ギレンの碁   作:なほやん

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第2話

 

塔矢アキラは戸惑っていた。

 

碁会所で出会った同じ小学校6年生の少年、進藤ヒカル。友達に基本を教わったばかりで一度もまだ対局をしたことがないという話だったが——

 

打ち終えたばかりの盤面を見つめるアキラの表情は困惑に満ちていた。

 

プロ棋士である父、塔矢行洋の息子として、アキラは2歳の時から碁石に触れてきた。周囲の大人たちは皆、彼を「天才」と呼んだ。同年代で自分と対等に打てる相手がいないことにアキラは失望すらしていた。

 

だからこそ、今回の敗北は理解を超えていた。

 

親指と人差し指で石を持つヒカルの手つきは間違いなく初心者のそれだった。

 

「コミは5目半だよ」

「えーっ?6目半じゃないのか?レンのやつー……」

 

対局を始める前のそんな会話から、基本的なルールすら知らない素人なのか、とすら思っていた。

 

しかし、ヒカルの打った手の内容は全く別のものを物語っていた。

 

まるで遥か高みから自分の実力を測るような——そんな指導碁のような打ち方。

 

終わってみれば2目差で自分の負け。

 

「進藤ヒカル……」

 

アキラは一人つぶやく。

 

父への憧憬と、いつか追い越したいという想い。同年代には理解されない孤独感。そのすべてを背負って歩んできた道で、初めて出会った「理解できない相手」。

 

わからない。さっぱりわからない。

 

考えても考えても答えが見つからない。ヒカルの一手一手が頭から離れない。

 

あの少年の強さの秘密は、囲碁を教えた「レン」という友達にあるのだろうか。アキラの瞳に、強い好奇心の光が宿った。この目で確かめたい——あの少年が何者なのかを。

 

◆ ◇ ◆

 

「レン!コノヤロー!おまえ嘘教えやがって!」

 

朝の教室はまだざわついていた。窓から差し込む光が机に反射し、チョークの粉と古い木の匂いが混ざる空気の中、ヒカルは駆け込むなりレンに詰め寄る。

 

「なんのことだ」

 

レンは読んでいた本から顔を上げ、冷静にヒカルを見つめる。

 

「コミだよコミ!6目半じゃなくて5目半だろ!」

「む……すまない。まだそうであったか」

 

レンは珍しく少し困ったような表情を見せる。

コミが5目半から6目半になるのは、何年か未来のことである。

本因坊進藤ヒカルの棋譜を研究していた前世での記憶から、誤ってその時代のルールをもとに教えていたことにレンは気が付く。

 

「まだ、って……ていうか、レンが基本を教えてくれるのはいいけどぜんぜん対局してくれないから、佐為が……」

 

ヒカルの口から出かかった言葉に、レンの眉がピクリと動く。

 

「サイ?」

 

その瞬間、ヒカルの顔が青ざめ、目が泳いだ。言ってはいけないことを口にしそうになった動揺が、はっきりと表情に現れている。

 

「ち、違う!えーと、さいころ!」

 

見るからに下手な小学生らしいごまかしに、レンは思わず小さく笑みを漏らした。しかしその口元の笑いとは裏腹に、胸の奥に奇妙なざわめきが走る。

 

サイ──その響きに、どこか懐かしく、どこか得体の知れない感覚が絡みついた。まるで記憶の片隅でかすかに触れたことがあるような、奇妙な既視感。

 

「とにかく!昨日偶然入ってみた駅前の碁会所ってところで打ってみたんだけど、コミについても教えてくれて……」

 

話題を変えようとするヒカルの必死さが、かえって秘密の存在を際立たせる。

 

「……その様子、勝ったな」

「勝ったぜ!でも相手も子供だったからなー」

 

ヒカルは少し照れくさそうに頭をかく。しかし、その表情には勝利の喜びと同時に、何かに対する戸惑いも混じっていた。

 

「子供?」

 

レンがゆっくりとヒカルへと向き直る。

 

「アキラ、そうだ、塔矢アキラって言ってたなあいつ」

 

その名前を聞いた瞬間、レンの瞳が一瞬光った。

 

「……塔矢アキラ」

「知ってるのか?」

「フフフ……それは長い付き合いになりそうだ」

 

レンの口元に浮かんだ不敵な笑みに、ヒカルは、思わず一歩後ずさった。

 

◇ ◆ ◇

 

放課後、レンは碁盤の前でヒカルと向かい合っていた。

夕暮れの光が部屋の中に淡い橙色の影を落とし、二人の間に漂う静寂を優しく包んでいる。

 

「では、昨日の対局を最初から並べてみろ」

「えー?でも覚えてるかな……」

「構わん。やってみろ」

 

ヒカルは困ったような顔をしながら少しあたりをキョロキョロと見回し、決心したように座る。そして——

 

一手、また一手と、まるで記憶の糸を手繰るように石を並べていく。

初めはゆっくりと、指先で石のひんやりとした感触を確かめるように。

だが次第に指先の動きは速まり、ぱちり、ぱちりと小気味よい音が部屋の空気に響く。

 

ヒカルの息遣いが微かに震え、緊張と興奮が混ざったリズムが盤面に黒と白の模様を描いていく。

その速さと迷いのなさに、レンは内心で息を呑む。

 

進藤ヒカルと塔矢アキラ、未来の本因坊と終生のライバルとの出会いに立ち会えたことへの喜び。

だがしかし、あのアキラに今のヒカルが勝てる道理がないこともレンにはわかっていた。

 

ヒカルの手が止まることなく石を置き続ける。三十手、五十手、百手。

 

「できた!」

 

最後の石を置いたヒカルが顔を上げる。その表情には美しいパズルを自分の力だけで完成させたような、そんな驚きと喜びとが浮かんでいた。

 

しかし、盤面をじっと見つめるレンは、ヒカルのその表情に気がつくことはなかった。

 

棋譜を追うレンの眉間に、やがて深いしわが刻まれる。

現れた構図は、明らかに格上の者が格下を導くそれだった。アキラが劣勢に回る手順が、あまりにも出来すぎている。

囲碁と出会ったばかりの初心者とプロ棋士の子との対局とは思えなかった。

 

本因坊進藤ヒカルの棋譜の中に、こんなものはなかった。

いや、棋風は間違いなく通ずるものがある、しかし、これではまるで——

 

「……見事だ。では検討を始めよう」

 

やはりヒカルには才能だけでは説明できない「何か」がある。

しかし、自分がこの時代にいることで、その「何か」が変わってしまうのではないだろうか。

 

レンは慎重に行動する必要があると感じていた。未来を知る者として、偉大な棋士たちの成長に不用意な影響を与えるわけにはいかない。

だからこそ、レンはヒカルに囲碁の基礎を教えながらも直接に対局をすることは避けていた。

 

窓の外の風がかすかに葉を揺らし、午後の光が盤面の石に淡い影を落とす。

棋譜が頭の中で淡く重なり合い、無限の可能性がレンの視界を満たす。

 

ヒカルの秘密は何なのか、自分はこの時代で何をなすべきなのか。

 

答えのない問いが胸の奥に渦巻き、次のレンの一手を静かに待っているようだった。

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