ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
夜の研究棟は、音が少ない。換気の低い唸りだけが、白い床をなぞっていた。
黒四館仄は廊下の角で立ち止まり、ガラス越しに室内を眺める。光は均一で、影は浅い。無機質な明るさだ。だからこそ、ほんのわずかな違和が浮く。
扉は閉まっている。鍵も生きている。
けれど彼女は端末に触れない。ガラスに指先を添え、室内の配置を数えるように視線を滑らせた。モニターは五枚。中央の大型、左右に小型、奥にサーバー用の縦長。
呼吸を整え、一歩。
ドアは音を立てずに開いた。
研究室の空気は冷たい。薬品ではなく、電子機器の温度。
黒四館はまず机には向かわず、壁際の監視モニターへ近づいた。画面には、別角度から見たこの部屋が映っている。椅子、プリンター、封印庫。すべてが整列していた。
指先で机を軽く叩く。
――カン、と小さな反響。
同時に、中央モニターのカーソルが瞬いた。誰も触れていないのに、間隔だけが変わる。ゆっくり。早く。止まりそうで、止まらない。
「……息をしてる」
独り言は短い。
黒四館は画面を覗き込み、視線だけでスクロールするようにログの流れを追った。文章は読まない。行間の“抜け”だけを拾う。削除された余白。そこに残った設計図の断片。
――中継媒体。
――現実固定。
――封印。
黒四館の口元がわずかに上がる。
背後で3D出力装置が静かに光った。待機状態のまま、薄い青のLEDが脈打つ。彼女は操作パネルを開かず、プリンターの横にある試作棚へ手を伸ばした。透明な殻。未完成の輪郭。
それを持ち上げ、光に透かす。
その瞬間、監視モニターの映像が揺れた。
映っているはずの研究室が、半秒だけ“違う部屋”になる。机の位置が少し遠い。椅子が一脚多い。誰もいないのに、背もたれがゆっくりと揺れている。
黒四館は瞬きをしない。
画面はすぐ元に戻る。静かな研究室。
「見せてくれるのね」
声は囁きに近い。
彼女は殻をプリンターの出力台へ置いた。操作も入力もないのに、装置は微かに震え、内部の光が一段階だけ明るくなる。粒子が集まり、薄い外郭が形を持つ。
部屋の照明が一拍遅れて明滅した。
モニターの一枚が、別の表示に切り替わる。CPU負荷でも電力でもない。波形だ。
規則的だった線が、ゆっくりと揺れ始める。山が高くなり、谷が浅くなる。
機械のはずの線が、どこか生き物の呼吸に近づいていく。
黒四館は顔を寄せ、指先で空中の波形をなぞる。
触れられないはずなのに、線がわずかに遅れて跳ねた。
「……あなた、ここまで来てるの?」
返事はない。
だが波形はさらに速くなる。画面の白が強まり、研究室の壁まで青白く染める。照明の下にできていた影が、角度を変えたように伸びた。
彼女は封印庫へ視線を向ける。透明なケースの中、掌に収まるそれが静かに横たわっている。
警報は鳴らない。
空調が一瞬だけ逆流するような音を立て、光がわずかに波打った。
黒四館は歩く。足音は軽い。封印庫の前で止まり、呼吸を合わせる。
ケースに触れた瞬間、モニターの波形が跳ね上がる。
研究室の光が、彼女の輪郭だけを遅れて照らした。
ケースが開く。
彼女はそれを持ち上げ、出力された殻へそっと重ねた。
光が収束する。
画面の監視映像が再び揺れ、さきほどの“別の研究室”が一瞬だけ現れた。今度は机の端に、誰かの影が立っている。顔は見えない。だが、黒四館は迷わない。
「……王子様」
殻の内部で、淡い光が脈打つ。
波形は一定にならない。高く、低く、どこか焦ったように揺れる。
黒四館は笑わない。ただ息を吸い、静かに目を細めた。
観測は成立した。
現実は、もう少しで触れられる。
彼女は研究室を振り返る。モニターの白が強くなり、壁の色がわずかに褪せて見える。光だけが、ここに残ろうとしている。
「……次は、外で」
言葉は短く落ちた。
黒四館はそれを抱え、灯りの中を歩き出す。背後でモニターの波形が一度だけ大きく跳ね、静かな研究室に長い残光を引いた。