「え?"あの子"が昨夜、トレーナーさんに電話を?」
翌日のトレーニング前、昨夜の事をスティルに詳しく聞こうと思ったのだけれど、返って来たのはそんな困惑だけだった。
「申し訳ありません。昨夜は早くに寝てしまって。まさかそんな事があったなんて…」
「そっか、スティルも知らなかったんだ…」
今までの条件に当てはまらない、本能の暴走。思わぬトラブルの発生に、私達の間に重たい沈黙が流れる。
「スティルは、原因に心あたりは無いの?」
最初に口を開いたのは私の方だった。解決の糸口を探ろうと、スティルへと問いかける。それに対しスティルは、肩をビクリと跳ねさせて、
「…はい。何も」
明らかに何かありそうな様子で、そう答えた。何があったのか聞きたいけれど、今聞き出すのは無理そうだ。
「…そっか。何かあったら言ってね」
「…ありがとうございます。申し訳ありません、何度も迷惑を掛けてしまって」
「気にしないで。スティルと一緒に居て、迷惑だなんて思った事無いもの」
「っ!そう、ですか。それならば、嬉しいです」
本当に嬉しそうに、スティルは微笑んだ。あまりに綺麗な笑顔に、見惚れそうになるのを堪えて、私は解決策を考える。何が原因かは分からないけれど、スティルが悩んでいるのは明らかだ。ならせめて、少しでも不安を和らげてあげたい。
「ねえ、スティル」
「はい。何でしょう?」
やっぱり隠し事をしている事に後ろめたさがある様で、スティルは少し緊張している様子だった。そんな彼女に出来るだけ優しく語りかける。
「もし良かったら、今度、また二人でおでかけしない?」
◆
心がソワソワとして落ち着かない。トレーナーさんとの、久しぶりのおでかけ。あまりに楽しみ過ぎて、また二時間前に待ち合わせ場所に来てしまった。
「…変じゃないかしら?」
今日の為に買った、新しいお洋服を見下ろして一人呟く。あの方は似合っていると、可愛いと言ってくれるだろうか?想像するだけで幸せで、満ち足りた気持ちになる。
「…いけない、いけないわ…」
浮わついた心を落ち着ける為に、一度深呼吸をする。この気持ちに蓋をすると決めたのだから、もっと冷静にならないと。今回だって、きっとあの方は私の事を思って誘ってくれたのだから。
まさか、"あの子"が私が寝てる間に動き出すなんて思ってもみなかった。幸い今回は、ただ電話をしただけだそうだけれど、今後はよりいっそう自分を律しないと。
「スティル!」
そう決めた直後だったのに、あの方の声を聞いて私の胸は高鳴ってしまう。あまりに簡単に揺れる決意に、先行きを不安に思いながらも振り返れば、私の思考は完全に止まってしまった。
「お待た、せ…」
トレーナーさんは、私と同じ服装をしていた。違いなんてヴェールの有無くらいで、後は全く同じだった。あちらも気付いた様で、頬を赤く染め、固まってしまっている。
「スティルも、その服、持ってたんだね…」
「ええ、はい…」
ぎこちなくこちらに歩み寄りながら、トレーナーさんは口を開いた。対する私はもういっぱいいっぱいで、淡白に返事をする事しか出来ない。
「その、これ、スティルに似合いそうだなって思わず買っちゃって。ごめんね、恥ずかしいよね、トレーナーとお揃いなんて」
「いえ恥ずかしくなんてありません」
いっぱいいっぱいだったはずなのに、否定の言葉はするりと口から飛び出した。本当は恥ずかしくはあるのだけれど、それは断じて、トレーナーさんとお揃いなのが嫌、という訳では無いから。
「嬉しいです。トレーナーさんが私の事を考えてくれて」
ぽつりぽつりと、熱くなった頭で言葉を探す。いつも私を元気付けてくれるように、貴方にも自分を卑下して欲しくなくて。貴方は素敵な人だと伝える為に、精一杯の本音をぶつけた。
「そのお洋服、良くお似合いですよ」
言って、自分で恥ずかしくなる。今のトレーナーさんの容姿を褒めるという事は、間接的に、私自身を褒める様なものだ。それでも、私はトレーナーさんを綺麗だと思ったから、恥ずかしくても気持ちを伝えたかった。
「…うん。ありがとう。スティルも、良く似合ってるよ」
「…っ!こちらこそ、ありがとう、ございます…!」
トレーナーさんに褒められて、嬉しくて堪らない。少しでも気を抜けば、だらしなく頬が緩んでしまいそうで、何も言えなくなってしまう。トレーナーさんも照れくさそうに目を逸らして、しばらく、沈黙が場を支配した。
「…行こうか」
「…はい」
そうして、たっぷり時間を掛けて再起動した私達は、ようやく目的地へと歩き出した。その間も気恥ずかしさがあって会話は無いまま、私はトレーナーさんの顔をちらりと盗み見た。恥ずかしそうに頬を染めたその顔は、私と同じ顔のはずなのに、トレーナーさんというだけで愛くるしく見える。そのまましばらく観察を続けていれば、落ち着きを取り戻した頭が、まだ約束の時間より随分と早い事を思い出した。
「そういえば、随分と早い到着でしたね?まだ時間まで二時間程あったのに…」
「貴方は来ると思ったから」
さらりと告げられた言葉に、私はしばらく呆けてしまった。トレーナーさんはいつも優しくて、私の事を大事にしてくれる。でも、私はトレーナーさんに自分自身も大事にして欲しいから、恐る恐る口を開いた。
「私が好きでしている事ですから、貴方まで合わせて頂かなくても。もし私が時間通り来ていたら、かなり待たせてしまう事になりますし…」
「それこそ、私も好きでしている事だから。それに、貴方を待つ時間だって、私に取っては楽しい時間だよ」
「…っ!」
そう言われては、私は何も言えなかった。ずるい。こういう時のトレーナーさんは、本当にずるい。なんてことの無い様に、私に喜びと幸福を与えてくれる。私はもう、はち切れるぐらいにそれを貰っているのに。今の時点でこれなら、今日が終わる頃には、私はどうなってしまうのだろう。不安でもあり、楽しみにもしてしまっている自分がいた。
◆
色鮮やかな花畑の中を、スティルと二人一緒に歩く。ちらりと横を見れば、スティルは瞳をキラキラと輝かせていて、その様子を見ているだけで満ち足りた気持ちになった。
「綺麗な場所ですね」
「でしょう?以前ネットで見つけて、一緒に来たいと思っていたんだ」
「ええ。一緒に来れて嬉しいです」
綺麗な景色を堪能しながら、ゆっくりと歩く。そんな穏やかな時間が心地良い。スティルも楽しんでくれている様で、声がいつもより弾んでいた。
「「あっ」」
不意に手の甲が触れ合って、声が重なる。スティルは少し恥ずかしそうにしていて、多分、私も同じ様な顔をしていた。
「…繋ぐ?」
「え?」
驚いた顔のスティルを見て、しまったと思い直す。流石に距離が近すぎた。慌てて撤回の言葉を口にしようとして、スティルの手が、おずおずと私の手を握った。
「少し、恥ずかしい、ですね…」
言葉とは裏腹に、スティルの手はしっかりと私の手を握っていて。私は何も言えずにその手を握り返した。するとスティルがこちらを見つめて、幸せそうに笑うものだから、私も釣られて笑みを溢した。
幸せだな、と思う。スティルと過ごす時間が、私に取って何よりも大切で。スティルにもそう思えて貰えたら、それに勝る幸せは無い。
「本当に、綺麗な場所ですね」
「そうだね。気に入って貰えて良かった」
手を繋いだまましばらく歩いて、緊張も解れれば必然、会話が再開される。
「この花達も、大事に育てられてきたからこそ、こんなに綺麗に、美しく咲いているのでしょうね」
「も?」
「私も今、トレーナーさんに大事に育てて頂いていますから」
思わぬ不意打ちに、言葉が出てこない。トレーナーとして、こんなに嬉しい言葉は無くて。感動している私に、スティルは更に言葉を続けた。
「いつの日か私も、この花達の様に美しく咲けるでしょうか?」
「もう咲いてるよ。皆気付いていないだけ」
スティルの問いに即答する。トリプルティアラも、あのジャパンカップも、スティルの努力が花開いたからこそ勝利を掴めた。むしろ、今もまだ影が薄い扱いなのがおかしいのだ。
「貴方の美しさが皆に伝わるよう、これからも頑張るね」
「…はい。私も、貴方と一緒に頑張ります。この先も、ずっと」
そう言って、スティルは柔らかく微笑んだ。ああやっぱり、スティルが一番美しい。そうやって見惚れていたからだろうか。
「わっ!?」
「トレーナーさん!?」
再び歩き出そうとした私は、うっかりつまづいて、私を助けようとしたスティルを巻き込んで転んでしまった。私がスティルに覆い被さる様な形になって、慌てて退こうとしたのだけれど。
「…あっ」
目と鼻の先、瞳に映る景色さえ見えそうなくらいに、スティルの顔があって。私は何故か動けなかった。顔が熱い。心臓がうるさい。気付けば視線は、彼女の唇に釘付けになっていた。
「トレーナー、さん?」
「っ!ご、ごめんね!」
スティルの声を聞いて、ハッとして体を退ける。私は今、何をしようとしていた?
「怪我は無い?」
「はい。問題ありません。トレーナーさんは?」
「私も、大丈夫」
混乱しながらも、どうにかスティルの無事を確認する。確認しながら、私の頭の中はさっきの事でいっぱいだった。頭はぼんやりとして、心臓は痛いぐらいにうるさくて、もっと彼女に近づきたくて堪らなくなる。あれは、あれはまるで。
───恋を、しているかの様だった。
◆
「…はぁ」
帰ってきて早々、玄関の扉に身を預けてその場にへたり込んだ。スティルはおでかけをちゃんと楽しめただろうか、不審に思われていないだろうか。不安が胸の内を蝕んでいく。何より、この想いがバレていないか、気が気でなかった。
どうやら私は、スティルの事が恋愛的な意味で好きらしい。教え子に恋をするなんて、トレーナー失格だ。自分が情けなくて、少し泣きそうになった。
あの、狂気的な走りに惹かれた。けれど普段の彼女は控えめで、心優しい少女で。守りたい、報われて欲しいと、そう想ったのだ。想うことばかりに夢中で、胸の内で育っている感情に気付かなかった。
トレーナーから下心を向けられているなんて知ったら、彼女は酷く傷付くだろう。それだけは絶対に避けなくてはならない。
「…っ!」
けれど、気付いてすらいなかった想いは、いつの間にか大きく肥大化していて。これからこの気持ちを隠して彼女と接すると思うと、胸が張り裂ける様だった。
ウマ娘になってからずっと、感情が上手く抑えられない。以前なら何とも無かったはずの事にまで、心が乱される。今なら分かる。あの時感じた胸のモヤモヤは、嫉妬だ。私以外が彼女の側にいることに、嫉妬してしまっていた。それくらい、今の私は子供だった。
「駄目、駄目…っ!」
大人でいないといけない。じゃないと、スティルを支えられない。一緒にいられない。私だけの貴方でいていいはずがない。だって、だって貴方は、
「『皆』に愛される、ウマ娘になるんだから…!」