あれから数日。日が経てば多少は慣れるもので、生活もある程度の落ち着きを見せていた。となれば、トレーナーとしてやる事は一つだろう。
「今日からまたよろしくね。スティル」
「はい。こちらこそよろしくお願いいたします。トレーナーさん」
恭しくお辞儀をするスティルを前に気を引き締める。今日からトレーニング再開だ。とはいえ、色々あったしスティルも本調子では無いだろう。怪我の無いように注意しないと。
「…」
そこまで考えてふと、物珍しそうにこちらを見つめるスティルに気付いた。まあ、原因は『これ』だろうと髪の毛を指先でくるくると遊ばせる。
「やっぱり気になる?」
「~っ!?そ、そこまで分かりやすかったでしょうか…?」
今の私は、スティルと見分けがつくように髪を束ねてポニーテールにしている。本当は以前の様にショートカットにしようかとも思ったのだけど、あまりに綺麗な髪だったから、惜しくなってしまった。
「変、かな?」
「いえ良くお似合いです…!あの、自画自賛ではなくトレーナーさんだからこそと言いましょうか…!」
「す、スティル、落ち着いて…」
何故か興奮して距離を詰めて来たスティルをどうにかなだめる。興奮している理由は良く分からないけれど、気に入って貰えたらしい。
「…も、申し訳ありません。はしたない姿を見せてしまって…」
「気にしないで。ポニーテール、好きなんだね」
「…そちらではなく、トレーナーさんが…」
「?何か言った?」
「っ!いえ、何でもありません。早速始めましょう」
「そう?じゃあ、始めようか」
少し釈然としないけれど、スティルに促されてトレーニングを開始する。ブランクも長いし、最初は軽いものから。徐々に負荷を強くしていこう、そう思っていたのだけれど。
「凄いよスティル!まるでブランクを感じさせない!」
「ふふ。お褒めに預かり光栄です」
スティルの調子は絶好調で、トレーニングメニューを易々とこなしてしまった。これなら、普段通りのメニューで良かったかもしれない。さて、予定より早く終わってしまったけれどどうしようか。そう考えた、その時だった。
「…本当にそっくりなのね」
「あ、貴方は…」
「お久しぶりです。アルヴさん」
「ええ、久しぶりねスティルさん。トレーナーさんも」
不意に声を掛けられ振り返れば、そこにいたのはアドマイヤグルーヴだ。やはり物珍しげに私とスティルを見比べている。
「いったい何がどうなったらこうなるの?」
「それがまったく分からなくて…」
問い掛けに何も答えることが出来なくて、私は思わずスティルと顔を見合わせて苦笑した。本当に、何がどうなっているんだろう。
「…その様子だと、気付いていないみたいね。見られてるわよ、貴方達」
「え?」
アドマイヤグルーヴの言葉に周囲を見渡せば、確かに数人のウマ娘がこちらを遠巻きに眺めていて。私に見られていると気付くと慌てて顔を逸らした。それだけじゃない。
「本当に二人共そっくり…」
「こうして見るとスティルさんって綺麗だよね…何で気付かなかったんだろう…」
「ポニーテールのトレーナーさん、良いかも…」
ウマ娘になって耳も良くなったせいか、ひそひそと話し声まで聞こえてきた。考えてもみれば、ウマ娘になったトレーナーなんて注目の的だ。こうなるのは当然だろう。スティルに夢中でまるで気が付かなかった。
「…大丈夫スティル?もし嫌なら、今日はここで切り上げ…、スティル?」
「…」
いつの間にか、スティルは思い詰めた様にうつむいていた。やはり、不躾に見られるのは得意じゃないみたいだ。今日はここで切り上げよう。そう思ったのだけれど。
「あの!アルヴさん!私と、走って頂けませんか!?」
顔を上げたスティルから飛び出した言葉は、そんな予想外のものだった。しかも珍しく大声を上げて、どこか切羽詰まった様な様子だ。
「構わないけれど、急にどうしたの?」
「その、確かめたい事があって。決して他意は…。トレーナーさん、よろしいでしょうか?」
「私も構わないけど、大丈夫?人もかなり集まっているけど…」
「問題ありません。やらせて下さい」
どうやら、やる気は十分の様だ。体の方も、今までのトレーニングを見る限り問題は無いだろう。ここで実際のレースでの調子を確認するのも良いかもしれない。
「なら、早速始めましょうか」
「はい。よろしくお願いいたします…!」
こうして、スティルインラブとアドマイヤグルーヴ、二人の久しぶりの対決が始まるのだった。
◆
「はあああああああッッ!」
「アはははハはハハハああァ!!!」
二人の模擬レースは熾烈を極めた。アドマイヤグルーヴもそうだけど、やはりスティルの走りは凄まじい。目を逸らしたくなる程凄惨で、目が離せない程鮮烈で。見るものを震え上がらせる様な、恐ろしくも美しい走りだった。
また、彼女の走りを見ることが出来る。この先も、ずっと。その事実に泣きそうになるけれど、今は模擬レース中だ。トレーナーとして最後まで見届けなくては。
「はあっ、はあっ、はあっ…!」
「はあっ、あぁ、ハハはっ…!ああ、やっぱり最高のご馳走よ、アナタ…!」
「二人共、お疲れ様!」
そうして模擬レースを終えた二人に、タオルとスポーツドリンクを持って駆け寄る。まるで重賞の様な、気迫溢れるレースだった。このレベルのレースを今日出来たのは幸運だった。これは明日からのトレーニングに活かせそうだ。
「…」
「スティル…?」
少し浮わついた気持ちだった私は、スティルの瞳を見て現実に引き戻された。未だギラついた瞳は、まるで獲物を見つめるかの様に私を捉えていて、一歩、また一歩と距離を詰めて来る。そのまま目と鼻の先まで近づいて、私の顔へと手を伸ばそうとしたところで、スティルの動きが止まった。
「っ!タオルとドリンク、ありがとうございます。頂きますね」
「う、うん」
まるで何事も無かったかの様に、スティルはタオルとドリンクを受け取って距離を取った。不可解な現象に困惑しつつも、アドマイヤグルーヴにもタオルとドリンクを渡す。
「今日はありがとうございました。アルヴさん」
「礼なんて良いわ。私も良い刺激になったし」
二人が談笑している間に、ふと気になって周囲を見渡す。あれだけいた見物客は、スティルの走りに怯えたのかかなり少なくなっていた。彼女が愛されるウマ娘になるまで、まだ先は長そうだ。私ももっと頑張らないと。
「…もしかして、これが狙いだったの?」
「な、何の事でしょう?」
「…まあ、良いわ。でも、せっかく戻って来たんだから、私に置いてかれないでよね」
「っ!はい。また一緒に走りましょうね」
「ええ。またね」
私が周りに目を向けている内に、二人の会話も一段落したようだ。それにしても、初対面の時と比べると二人も随分打ち解けた。この調子で、スティルの周りに人が増えると良いんだけど。
「…?」
そこで急に、胸の内にモヤモヤとした感覚が襲って、すぐに消えてしまった。何だったんだろう。また何かしらの不調だろうか?続くようなら病院に行かないと。少しの違和感を残しながら、初日のトレーニングは順調に終わるのだった。
◆
「ふぅ…」
ベッドに横たわって、大きく息を吐く。思い浮かべるのは今日の一幕、レース後のスティルの様子だ。本能が抑え込めていない様に見えた。去年のジャパンカップあたりからは安定していた気がするけれど、久しぶりのレースで昂ってしまったのだろうか?しばらくは注意した方が良いかもしれない。
本能といえば、同じ体になった私にも何か影響がないかと心配していたけれど、あのレースを見ても何も起きなかったし大丈夫そうだ。変化したのは体だけで、精神には影響が無いらしい。いや、そういえば一つだけあった。
この体になってからどうも、感情の抑えが効かないというか、精神が幼くなってしまっている気がする。肉体に引っ張られているのだろうか?仕事に影響は出ていないけれど、最近お菓子が美味しくて、つい間食ばかりしてしまう。このまま、スティルと同じ見た目で太る訳にはいかない。自重しなければ。
「ん、電話?」
私が密かに決意を固めていると、不意に電話が鳴った。スマホを取って誰からか確認すれば、スティルからの着信だった。こんな夜中に珍しい。
「もしもし、スティル?」
『あっ、トレーナーさん…』
「どうしたの?何か用事?」
『その、声を聞きたくなってしまって。ご迷惑だったでしょうか?』
「全然。私も声が聞けて嬉しいよ。それにしても珍しいね」
本当に珍しい事だ。彼女とは毎日の様に顔を合わせているし、こうして電話でやり取りをする機会は少ない。特に、スティルの方から掛けてくる事は滅多に無くて。
「『本能』の方の貴方が、こうして電話してくるなんて」
それが、『本能』の方となると、初めての事だった。
『…ふふ』
「その笑いは、肯定って事で良いんだよね?」
背中に嫌な汗が伝う。今日は満月でもないのに、何故彼女が表に?
『やっぱりアナタは、ワタシの事をよぉく理解してくれてるのね』
「…貴方が電話なんて、いったい何があったの?」
『アナタが欲しいの』
「私が?」
あまりにも端的な答えに首を傾げる。欲しいも何も、私はスティルの担当で、ある意味ではスティルのものであると思うのだけれど、どういう意味なのだろう。
『本当は、今すぐにでもそちらに行きたいのだけれど。そこまでは、私も許してはくれないだろうから』
「私に、伝えたい事があるのかな?」
『いいえ。ただアナタと話したかっただけ。今のワタシにとっては、それくらいアナタとの時間も大事だもの。ねえ、運命の、アナタ…?』
驚く程に甘い声だった。甘く蕩けて、気を抜けば引きずり込まれてしまいそうな、そんな危うさを秘めた声だった。
『一つになるはずが分かたれて、アナタはあの場所での事を覚えていない。こんなの生殺しだわ』
「あの、場所…?」
思わず恍惚としそうになるのを必死に耐えていると、引っ掛かる言葉が出てきて、思考がそちらに引き寄せられる。
あの場所。明言はされていないけれど理解出来る。スティルと再会した、あの花畑の事だろう。覚えていない訳無い。そう反論したかったのに、頭に靄が掛かったみたいに詳細が思い出せなかった。何か、大事な話をしたはずなのに…!
『同じものが流れているから、アナタはもう染まらない。同じに成れない。なら、近付くしかないでしょう?誰よりも近くで、アナタと一緒になるの。無理矢理にでも、と思っていたけれど。その必要は無さそうで嬉しいわ』
「何を、言って…?」
言葉が抽象的で、良く理解出来ない。なのに何故か、図星を突かれたかの様に、私は動揺してしまっていた。
『既に舌の上なのだから、飲み込むのは味わってからでも遅くは無いもの。ねえ、アナタ…』
彼女の囁きに、ゾクゾクと、形容しがたい感覚が背筋を走る。酷く魅惑的なその声に危機感を覚えながら、私は拒む事が出来なかった。
『ちゃあんと、自分で気付いてね…?』
その言葉を最後に、電話は切れた。心臓がうるさい。内容は良く分からなかったのに、自分の中の、何か重大な秘密を暴かれた気がして落ち着かない。結局その日は良く眠れなくて、私は久々に寝不足のまま一日を過ごす事になるのだった。