その五局目は、以前とは気配が異なった。怒りは棘となって余の手を締めつける一方で、胸の奥にくすぶる未知の高揚が指先を震わせた。男は堅実な手を積み重ね、やがて五連勝を成し遂げた。連勝の度に、怒りは敬意へと形を変えていく。その敬意は余を逆に刺激した。なぜこの齢で、こんなにも盤を愛し、こんなにも正確でいられるのか。
休憩と称して護衛軍とも盤を並べさせた。ネフェルピトー、シャウアプフ、モントゥトゥユピー。
シャウアプフは催眠で暗示を試みたが、余がそれを静かに遮ると、表情を失った。ユピーは豪力だが理詰めは不得手。ピトーは猫のように気ままに見えながら、こと棋譜に関してはお粗末で、しばしば盤をひっくり返す羽目になっていた。彼らに教える男は、まるで職人のように的確に誤りを指摘し、しかしそれは単なる技術伝授ではなく、なぜか余への無言の問いかけに思えた。
再び余と男の対局が始まる。駒をいくつか進めた後、男がふいに問いかけた。
「王は……何を成すおつもりなのですか。」
盤上を見据えたままのその声に雑念はなく、純粋な疑問が宿っているだけだった。
横目でその男を見下ろしながら返す。
「余は頂点に。それ以外に何がある。」
それに男は瞼を閉じ、深く息を吸う。続けざまに余の答えを噛み砕くように問い返した。頂点とは人の上に立つことか、世界の上か、と。
「どちらも同じことだ。」
余は答えた。群れる者を束ねる者こそが王だ。全ての群れを束ねる者こそ、世界の王たるべき存在である、と。
すると、老人は微笑を浮かべた。そこに侮辱も嘲りもない。
「確かに、王にはその器があるでしょう。しかし――」
「王の道は孤独です。勝ち続ければ敵しか残らず、やがて敵すら消えれば……何も残らぬ。それでも、頂点を目指すのですか。」
一瞬、沈黙。男の向こうでプフの羽が震え、ユピーの息が荒くなるのを感じる。
余は迷いなく告げた。
「余は孤独を恐れぬ。……なぜなら孤独とは、すなわち支配の証だからだ。」
男の目がわずかに揺れた。理解不能の言葉を聞いたかのように。
やがて男は微笑みを浮かべて言った。
「……なるほど。ならば王よ。貴方は常に勝たねばならぬ。盤上でも、盤外でも。敗北は許されぬ。常に──無敗でなければならない。」
「当然だ。余は敗北を知らぬ王。敗北を知る時は――」
言うと男は深く頷いた。
「見事なお言葉。ならば私に勝つことこそが、王にとって真の『支配』への証明となりましょう。」
「言わずもがなだ。余は必ず、お前を越える。」
「素晴らしい心意気ですな。チェックメイト。」
またか。唇を噛み、低く吐き捨てる。
「……もう一度だ。」
駒を並べ直し、今度はこちらから問うた。
「お前は、何を成して生きてきた。」
男はしばし黙し、ビショップを指で弾きながら答える。
「私はただチェスを愛し、チェスに尽くしてきました。墓石をポーンにしたいと願うほどに。」
その言葉と同時に、余のクイーンを誘い出し、ルークで仕留めた。…チェックメイト。
「……もう一度だ。」
男はぽつりと呟く。
「私はこの世に、チェスと私の名を刻んできました。」
そして前世の話を始めた。
圧倒的な個が国を治めぬ異世界。欲望が支配する秩序なき人の世。
「くだらぬ。強者が治めぬ世界など、瓦解するだけだ。」
だが、男は否定も肯定もせず、ただ遠い目で盤上を見つめ続けた。
やがて男は言った。
「王よ。真の支配とは暴力による恐怖ではなく、“心を掴む”ことです。」
……理解できぬ言葉。だが、この胸奥で何かがざわめいた。
余の中で何かが…大事な何かが変わりつつあるのを実感する。
それが無性に苛立つ。
いつの間にか、互いに同じ局面を繰り返していることに気づく。2つの手は、知らぬうちに同じ解を探し、同じ応手を返していた。三度、同一の局面が現れる。千日手。盤上に静かな断絶が立ち現れる。
男が先に口を開いた。短く、しかし含蓄のある声で――
「…………………おや。」
余は鼻を鳴らし、答えた。
「千日手、か。」
一瞬の静寂。蝋燭の炎がわずかに揺れ、影が盤上を滑った。胸の中で渦巻いていた嵐が、重い鉛のように沈む。しかしその底に、まだ燃え続ける火がある。王は息を整え、ゆっくりと言葉を吐いた。
「……もう一度だ。」
短い声。その端にあるのは怒りでも苛立ちでもない。盤上に己の答えを刻むための、清澄な決意であった。王は男に勝つまで、盤の前に座るのだ。己の輪郭を、己の真価を確かめるために。