第1話
「意外と兄上も甘いようで」
甘い、か。確かにあの一手は……
ギレン・ザビが死の間際に思い出したのは、打ち掛けた囲碁の一局であった。妹キシリアの銃弾が自らを貫く瞬間、彼の脳裏に浮かんだのは戦況でも政治でもなく、父デギンと対局していた穏やかな午後の記憶。
本因坊秀策の棋譜を共に並べながら、父は良く言ったものだ。
「囲碁は手談とも言われる。言葉を交わさずとも、一局打てば心が通じ合う。ギレン、お前にもいつかそれが分かる時が来るだろう」
言葉を交わさずに分かり合う……父の意味するところはわかっているつもりであった。
地球圏の覇権を賭けた戦争の指導者として、ジオン公国総帥として、ギレンは多くの命を奪い、多くの憎しみを生んだ。
ジオン建国の父、ジオン・ズム・ダイクンが語ったニュータイプ論は、
「宇宙に出た人類が、心の壁を越えて分かり合う未来」を夢見た理念だった。
言葉を超え、憎しみを超え、戦争すら超えて結ばれる、新しい感性の時代。
だがギレンが用いたのは、その理想の影だった。
「選ばれた民族が、他を支配する未来」へとすり替え、
理解を語るはずの言葉をプロパガンダに、
希望を煽るはずの理念を憎悪の燃料に変えた。
挙げ句の果てには、戦争継続のために父デギンすらをも殺した。囲碁とその意味を教えてくれた人を。
真の理解など、彼には縁遠いものだった。
意識が薄れゆく中、ギレンの心に一つの願いが芽生える。
もし、もう一度生まれ変われるなら——
◆ ◇ ◆
「レン、起きなさい」
耳に届いたのは、柔らかい声だった。
瞼を開けると、そこには見えるのは陽だまりの差し込む天井。
血の臭いも、焦げつく匂いもない。冬の朝の匂いがした。
「……父上?」
思わず口をついて出た言葉に、立っていた男は小さく眉をひそめる。
「転校早々に遅刻なんてことはないように」
声も顔も、記憶にあるデギンとは違う。
だが、その言葉には確かに父としての温かさが宿っていた。
錆木レンは混乱していた。
鏡に映るのは、幼さを残す十二歳の少年の顔。
眉毛がないという特徴は変わらないが、それすらも未完成な輪郭の一部にすぎない。
記憶が二重に存在している。
現代日本の少年としての生活の断片と、宇宙世紀の総帥としての記憶。
そのふたつが脳裏でぶつかり合い、激しくせめぎ合っていた。
常人ならば発狂してもおかしくない。
しかし、彼のIQ240の頭脳は冷静にその状況を整理し、ただ一つの結論を導き出した。
「もちろんです、父上」
今世の父へ向けて、レンは穏やかに答えた。
だがその心の奥底では、まだ揺らぎが収まっていなかった。
なぜ自分はこの時代に転生したのか。この世界で何を成すべきなのか。
その答えは、まだ見えなかった。
◇ ◆ ◇
「はーい、みんな静かに!では転校生の錆木君、自己紹介をお願いします」
「錆木レンと申します。よろしくお願いいたします」
小学6年生の教室に響く、年齢に不釣り合いな丁寧な口調。クラスメートたちは興味深そうにこの転校生を見つめていた。
「サビギ?変な名前だな」
教室の隅から聞こえた失礼な声に、教師が慌てて注意する。
「こらっ!進藤くん!」
レンは声の主を振り返る。陽だまりのような金髪の前髪に人懐っこい笑顔の少年。その瞬間、レンはわずかに息を呑んだ。だが表情は動かない。
「よいのです先生。進藤君といったか、下の名前は?」
「オレ?ヒカル。進藤ヒカル!」
レンの眉のない眉間がピクリと動く。
「ほう……キミは囲碁を打つかね?」
レンの質問に、ヒカルは一瞬困ったような表情を見せる。
「えっ!?囲碁?おまえ……あ、こら!興奮するな!」
進藤ヒカルは急に後ろを向き叫び出す。その姿はまるで、そこにいる誰かに向けて語りかけているようであった。
「ごめんね錆木君、ヒカルはこの前ちょっと倒れてからショックで落ち着かないみたいで……あ、私は藤崎あかりって言います!」
あかりの声に丁寧な返事を返しつつ、しかしレンの瞳はヒカルへと向けられたままであった。
進藤ヒカル。この名前と特徴的な前髪、間違いない、遠い宇宙世紀にまで名を残す伝説の棋士、本因坊進藤ヒカルその人だ。レンは興奮を表情には出さず、じっとヒカルを見つめる。その視線には、ただの小学生にはない鋭さが宿っていた。
◆ ◇ ◆
転校から数日が過ぎた。
レンは新しい学校生活に徐々に慣れていた。といっても、前世の記憶を持つ彼にとって、小学6年生の授業は退屈極まりないものだった。教師が説明している内容は既に理解しているし、クラスメートたちの関心事も幼く感じられる。
唯一の例外が、進藤ヒカルだった。
レンはヒカルを観察していた。一見すると普通の小学生だが、未来の本因坊が時折見せる表情や仕草に違和感を感じる。まるで誰か見えない人と会話をしているような……。
そんなある日の放課後。
「えーと……錆木」
図書室で本を読んでいたレンの後ろから、遠慮がちな声が聞こえた。振り返ると、進藤ヒカルが立っていた。
「レンでいい」
「あ、じゃあレン!えーと、悪かった。転校初日に名前のことで笑ったりして……ずっと謝りたくて」
ヒカルの素直な謝罪に、レンは意外な感情を覚える。前世で接した人間たちは皆、何らかの思惑を持って近づいてきた。しかし、この少年の謝罪には打算の匂いがしない。
「気にしていない」
「そ、そうか?よかった……」
ホッとしたような表情を見せるヒカルを見て、レンは少し心が軽くなるのを感じた。
「それより、その本……囲碁の本だよな?」
ヒカルがレンの読んでいた本を指す。
「ああ。キミも知っているのか?」
「いや……オレは全然知らない。でも、最近ちょっと興味があるっていうか……」
ヒカルの答え方に、どこか歯切れの悪さがある。まるで何かを隠しているような。
「では、教えてやろう」
「え?」
レンがそう答えると、ヒカルの顔が明るくなった。
「いいのか!?でも、レンって変わってるよな」
「変わっている?」
「うん。なんか大人みたいな喋り方するし、読んでる本も難しそうだし……本当に俺と同い年?」
その質問に、レンは苦笑する。
「そう見えるか?」
「見える見える。まるで何でも知ってる大人みたいだ」
何でも知っている、か。前世では確かにそう見られていた。総帥として、指導者として、どれほど多くの命を犠牲にしても目的を達成すると豪語した。しかし実際は、本当に大切なことは何も分かっていなかった。
「キミの方こそ、普通の小学生には見えないがな」
「え?オレが?」
「時々、ここにいない誰かに話しかけているように見える」
レンがそう指摘すると、ヒカルの表情が強張る。
「き、気のせいだよ!独り言が多いだけ!」
明らかに動揺している様子を見て、あえてレンは深く追求しないことにした。誰にでも秘密はある。
「そうか。では、明日の放課後、ここで」
「おう!ありがとう!」
ヒカルは嬉しそうに答えると、そそくさと図書室を出て行った。
◇ ◆ ◇
その夜、レンは自室で前世の記憶を整理していた。
錆木家は一般的な家庭だが、レンの部屋だけは少し特殊だった。父親が息子の知的好奇心を尊重して、大人向けの本や資料を自由に読ませてくれるからだ。本棚には政治学、経済学、そして囲碁の専門書が並んでいる。
レンは囲碁の棋譜集を手に取る。本因坊秀策の名局集だった。
「……秀策」
前世の記憶の中で、父デギンがよく並べていた棋譜だ。一手一手に深い読みがあり、現代でも、そして宇宙世紀にすら通用する普遍的な美しさがある。
そして明日、自分は未来でその秀作と並んで評される進藤ヒカルに囲碁を教える約束をした。
彼の中に眠る才能を開花させることになるのは、自分か、あの終生のライバルか、それとももっと別の何かなのか……。
レンは窓の外の夜空を見上げる。無数の星々がまるで盤上に散らされた碁石のように輝いている。
前世で駆け巡った遠い宇宙よりも、今は明日の約束の方がずっと大切に思えた。