ギレンの碁   作:なほやん

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第8話

 

 蝉の鳴き声が街を包む七月の午後、夏休みを目前に控えた商店街に、二つの影が偶然に交わった。

 

「レン、なんでこんなところに」

 

 陽だまりのような金髪の前髪を汗で湿らせたヒカルが、意外そうな声を上げる。古美術店の前で足を止めていた錆木レンは、振り返ると薄く笑った。

 

「野暮用でな。ヒカルこそ、久しいな。卒業式以来か」

 

 眉毛のない特徴的な顔に、どこか大人びた表情を浮かべるレン。中学生になってから、その雰囲気はますます年齢に見合わない重厚さを増していた。

 

「加賀の愛用の湯呑みを割っちゃって……」

 

 ヒカルは困ったような苦笑いを浮かべながら、小銭を握った拳を見下ろす。そして、意を決したように顔を上げた。

 

「アキラから聞いたんでしょ、大会のこと」

 

「ああ」

 

 レンの返答は短く、その瞳には何かを測るような光があった。

 

「アキラ……怒ってた?」

 

 その質問に、レンは答えない。代わりに、まっすぐにヒカルを見据えて言った。

 

「ヒカル、なぜ途中から自分で打った」

 

 静かだが、有無を言わせない響きを持つ声だった。ヒカルは一瞬たじろいだが、すぐに意志の光を瞳に宿す。

 

「レンなんでしょ、アキラにあの手筋を教えたの。あれを見て、オレ、やっぱり自分で打ちたいって思ったんだ」

 

「そうか。あれはアキラに頼み込まれてな」

 

 レンは静かに頷いた。アキラにそうさせるため、あえて塔矢行洋との一局を見せつけたことは、言わずにおいた。

 

 あの時のアキラの眼差しを思い出す。『ヒカルに勝ちたい』と食い下がった、あの真剣な表情を。

 

「オレ、頑張ったんだよ!」

 

 突然、ヒカルの声が弾んだ。

 

「筒井さんも三谷も、加賀だってレンに負けて吹っ切れたって、囲碁部のこと、いっぱい手伝ってくれた。オレ、みんなと佐為と、いっぱい打ったんだ!だから、そんなオレをアキラにも見て欲しくて、でも……」

 

 ヒカルの声が急に沈む。

 

「アキラが見てたのはオレじゃなかったんだ!」

 

 堰を切ったように溢れ出る言葉。その中に込められた悔しさと、それでも諦めきれない想いを、レンは静かに受け止めた。

 

 ——強化しすぎたか。

 

 レンは一人心の中で呟く。アキラの才能を開花させることに集中するあまり、ヒカルの心に影を落としてしまった。

 

「ではそこで諦めるのか?」

 

 低く、だが優しさを秘めた声が、ヒカルの心に響く。

 

「っ!」

 

 ヒカルが顔を上げた時、レンの瞳には不思議な光があった。

 

「それでは『サイ』に失礼だ」

 

 その言葉を残すと、レンは古美術店の中へと入っていく。

 

「ま、待って」

 

 ヒカルは慌てて、その後を追った。

 

◇ ◆ ◇

 

「これはこれは!錆木の坊ちゃん!おお、今日はご友人もご一緒ですかな」

 

 店の奥から現れた店主、中村茂蔵が、揉み手をしながらレンとヒカルを出迎える。店内には、時代物の花器や掛け軸、古い碁盤などが整然と並んでいた。

 

「坊ちゃんはよせ」

 

 レンは苦笑いを浮かべながら言う。

 

「この前の白磁、あれはいいものだ。先生方もお喜びである」

 

「グフッ……それはそれは!目利き冥利に尽きます」

 

 笑う店主の顔は、まさにガマガエルそっくりで、ヒカルは思わず顔をしかめた。

 

「して今日は何をお求めで……」

 

 その時だった。

 

「あ!これおじいちゃんのだ!」

 

 突然、十歳ほどの少女の声が響いた。

 

「おいコラ!商売物を勝手に触るな!」

 

「だってコレ!おじいちゃんのだもん!半年前に盗まれたのだもん!お願い返して!」

 

「ふん!安物だろうが、ただで返す筋合いはないわ!」

 

 少女が古い花器を手に取り、店主と必死に押し問答を繰り広げている。その花器は、素朴だが品のある作りで、長年の使用で味わい深い色合いを見せていた。

 

「ヒカル、何か言いたげだな」

 

 黙って様子を見ていたヒカルの表情を読み取って、レンが小声で促す。

 

「……あれ、ホンモノの慶長の花器だって、佐為が言ってるよ」

 

 ヒカルは戸惑いながらも、耳元で聞こえる声を伝える。

 

「やはりか」

 

 レンは納得したように頷くと、店主に向かって声をかけた。

 

「店主、碁盤を出せ」

 

「へ?」

 

 中村は間の抜けた声を上げる。

 

「ここにいるヒカルと打て。勝てばその花器、私が言い値で買おう」

 

 ヒカルは思わずレンを見る。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。だが、その瞳の奥に宿る静かな決意だけは、確かに感じ取ることができた。

 

「ただし負ければ、古物営業法に則って、正当な持ち主に返してもらおうか」

 

 レンの声には、有無を言わせない威厳があった。中村の顔が一瞬青ざめる。

 

「……いいんですかな?坊ちゃんのご友人とて、この中村茂蔵、日本棋院から五段の免状をいただいている身。手加減はいたしませんぞ」

 

「かまわん。全力で打て」

 

 レンは店主から向き直ると、ヒカルに低く言った。

 

「アキラは来月からプロ試験に挑む。プロとアマチュア五段とは天と地ほどの差がある。この意味はわかるな?」

 

 ヒカルの心に、電流が走った。レンが自分に何を求めているのか、今なら理解できる。

 

「……ああ、わかった!」

 

 ヒカルの瞳に、再び闘志の火が宿った。

 

◇ ◆ ◇

 

「よかったの?レン、こんな高そうな湯呑みまで……」

 

「フフフ……加賀によろしく伝えておけ」

 

 レンは笑って答える。店主は結局、ヒカルに完敗した。アマチュア五段の実力など、佐為とともに打ち続けたヒカルの前では児戯に等しかったのだ。

 

 笑顔の少女に手を振って見送った後、ヒカルとレンはカナカナゼミの鳴く夕暮れの街を歩いていた。

 

「今日はちゃんと、自分で打てたよ」

 

 ヒカルの声に、満足感が滲んでいる。

 

「上出来だ」

 

 レンの返答も、いつになく温かい響きを持っていた。

 

 二人はいつの間にか、あの公園に足を向けていた。桜の木々が夏の緑に包まれ、半年前とはまるで違う表情を見せている。

 

「前にここに来たのが。なんだか遠い昔みたいだ」

 

 ヒカルは小石を拾い上げると、ピシッと音を立てて地面へと打ち付ける。その音が、カナカナゼミの声と重なって夕暮れの静寂に響いた。

 

「オレ、どうしたら良いのかな」

 

 突然、ヒカルが呟いた。

 

「オレも打ちたいし、佐為にもオレ以外の誰かと打たせてやりたいし。仮面でも被って変装すればいいのかな」

 

「……似合わなさそうだな」

 

 レンは苦笑いを浮かべる。「あの仮面」を被ったヒカルなど、想像するだけで滑稽だった。

 

「佐為と打ってくれよ、レン」

 

 ヒカルは、絞り出すような声でそう言った。

 

 本当は、約束通り自分が強くなってからレンと打ちたい。でも、自分が打ちたいと言う気持ちが強くなったからこそ、佐為の気持ちもわかるようになっていた。

 

 レンは、ヒカルをじっと見つめた。その瞳の奥で何かが決まったような、静かな光が宿る。

 

「ヒカル、ネット碁を知っているか」

 

 夕暮れの風が二人の間を吹き抜けていった。




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