ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
朝は、いつも通りに始まった。
中庭の芝はまだ湿っていて、踏むと靴裏が小さく吸い付く。購買の前にできた列は、パンの匂いで少しだけ浮かれている。誰かが缶コーヒーを開け、炭酸の抜ける音が一瞬だけ鋭い。
俺はその音に肩をすくめて、校舎へ向かった。空は薄い雲。光は柔らかい。――油断しやすい朝だ。
「万津、今日は顔色いいね」
隣を歩く最原が、端末を胸に抱えたまま言う。声は静かで、でも油断してるわけじゃない目。
「……そう見えるだけだ」
「うん。そういう言い方、いつも通りだ」
さらっと流される。最原は俺の“いつも通り”を、いつも計っている。
後ろから大きい足音。肩にどん、と衝撃が来た。
「おーい! 朝から小難しい顔しやがって!」
百田が笑っている。声が廊下の壁に当たって跳ね返る。
俺の鞄が揺れて、ベルトの金具がカチャ、と鳴った。
「……やめろ、肩外れる」
「外れねぇ外れねぇ! 鍛えりゃ済む!」
「鍛える前に、静かに歩け」
最原が小さく叱る。百田は「へいへい」と手を上げたが、歩幅は変わらない。
教室に入ると、机の脚が床を擦る音、椅子を引く音、紙がめくられる音が重なる。
この音の束がある限り、学園は“普通”を保てる。そう信じたくなる。
俺が席に着いた、その時だった。
ピッ。
通知音。軽い。いつもの、どうでもいい動画の通知みたいに。
けど、教室の空気が一瞬で薄くなる。誰かが息を止めたのが、分かった。
ピッ、ピッ。
連鎖する音。机の上の光が増える。端末の白が、やけに眩しい。
「……来たか」
最原の声が、さらに低く落ちた。俺の背筋が勝手に硬くなる。
知っている。絶望のビデオ。
見た人間の悪夢が形を持って、ナイトメアが生まれる。
最初の頃は“噂”で済ませられた。でも今は違う。俺たちは、実際に何度も倒してきた。
百田がすっと立ち上がった。さっきまでの騒がしさが、消えている。
「おい。画面、見るな」
短い命令。教室の前の方で、既に端末を開いていた生徒が固まる。指が震え、画面を閉じるのが遅い。
「先生、これ――」
誰かが言いかけたが、廊下から走る音が切り込んだ。扉が乱暴に開く。
「予備学科が倒れてる! 廊下で……!」
息を切らした男子が、言葉を吐き出すみたいに叫ぶ。
教室の椅子がいくつも同時に鳴った。
「来たな」
百田が呟く。笑ってない。
最原は端末を操作しながら、俺の方を見た。
「リンクが分からない。配布というより……置かれた感じだ」
「……置かれた?」
「後で。今は止めよう」
最原の言葉は短い。説明を削るのは、経験があるからだ。
俺は頷いて、鞄の内側に手を入れた。指先が、いつもの位置の硬い感触に触れる。まだ出さない。ここは現実だ。だけど、現実は簡単に折れる。
廊下に出た瞬間、温度が変わった気がした。
冷たいというより、薄い。音が吸われている。
そして光だけが、増えている。
予備学科のバッジ。制服の色の差。廊下の端に寄って、座り込む生徒が固まっている。肩が上下しているのに、目が動かない。端末を握った手が白い。
「大丈夫か!」
百田がしゃがみ込み、倒れかけた生徒の肩を支えた。
体温が薄い。汗の匂いがない。代わりに、端末の熱とプラスチックの匂いが鼻につく。
最原は少し離れて、周囲を見る。視線の動きが早い。
俺は落ちた端末を拾い上げた。画面は黒。中央に白い波形。音はない。
なのに、胸の奥がざらつく。喉の奥が乾く。視界の端が少しだけ滲む。
「……閉じる」
俺は電源ボタンを長押しした。画面が暗くなる。
生徒の呼吸が、一拍だけ戻る。たったそれだけで、救える範囲がある。
「万津、無理に覗かないで」
最原の声。
視線を上げると、彼はもう別の生徒の端末を“裏返して”いる。画面を見ない。見せない。手だけ動く。
「分かってる」
言いながら、俺は次の端末に手を伸ばした。
通知音がまた鳴る。ピッ。ピッ。呼吸みたいに規則正しい。
この音が増えるほど、ナイトメアが“孵る”。俺たちはそれを知っている。
「おい、そこのお前! 画面から目を離せ!」
百田の声が、廊下に響いた。
言われた予備学科の生徒は、目が泳ぐだけで動けない。指が固まっている。
俺はその前に膝をつき、端末をそっと奪い取った。抵抗が弱い。まるで指先が、もう自分のものじゃないみたいだ。
端末の裏側は熱い。皮膚がじりっとする。
「……見ちゃだめだ。息、して」
言葉がうまく出ない。俺は自分の呼吸をわざと大きくして、相手の呼吸に重ねようとした。
生徒の喉が鳴る。薄い吸気。
よし、と言いかけた時、廊下の奥で誰かが崩れ落ちた。膝が床に当たる鈍い音。端末が跳ね、白い光が一瞬だけ飛んだ。
俺の心臓が、強く鳴った。
嫌な既視感。
“始まる”やつだ。
最原が、俺の肩を軽く掴んだ。強くはない。止めるためじゃなく、戻してくるための触れ方。
「万津。あれ、見えた?」
「……光が跳ねた」
「うん。まだ形はない。でも、近い」
最原は淡々としている。けど、指先が少しだけ冷たい。
百田が立ち上がり、廊下の真ん中に立った。人の流れを止めるように、腕を広げる。
「予備学科の奴らは、ここから先に行くな! 端末は閉じろ! 今すぐだ!」
言い切る前に、百田は一度だけ息を吐いた。目線は鋭い。
これまでナイトメアを倒してきた、“体勢”がある。恐怖を飲み込む形を、もう知っている。
俺は廊下の窓を見た。外は明るい。いつも通りの朝だ。
でも廊下の中だけ、光の色が違う。端末の白が、壁の白より白い。人の顔を平たく塗りつぶす白だ。
「……配布、無差別か」
最原が呟く。
俺は拳を握り、指の付け根が痛むまで力を込めた。
助けなきゃ。
そう思う前に、もう身体が動いている。
端末を閉じ、腕を支え、倒れる前に受け止める。
救える範囲を、広げる。広げる。広げる。
それでも、通知音は止まらない。
ピッ。
ピッ。
まるで、誰かが廊下そのものに“心拍”を埋め込んだみたいに。
俺は顔を上げる。
薄い光の中で、誰かの影が揺れた気がした。まだ人の形じゃない。
でも、嫌な輪郭だけが、近づいてくる。
「……来るぞ」
口に出した瞬間、百田が頷いた。最原は一度だけ目を伏せる。
三人とも、同じものを想像している。
絶望のビデオから生まれる、悪夢の具現。
日常はまだ校舎の外に残っている。
けど廊下の中では、もう事件の匂いが立っていた。熱い端末、冷たい指先、白すぎる光。
そして――止まらない通知音。