蝉の鳴き声が街を包む七月の午後、夏休みを目前に控えた商店街に、二つの影が偶然に交わった。
「レン、なんでこんなところに」
陽だまりのような金髪の前髪を汗で湿らせたヒカルが、意外そうな声を上げる。古美術店の前で足を止めていた錆木レンは、振り返ると薄く笑った。
「野暮用でな。ヒカルこそ、久しいな。卒業式以来か」
眉毛のない特徴的な顔に、どこか大人びた表情を浮かべるレン。中学生になってから、その雰囲気はますます年齢に見合わない重厚さを増していた。
「加賀の愛用の湯呑みを割っちゃって……」
ヒカルは困ったような苦笑いを浮かべながら、小銭を握った拳を見下ろす。そして、意を決したように顔を上げた。
「アキラから聞いたんでしょ、大会のこと」
「ああ」
レンの返答は短く、その瞳には何かを測るような光があった。
「アキラ……怒ってた?」
その質問に、レンは答えない。代わりに、まっすぐにヒカルを見据えて言った。
「ヒカル、なぜ途中から自分で打った」
静かだが、有無を言わせない響きを持つ声だった。ヒカルは一瞬たじろいだが、すぐに意志の光を瞳に宿す。
「レンなんでしょ、アキラにあの手筋を教えたの。あれを見て、オレ、やっぱり自分で打ちたいって思ったんだ」
「そうか。あれはアキラに頼み込まれてな」
レンは静かに頷いた。アキラにそうさせるため、あえて塔矢行洋との一局を見せつけたことは、言わずにおいた。
あの時のアキラの眼差しを思い出す。『ヒカルに勝ちたい』と食い下がった、あの真剣な表情を。
「オレ、頑張ったんだよ!」
突然、ヒカルの声が弾んだ。
「筒井さんも三谷も、加賀だってレンに負けて吹っ切れたって、囲碁部のこと、いっぱい手伝ってくれた。オレ、みんなと佐為と、いっぱい打ったんだ!だから、そんなオレをアキラにも見て欲しくて、でも……」
ヒカルの声が急に沈む。
「アキラが見てたのはオレじゃなかったんだ!」
堰を切ったように溢れ出る言葉。その中に込められた悔しさと、それでも諦めきれない想いを、レンは静かに受け止めた。
——強化しすぎたか。
レンは一人心の中で呟く。アキラの才能を開花させることに集中するあまり、ヒカルの心に影を落としてしまった。
「ではそこで諦めるのか?」
低く、だが優しさを秘めた声が、ヒカルの心に響く。
「っ!」
ヒカルが顔を上げた時、レンの瞳には不思議な光があった。
「それでは『サイ』に失礼だ」
その言葉を残すと、レンは古美術店の中へと入っていく。
「ま、待って」
ヒカルは慌てて、その後を追った。
◇ ◆ ◇
「これはこれは!錆木の坊ちゃん!おお、今日はご友人もご一緒ですかな」
店の奥から現れた店主、中村茂蔵が、揉み手をしながらレンとヒカルを出迎える。店内には、時代物の花器や掛け軸、古い碁盤などが整然と並んでいた。
「坊ちゃんはよせ」
レンは苦笑いを浮かべながら言う。
「この前の白磁、あれはいいものだ。先生方もお喜びである」
「グフッ……それはそれは!目利き冥利に尽きます」
笑う店主の顔は、まさにガマガエルそっくりで、ヒカルは思わず顔をしかめた。
「して今日は何をお求めで……」
その時だった。
「あ!これおじいちゃんのだ!」
突然、十歳ほどの少女の声が響いた。
「おいコラ!商売物を勝手に触るな!」
「だってコレ!おじいちゃんのだもん!半年前に盗まれたのだもん!お願い返して!」
「ふん!安物だろうが、ただで返す筋合いはないわ!」
少女が古い花器を手に取り、店主と必死に押し問答を繰り広げている。その花器は、素朴だが品のある作りで、長年の使用で味わい深い色合いを見せていた。
「ヒカル、何か言いたげだな」
黙って様子を見ていたヒカルの表情を読み取って、レンが小声で促す。
「……あれ、ホンモノの慶長の花器だって、佐為が言ってるよ」
ヒカルは戸惑いながらも、耳元で聞こえる声を伝える。
「やはりか」
レンは納得したように頷くと、店主に向かって声をかけた。
「店主、碁盤を出せ」
「へ?」
中村は間の抜けた声を上げる。
「ここにいるヒカルと打て。勝てばその花器、私が言い値で買おう」
ヒカルは思わずレンを見る。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。だが、その瞳の奥に宿る静かな決意だけは、確かに感じ取ることができた。
「ただし負ければ、古物営業法に則って、正当な持ち主に返してもらおうか」
レンの声には、有無を言わせない威厳があった。中村の顔が一瞬青ざめる。
「……いいんですかな?坊ちゃんのご友人とて、この中村茂蔵、日本棋院から五段の免状をいただいている身。手加減はいたしませんぞ」
「かまわん。全力で打て」
レンは店主から向き直ると、ヒカルに低く言った。
「アキラは来月からプロ試験に挑む。プロとアマチュア五段とは天と地ほどの差がある。この意味はわかるな?」
ヒカルの心に、電流が走った。レンが自分に何を求めているのか、今なら理解できる。
「……ああ、わかった!」
ヒカルの瞳に、再び闘志の火が宿った。
◇ ◆ ◇
「よかったの?レン、こんな高そうな湯呑みまで……」
「フフフ……加賀によろしく伝えておけ」
レンは笑って答える。店主は結局、ヒカルに完敗した。アマチュア五段の実力など、佐為とともに打ち続けたヒカルの前では児戯に等しかったのだ。
笑顔の少女に手を振って見送った後、ヒカルとレンはカナカナゼミの鳴く夕暮れの街を歩いていた。
「今日はちゃんと、自分で打てたよ」
ヒカルの声に、満足感が滲んでいる。
「上出来だ」
レンの返答も、いつになく温かい響きを持っていた。
二人はいつの間にか、あの公園に足を向けていた。桜の木々が夏の緑に包まれ、半年前とはまるで違う表情を見せている。
「前にここに来たのが。なんだか遠い昔みたいだ」
ヒカルは小石を拾い上げると、ピシッと音を立てて地面へと打ち付ける。その音が、カナカナゼミの声と重なって夕暮れの静寂に響いた。
「オレ、どうしたら良いのかな」
突然、ヒカルが呟いた。
「オレも打ちたいし、佐為にもオレ以外の誰かと打たせてやりたいし。仮面でも被って変装すればいいのかな」
「……似合わなさそうだな」
レンは苦笑いを浮かべる。「あの仮面」を被ったヒカルなど、想像するだけで滑稽だった。
「佐為と打ってくれよ、レン」
ヒカルは、絞り出すような声でそう言った。
本当は、約束通り自分が強くなってからレンと打ちたい。でも、自分が打ちたいと言う気持ちが強くなったからこそ、佐為の気持ちもわかるようになっていた。
レンは、ヒカルをじっと見つめた。その瞳の奥で何かが決まったような、静かな光が宿る。
「ヒカル、ネット碁を知っているか」
夕暮れの風が二人の間を吹き抜けていった。
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