コメントにそれらしい心情が書かれすぎて難産だった。
考察されまくる某大海賊漫画家を心から尊敬する。
王の間へ赴いた王は、いつもの光景を期待していた。
先んじて盤を整え、駒を並べ、王を待ち構えるはずの男の姿を。
だがそこに男は居なかった。
「……………………」
胸奥に妙な違和感が走る。
1度据えた腰を持ち上げ、男に与えた部屋へと足を運ぶ。
護衛軍の1人、シャウアプフが王を止める。
「王自ら訪ねる必要はございません。ここは私に!どうかこの私にお任せください!!」とプフが声を荒らげるが、王は一瞥するだけで黙らせた。
「余の認めた男のもとへ行くことの、何が悪い。」
やがて扉の前に辿り着く。
躊躇いなく扉を蹴破ると、木片が飛び散り、静寂を突き破り轟音が部屋を満たした。
護衛軍は後ろに控え、息を呑む。
奥の窓辺。
そこに男は居た。
煌びやかな寝台に身を預け、動かぬまま。
王が近づくとようやくその瞳が揺らぎ、掠れた声が漏れた。
「……王。」
起き上がる事にすら全身全霊を込めている始末。
昨日までの活気はどこへやら。瞼はほとんど開いておらず、息の通り道が絞り込まれ、ヒュウヒュウと風切り音を立てる。
「今日は……準備が遅れてしまいましたな。」
王は睨み据える。
「……貴様、余を欺いていたな。」
その身は既に崩れかけている。老いという病に蝕まれ、歩くことすらままならない。
それを隠し、余と対局を続けていたというのか?
真実を知れば、余がこの男との対局を止めると思ったのか?
怒りがふつふつと湧いてくる王を差し置いて、男は微笑んで言った。
「私の弱さなど盤に持ち込むつもりはなかったのです。」
愚弄。だが胸の奥に震えが走る。
「貴様の身は今にも崩れ落ちようとしている。
それを隠してまで盤に座り続けたのは、何故だ。」
男はサイドテーブルの上に置かれた木製のチェスの駒を一つ掴み、達観したような目で答えた。
「ただ……忘れていたのです。自分が齢80を超えた老人だと。
チェスを初めて触ったあの日のように、無我夢中で……。王、貴方との対局はこの上なく楽しい!
死ぬにはいい日など、死ぬまで分からないと思っていましたが……この日常の中、常に成長を続ける王と新鮮なチェスが出来るのなら、───もはや死ぬ事に躊躇は無い。」
王は言葉を失った。
男を盤上に縛り付けるその執念は、敬意と呼ぶべきか、狂気と呼ぶべきか。
初めて人の「執念」に触れた王の心には、新しいモノが形成され始めていた。
「……いかなる事情でも、余を騙していたことは事実だ。故に、今日はその駒を使え。それで手打ちにしてやろう。」
震えた声だ。
自分で自分が情けなく感じるほどの……。
「はい……」
男は一言しか言わなかったが、その表情からは喜びが隠しきれていなかった。
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──対局が始まった。
ユピーが駒を整え、ピトーが念で延命を施す。だがそれもその場しのぎ。
老いという劣化は修復できない。王も、男も、それを承知していた。
その上で走り始めた駒を止めることは無い。
最後の数局を、思い残すことがないように。
駒を持つ手は細り、呼吸は笛のように鳴る。
男の汗が盤に垂れる。
それでも男は一手を刻む。
一手ごとに男の命が零れ落ちていくのを王は理解していたが、この男は、ベッドに横たわったまま静かに死ぬのでは無く、余と満足のいくチェスをしてようやく未練を残さずに逝けるのではないか。その思いが王の手を動かしていた。
この男が、自身の身を案じて対局を中断されることをどれだけ恐ろしく、どれだけ悔しく感じるのかは想像にかたくない。
やがて王は奇妙な光景を目にした。
男の瞳が強烈な光を宿し、オーラが立ちのぼる。
針の穴程の光だと言うのに、王はそれを直視できずにいた。
目の前の男が死を前にしてようやく掴んだ微かな光が、これ程美しいのか。
その気配に、王は無意識に笑みを浮かべていた。
──これこそ、盤上の王。
男の手は加速し、王の手番が終わると食い気味に男の次の手が打たれる。
圧倒的な流れに呑まれながらも、王は確かに愉悦を覚えていた。
「……嗚呼…………今日は……なんていい日だろうか………」
今日の、この対局の一瞬一瞬を噛み締めるように男は呟いた。
それからは終始無言であった。
いつの間にか男の震えは止まり、汗は男の目から歓喜の涙となって零れていた。
オーラは鋭さを増し、男の背からは後光が差していた。
タンタンタンと、盤上を駒が駆ける。
(余のポーンをナイトで取り……そのビショップで残った余のナイトを牽制、キャスリング*1で王の守りをより固める…………
守りに入りつつも全ての駒が余の駒を狩るように動く……!それでいて全ての駒が後の伏線足りうる…!
この男は一体どこまで……!)
王の心臓が高鳴る。
究極の更に向こうへ歩み始めた男に勝てる道理は万に一つも無い。
それでも、王はその男から少しでも学びを得ようと必死に食らいついた。
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血湧き肉躍る開戦から数時間経過。
男の駒が王の逃げ場を完全に遮断した。
────「チェックメイト」。
最後の一手と共に男の口から出るはずの言葉が無かった。
その時ようやく、ピトーの「玩具修理者」の空虚さに気づいた。
男の鼓動は既にその動きを止めており、男の喉は何も行き来していない。
瞬間、頭の中に広がるこれまでの盤面が、記憶の奥深くへと刻まれた。
「……おい。」
返事は無い。嫌でも理解してしまう。
声を発した王の胸に、怒りと哀しみが広がる。
深い喪失。初めて味わう虚無。
王は遂に、一度の勝利もなく男との対局を終えたのだ。
「……余は、勝てなかった。」
誰よりも老いた体で戦い、
誰よりもチェスを愛したその男は今、人知れず散った。
「この男は、余に三度の無礼を働いたのだ。
一つは、余に"老い"という病を隠していたこと……。
二つは、余との約束を違えたこと……。
三つは――」
王は言葉を切り、盤上に刻まれた男の"執念"を見つめる。
(疑いようのない、完璧な敗北だ。肉体が滅んでもなお、最後の瞬間まで盤上に残った"執念"。
見事なまでの……"命の徒花"と言ったところか……。)
「……三つ目は、勝ち逃げした事だ。」
言葉は非難のようであり、しかし同時に最大の敬意の表れでもあった。
「だというのに……この胸に宿るのは怒りではないらしい。」
否。
その心は男への尊敬と、それに勝るほどの己への怒りが渦巻いていた。
(余はこの男に直接感謝の1つでも述べたか?
余はこの男の王道を本当に学べたのか?
余はこの男のチェス以外を知っているのか?
余はチェスでこの男を満足させられたのか?
………………………………………………………………………余は……………)
しかしそのどれも、行き着く先は一つ。
ただ、孤独。
「余は……この男の名すら知らぬ…………」
王の心はそれを、"触れてはならぬ、直接男の口から聞かねばならなかった、神聖なモノ"として、自ら空白を刻み込んだ。
その夜、王は盤上を見ていた。
男は"老い"にすら、屈強な精神をもってして耐えきり、見事王に勝利したのだった。
王の学びは勝敗に非ず。
二度と交わらぬ対局を思い、王は静かに天を仰いだ。