「えぇっ!?オレ!?」
レンがヒカルに差し出した手つきには命令でも誘いでもなく、ただ静かな確信があった。
加賀を完膚なきまでに叩きのめした自分の囲碁は確かに強かった。
しかしレンにとってその勝利は、前世と何も変わらぬ支配欲と優越感に彩られた、どこか醜い自己満足であった。
胸の奥でひそかに膨らむ快感と、それを感じる自分への自己嫌悪とが、互いに押し合う。
一方で、ヒカルの碁は違う。
囲碁に向き合う瞳の輝き、対局を完璧に再現する初心者離れした記憶力、そして不可解な棋力。
レンはその疑問を胸の奥で反芻した。
もしヒカルの中に「何か」があるのなら、それは一体何なのか。そして、それは自分が追い求めるものへとつながるのか。
答えを知るためには——ヒカルの一手一手を、もっと見てみるしかない。
「オレ、中学生じゃないし……」
躊躇するヒカルを、レンは静かに見つめた。
そして低く、しかし確かな声で告げる。
「そうだな。では、優勝したら私が一局打ってやろう」
レンの言葉は、ヒカルの胸に衝撃を与える。
加賀との対局で見せたレンの圧倒的な力、静かに放たれる眼差し、指先に宿る絶対の自信、怖いぐらいの真剣さ。
オレもあんなふうに打てたら——
アキラとの出会い、そして塔矢行洋との対局を経て芽吹いたヒカルの心が、花開こうとしていた。
「一局って、レンが、オレと!?……分かった、やってやるさ!」
ヒカルは横をチラリと見てからレンに向き直り、強く頷いたのだった。
◇ ◆ ◇
一週間後、第3回北区中学冬季囲碁大会の会場である全国有数の進学校、海王中学の囲碁部室には、葉瀬中の三人とそれを見つめるレンの姿があった。
しかし、その時のレンの胸に去来していたのは、期待ではなく困惑だった。
なんだ、この碁は——
アキラとの対局で見たあの棋力はどこに消えたのか。
目の前で打たれる手は石の筋こそ面白いものの、技巧も狙いも感じられず、まるで別人が打っているかのようだった。
「おまえの実力はこんなもんじゃないだろ?それとも遊んでんのか?」
先に一勝をあげた加賀がヒカルにそう言うと、レンの幻滅した気持ちをさらにえぐる。
だが、ヒカルは笑って答える。
「遊んでるよ」
「な!?」
加賀が目を丸くし、レンも思わず視線をヒカルに向ける。
「碁盤には九つの星があるだろ?ここ宇宙なんだ。そこにさ、石をひとつひとつ置いていくんだ。星をひとつひとつ増やすようにさ。どんどん宇宙を創っていくんだ。まるで神様みたいだろ」
その言葉を聞いた瞬間、レンの胸の奥で何かがふっと緩んだ。長年抱えてきた重く冷たい鎖が、かすかな光を帯びてほどけていくような感覚。
地球連邦、ジオン公国、前世で自分が執着し、野望を抱き、無数の命を奪ったすべての争い——それらが突然、小さく、矮小なものに思えた。
「……宇宙を創る、か」
レンは低く呟く。
その時、加賀の焦りが空気を引き締める。
「さァ、ホントの実力を見せてくれ!早く打たないと時間切れの負けになるぜ!」
筒井が敗れて一勝一敗になり後がないことを悟った加賀は、言葉に苛立ちを滲ませながらヒカルを急かす。
囲碁を楽しむことに目覚めたヒカルは、しかし、だからこそ自分の実力不足を痛感していた。盤上の一点一点が重く、呼吸すら浅くなる。
彼の胸の奥では、緊張と興奮と、そして「どうしても勝ちたい」という焦燥が渦を巻いていた。
「佐為……打って」
瞬間、ヒカルの打ち方が一変する。
楽しむために可能性を探っていた打ち方から、圧倒的な実力と経験とに裏付けられた確実な勝利への一手一手に。
レンは思わず背筋を震わせる。身体の芯に電流が走るような、しかしどこか懐かしい感覚。
ヒカルの中にあるのは「何か」ではない。——間違いなく「誰か」だ。
◇ ◆ ◇
「ま……まさか、海王が負けるなんて……」
準決勝を突破したヒカルは、そのまま決勝戦である海王中との戦いでも佐為の力を借りて勝利を収めた。しかし、
「あれ……?ヒカルくんじゃないか!キミ確か小学6年生のハズじゃ……」
「では葉瀬中は失格!優勝は海王中!」
「し……失格!?」
ザワつく部屋の中で、ヒカルは思わず拳を握りしめる。
勝ったはずなのに、届かない。いや、たとえ年齢のことがなかったとしても、自分の力で勝ったわけではないのだから失格になって当然だ。
隣で筒井も顔をゆがめ、加賀は唇をかみしめていた。
その時——
「美しい一局だった」
空気が静かに変わった。
「塔矢!」
「悔しいよ。対局者がなぜボクじゃないんだろう」
アキラの声には、プライドと憧れとが混じり合っていた。ヒカルという存在に翻弄され続ける少年の、率直な想いが滲み出る。
「キミをこえなきゃ神の一手にとどかないことがよくわかった。だから……ボクはもうキミから逃げたりしない」
ヒカルにそう宣言するアキラの姿を、レンは静かに見つめた。まだ幼さの残る顔立ち、しかしその瞳には既に棋士としての鋭さが宿っている。父・行洋から受け継いだ才能と、同時に背負った重圧。その全てが、この少年の中で静かに燃えている。
そしてアキラは、視線をレンに向けるとまっすぐと瞳を見つめ返し、確信を持って口をひらく。
「錆木レンさんですね。初めまして。キミがヒカルの師匠なのですね」
レンの胸に複雑な感情が去来した。
師匠、か。確かに自分はヒカルに基本を教えたかもしれない。
しかし、ヒカルの真の師は別にいる。
「初めまして、塔矢アキラさん」
レンは頭を下げる。この少年もまた、ヒカルと同じように純粋な心を持っている。政治や権力とは無縁の、ただ囲碁への愛に生きる魂。
あどけなさを残すアキラの顔に、レンはどこか前世の末の弟を重ね合わせていた。戦争に巻き込まれ、若くして命を散らした弟。もし彼が生きていたら、きっとこの少年のように、何かに純粋に打ち込む人間になっていたかもしれない。
謀略や騙し合いに巻き込まれず、皆が正直にいられたのなら、あるいは。
そして今、レンの口からは、その言葉が自然に出る。
「残念ながら……『私は』ヒカルの師匠ではないよ」
その一言に込められた意味を、ヒカルははっと察した。顔を上げた彼の目には、驚きと戸惑いが混じり合っている。
アキラもまた、その言葉を静かに受け止める。その瞳には、挑むべき相手の存在を認めた確かな光が宿っていた。
三人の運命がひそやかに絡み合い、未来への糸を紡ごうとしていた。
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