った。

 

「セレスティアーーーッ!!」

 

 彼女は躊躇することなく、燃え盛る暖炉の中へと腕を突っ込んだ。

 ジューッという肉の焼ける悍ましい音と、耐え難い激痛がアマラの腕を襲う。ウリエルの炎は彼女の肌を容赦なく焼き焦がしたが、母の狂気にも似た執念が、業火の呪いを一瞬だけ上回った。

 

「邪魔をするなアマラ!! そのガラクタは私にはもう――!」

 

「触るなァァァッ!!」

 

 ヴィクラムが止めに入ろうと手を伸ばした瞬間、アマラは燃え盛る薪の一部を掴み取り、彼の顔面に向かって力任せに振り抜いた。

 

「ぐあああっ!?」

 

 火の粉を浴びてヴィクラムがたたらを踏んだ隙に、アマラは瀕死のセレスティアを力強く抱きかかえた。

 娘の体は酷く焼け焦げ、息も絶え絶えだった。一刻の猶予もない。

 

(……逃げなければ。この悪魔から、娘を連れて!)

 

 アマラはヴィクラムに見向きもせず、窓ガラスに向かって重い椅子を投げつけた。

 ガシャン!とけたたましい音を立ててガラスが砕け散る。

 彼女はショールでセレスティアを包み込むと、吹き込む冷たい夜風の中へ、躊躇いなく身を躍らせた。

 

「アマラ! 待て、逃がさんぞ!!」

 

 背後でヴィクラムの怒号が響く。

 だが、アマラは血だらけの腕で愛娘を抱きしめたまま、闇の深い森の奥へと、ただひたすらに走り続けた。

 

 割れた窓から吹き込む風が、ヴィクラムの火照った頬を撫でた。

 彼は舌打ちを一つすると、すぐに外套を羽織り、短剣を懐に入れて屋敷を飛び出した。

 

「愚かな……。あの傷で、しかも瀕死のガラクタを抱えてどこまで逃げられると思っている」

 

 夜の森は深く、冷たい。

 だが、ヴィクラムは迷うことなく、点々と続く血痕――アマラの腕から滴り落ちた血の跡を辿って歩を進めた。

 怒りはなかった。あるのは、飼っていたペットが脱走した時のような、冷ややかな苛立ちだけだ。

 

(見つけたら、躾をし直さねばな。……足の腱でも切って、二度と私の屋敷から出られないようにしてやろうか)

 

 そんな嗜虐的な空想に耽りながら、森の奥深く、古い遺跡のような場所へ辿り着いた時だった。

 

「……ッ!?」

 

 ヴィクラムの足が止まる。

 血痕が途切れたその場所には、もうアマラも、セレスティアの姿もなかった。

 

 代わりにそこにあったのは――圧倒的な、異界の気配だった。

 地面には見たこともない複雑怪奇な魔法陣が焼き付けられ、周囲の草木はねじ切れ、枯れ果てている。

 そして何より、そこに漂う空気の「味」が違っていた。

 濃厚で、甘美で、そしておぞましい。人の世のものではない、絶対的な闇の魔力が、その場に色濃く残留していたのだ。

 

「……この魔力残滓は……まさか」

 

 ヴィクラムは博識だ。カシムとの取引や、古文書の研究を通じて、この「気配」の正体を即座に理解した。

 奴隷商人達から呪われていると言われたアマラの血筋。

 彼女の一族が崇めていたとされる、伝説の魔王。

 

「……ラーヴァナ、か」

 

 ヴィクラムはギリリと奥歯を噛み締めた。

 きっとアマラは、瀕死の娘を助けるために、自身の血を対価にして、一族に伝わる禁断の召喚術を行ったのだ。

 そして魔王ラーヴァナはそれに応え、彼女たちを何処かへと連れ去った(転移させた)に違いない。

 その事実を悟った瞬間、ヴィクラムの中で何かが弾け飛んだ。

 それは恐怖ではない。

 強大な魔王に対する畏敬の念でもない。

 

「……泥棒め」

 

 吐き捨てるような、どす黒い憎悪だった。

 

「人の妻を……私が手塩にかけて育て上げた、完璧な『私の所有物』を……よくも横取りしおったな……ッ!!」

 

 ヴィクラムは怒りに任せて、近くの大木を短剣で突き刺した。

 彼にとって、アマラが自らの意思で逃げたことよりも、「ラーヴァナという他者が、自分の所有物に手を出した」ことの方が、何百倍も許しがたい屈辱だったのだ。

 

「許さん……許さんぞ、ラーヴァナ……! 貴様が魔王だろうが神だろうが関係ない!」

 

 彼は誰もいない森の中で、夜空に向かって咆哮した。

 

「地の果てまで追い詰め、その首をへし折り、アマラを取り返してやる! 彼女は私のものだ! 指一本、髪の毛一本に至るまで、全て私のものなのだからな!!」

 

 

1話に対する文字数についてです。今迄他小説サイトと同じ感じで投稿していましたが他作品を観察した所文字数が少ないかも?と感じたのでアンケートを開催しました。今後の再編や投稿の参考にしたいと思います。

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