度々の誤字報告に感謝しかない
日間ランキング4位………?
('ロ' )
王がいつものように王の間へ赴くと、いつもは王が来る前に既にチェスの準備を整え、盤上をじっと見つめる老人の姿があるのだが、今日はその限りでは無かった。
「……………………」
──妙な違和感。
老人に与えた部屋を王が直々に訪れる。
もちろん親衛隊に止められた。
しかし誰のどんな言葉にも、
「余の認めた男のもとへ行くことの何が悪い。」
そう言って歩みを一度も止めなかった。
やがて部屋の前に辿り着くと、王はノックもせずに扉を蹴破る。
王の足が重々しく床を踏み鳴らす。蹴り破られた扉は壁にぶつかり、木片が飛び散った。
親衛隊の三人は慌てて後ろに控える。プフは「王…!」と声を荒らげかけたが、王の一瞥で喉を詰まらせた。
部屋の奥。
薄暗い窓辺に老人は座っていた。
無駄にきらびやかなベッドには、上体を起こしたまま微動だにしない老人がいた。
「……王。」
老人が王と視線を交わす。だがその瞳はかすかに潤み、光が弱々しい。
「今日は……準備が、遅れてしまいましたな。」
いつもなら盤を整え、駒を正確に並べ、王を迎え撃つ気迫を湛えていたはずの男。
だがその姿からは今までの活気は無く、王者としての風格は、何処にでもいるような年老いただけの男に変わってしまった。
王は一歩踏み込み、老人を見下ろす。
「……貴様、余を欺いていたな。」
老人は静かに笑った。
「ええ。チェスとは盤上で語るもの。私の弱さなど……盤に持ち込むつもりはなかったのです。」
「余を愚弄するか。」
王の声は低く、動揺しているのか少し震えていた。
「貴様の身は崩れ落ちようとしている。それを余に隠してまで盤に座り続けたのは、何故だ。」
老人は枯れ枝のような指を動かし、机の上に置かれた木彫りの駒をひとつ掴んだ。
「ただ……忘れていたのです。自分が齢80を超えた老人だと。チェスを初めて触ったあの日のように、無我夢中で……。
王、貴方との対局はこの上なく楽しい!
死ぬにはいい日など、死ぬまで分からないと思っていましたが……この日常の中、常に成長を続ける王と新鮮なチェスが出来るのなら、───もはや死ぬ事に躊躇は無い。」
王の胸奥に、初めて焦燥に似たものが広がった。
盤上の敵であり王道の先駆者であった老人が、いま自らの命を削りながらそこに在る。
「……いかなる事情でも、余を騙していたことは事実だ。故に、今日はその駒を使え。それで手打ちにしてやろう。」
「……ッ。はい…」
老人は微笑み、震える手で駒を並べ始めた。
盤上に落ちる光は薄く、だがその手の動きは誇りに満ちていた。
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ユピーに駒を並べてもらい、ピトーの念能力で延命を受けながらチェスを指す。
「……ありがとうございます……。これであと数局は持つでしょうな。」
声は掠れ、すでに余命が砂粒のように落ちているのが明白だった。
それでも老人は震える指で駒を掴み、盤に置いた。
「では始めましょう。王。」
対局が始まる。
しかし老人の身体はすでに限界を超えていた。
いくら肉体を修復しようとしても、"老い"とは細胞や血管の老化、免疫力の低下を意味する。
ピトーの念能力で出来るのは「回復」ではなく「修復」
寿命を超越するような念能力ではない為、その場凌ぎでしかない。
両者はそれをも分かった上でチェスを指す手を止めない。
駒を持つ手は細り、呼吸はひゅうひゅうと笛のように鳴る。
そんな中――不思議なことが起きていた。
老人は気づかぬまま、念に目覚めていたのだ。
ネフェルピトーの念を受けた事がきっかけとなり新たに目覚めたその念は、死を前にしてなお「対局を続けたい」という執念が、形となって滲み出していた。
盤上の駒を見つめるその瞳には、これまで以上に鋭い光が宿っている。
今までで1番の威圧感に、王は無意識のうちに笑っていた。
老人の指す一手一手が、まるで盤の呼吸そのものに同調している。
オーラが微かに立ちのぼり、老人の周囲を揺らしていた。
同時に王には、目の前にいる老人が一瞬、青年の姿に見えた。
盤上はほとんど老人の思考と同化していた。
もはや王の番が終わるのとほぼ同時に次の手を打つ程、老人の思考は加速していた。
「……嗚呼…………」
老人の声は細く、しかし満ち足りていた。
「───今日はなんて…いい日なんだろうか………。」
その一言を最後に老人の心臓は老衰に耐えきれず、完全に動きを止めた。
だが。
盤上にはまだ「手」が置かれ続けていた。
指す者のいないはずの駒が、ゆっくりと進む。
────"死後強まる念"
老人はすでに息絶えている。
だがその魂は盤上に縛られ、「対局を続けたい」というただ一つの執念によって駒を動かし続けていた。
しかし王も、親衛隊の誰も、そして老人の肉体ですら、老人が死んだことに気付いていなかった。
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その後の数十手。
老人の指が最後の駒を動かし、静かに「チェックメイト」が盤上に刻まれた。
その瞬間――老人は、ふっと穏やかな笑みを浮かべたまま、深く息を吐くように背凭れに身を預けた。
だが王は気付かない。老人は既に、この世の人ではなかった。
ピトーの念が延命のために形を保たせ、さらに「死後強まる念」が老人の意思を駆り立て、最後の一手まで駒を握らせていたのだ。
対局中――指先は震えても、駒のひとつひとつには迷いがなかった。まるで「死」という運命すら戦局に組み込み、王に挑んでいたかのように。
勝敗が決した今、念の支えを失い、盤上に伸ばされた老人の手が、静かに駒の間に落ちた。
王はピトーに目を向けるが依然として「玩具修理者」を発動したままだった。
その時になってようやくその異変を悟る。
目の前の強敵は、既に盤外に去っていたのだ。
「……おい。」
怒気を含んだ声が、やがて哀しみに変わる。
その瞳には怒りも誇りもなく、ただ深い虚無と、初めての喪失の痛みが広がっていた。
王は遂に、一度の勝利もなく老人との対局を終えたのだ。
――盤上の駒だけが、まだ戦いの熱を宿したまま静かに残っていた。
盤上で勝者となった老人の駒列を見つめ、王は初めて胸の奥に熱いものを感じる。
「……余が、学んだのは……この者の生ではなく、この者が抱く"王道"と、その“執念”そのものだ。」
王は駒列を見つめたまま、しばらく動けなかった。
勝利の形がそこにある。だがそれは、老人が命を賭して築き上げた最後の盤面でもあった。
ピトーは「玩具修理者」の糸を震わせながら立ち尽くしている。
老人は死んだ…いや、"死んでいた"のだ。
ならば何故あの腕は動いていた?
何故あの手は駒を動かしていた?
頭の疑問が中途半端なまま、王の一言で我に返る。
「……余は、勝てなかった。」
低く呟いた声は、誰に向けられたものでもない。
「この男は、余に三度の無礼を働いたのだ。
一つは、余に"老い"という病を隠していたこと……。
二つは、余との約束を違えたこと……。
三つは――」
王は言葉を切り、盤に残る駒へと視線を落とす。
そこには、敗者としての王の駒列と、勝者であるはずの老人の執念が確かに刻まれていた。
「……三つ目は、勝ち逃げした事だ。」
親衛隊は息を呑む。
それは非難であると同時に、最大の敬意の告白でもあった。
「だと言うのに……この胸に宿るのは怒りでは無いらしい。」
ただ、二度と老人と対局できない孤独の痛みだけ。
いつの日かこの老人に勝ち、更にそこから怒涛の連勝を重ねるはずだったのだ。
しかしそれは永劫に叶わなくなってしまった。
「余は…………」
「………この男の名前すら知らぬ………………」
静かな慟哭が王の胸を満たし、初めて「失う」という痛みを刻み込んでいった。
その夜、盤上に残された駒を誰も片付けなかった。
老人の“死後強まる念”が消えた後も、そこに漂う静謐さは、王と、名も知らぬ老人が交わした最後の一局の証そのものだった。