ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
ソムニウム世界へ沈む感覚には、もう慣れたはずだった。
意識が落ちる直前の薄い浮遊感も、現実の輪郭が遠ざかるあの感触も、何度か繰り返したせいで以前ほどの戸惑いはない。
それでも今回は、境界を越えた瞬間に、背骨の奥を冷たい指でなぞられたみたいな嫌な感覚が走った。
着地するはずだった。
春川のソムニウム世界なら、あの孤児院の中庭へ降り立つはずだった。
子供たちの気配と、紫がかった空と、どこか不安定な遊具の軋みが、最初に俺を迎えるはずだった。
けれど、実際に足が触れたのは、柔らかい絨毯だった。
「……は?」
思わず声が漏れる。
視界を上げると、そこに広がっていたのは中庭どころか、悪夢じみた屋外ですらなかった。
やけに上等なホテルの一室だった。
壁には落ち着いた色の装飾が施され、間接照明の柔らかな光が部屋全体を包み、中央には低いテーブルとソファが置かれている。
窓の外は真っ白だった。
景色が見えないんじゃない。最初から景色という概念だけ切り落とされているみたいに、硝子の向こうが塗り潰されていた。
「春川の世界、じゃない……いや、違うな」
俺はゆっくり息を吐きながら、周囲へ視線を走らせる。
ここがソムニウム世界である感覚そのものは消えていない。
空気の薄さも、現実にはない静けさも、意識が少しだけ現実から浮いたままの感触も、全部まだ残っている。
つまり春川のソムニウム世界へ入ったのは間違いない。
その上で、誰かが途中から形を書き換えた。
「気づくのが早いね」
不意に、部屋の奥から声がした。
柔らかい声音だった。
警戒を煽るような鋭さも、こちらを試す露骨な圧もない。
むしろ人当たりの良さだけ抜き出したみたいな、聞いている側の肩から力を抜かせる類の声だった。
だからこそ、余計に嫌だった。
俺は反射的にそちらへ身体を向ける。
ソファの傍に、一人の人影が立っていた。
見覚えがある。
いや、忘れるはずがない。
「……下辺、零」
その名を口にした瞬間、相手は少しだけ目を細めて笑った。
穏やかな笑みだった。
どこから見ても、敵組織の教祖なんて肩書きより、街角で偶然出会った感じのいい人物の方が似合うような顔をしている。
以前に接触してきた時も、そうだった。
言葉の端々は柔らかく、態度にも棘がなくて、表面だけ撫でれば驚くほど善良そうに見える。
けれど、その奥だけがどうしても見えなかった。
底のない井戸を、昼間の光の下で覗き込まされたみたいな気味の悪さだけが、今もはっきり残っている。
「覚えていてくれたんだね、それは少し嬉しいな」
下辺は肩の力を抜いたまま言って、まるで旧知の相手でも迎えるみたいに片手をソファへ向けた。
「立ち話もなんだし、座るかいと言いたいところだけれど、君はたぶん座らないだろうから、そこは諦めておこうと思う」
「当然だ」
俺は一歩も動かずに返す。
「春川のソムニウム世界に割り込んで、空間まで歪めておいて、雑談だけで済むと思うなよ」
「雑談のつもりはないよ」
下辺は否定するでも怒るでもなく、ただ静かにそう言った。
「むしろ、かなり大事な話をしに来たつもりなんだ。だから少しだけ、彼女の夢を借りた」
「借りた、で済ませるにはずいぶん乱暴だな」
「それは否定しない」
彼女はあっさり頷いた。
「けれど君は、そうでもしないと私の話を聞かないだろう」
それは、たぶん正しい。
正しいから腹が立つ。
こいつは会話の主導権を握るためなら、相手の感情の運び方ごと計算に入れてくる。
柔らかい口調で、刺さるところだけ正確に触れてくるから、余計にやりづらい。
「……お前が終天教団の人間である以上、警戒するのは当たり前だ」
俺は視線を逸らさずに言う。
「話がしたいなら、まず春川の世界に何をしたのか説明しろ」
「歪めただけだよ」
下辺は簡単に言った。
「本質には触れていないし、彼女自身の核へ手を伸ばしたわけでもない。君と二人で落ち着いて話せる場所が欲しかったから、少し形を変えた。孤児院の中庭だと、今の君は私の言葉より先に戦う準備を始めてしまいそうだったからね」
図星だった。
中庭のままなら、俺は今頃こいつの足運びと間合いと、武器を持っているかどうかしか見ていなかったと思う。
それを見越して、わざわざこんな空間へ差し替えたのだとしたら、本当に性質が悪い。
「で、何の話だ」
俺は短く問う。
「お前がわざわざこんな真似までして、俺に何を言いたい」
下辺はすぐには答えなかった。
窓の外の真っ白な虚無へ一度だけ目をやってから、またこちらを見た。
その仕草には、考え込む演技っぽさが一切なかった。
最初から答えは持っていて、どの順番で差し出すのが一番いいかだけを測っている顔だった。
「君が気になったんだよ、万津莫」
ようやく下辺は、そう言った。
「正確には、君という存在が持っている可能性が気になった。君は人類の側に立ちながら、人類の常識の外側へ足を踏み入れて、それでもなお壊れずに前へ進んでいる。そういう人間を、私はあまり見たことがない」
「買いかぶりすぎだろ」
「そうかな」
下辺はわずかに首を傾げる。
「君は悪夢へ潜る。夢のルールを読み解く。絶望の仕組みを見抜いて、その上で守ろうとする。普通の人間は、そこへ至る前に目を逸らすか、飲み込まれるかのどちらかだ。けれど君は違った。だから私は、君を見てみたくなった」
「見世物みたいに言うな」
「見世物ではないよ」
下辺の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
「人類の可能性、と言い換えた方が君は気分がいいかな」
人類の可能性。
その言葉だけ切り取れば、ずいぶん大層だ。
けれど、下辺零の口から出ると、褒め言葉として受け取っていいのかどうかすら怪しくなる。
「……終天教団の教祖が、人類の可能性なんて言葉を口にするのか」
俺はあえて、少し強めに言う。
「お前は人類を滅ぼす側の人間じゃないのかよ」
その瞬間、下辺の表情がほんのわずかだけ変わった。
笑みが消えたわけじゃない。
穏やかさもそのままだ。
なのに、部屋の温度だけが一度、すっと下がった気がした。
「そうだよ」
彼女は静かに答える。
「私は教祖として、人類を終わらせる側に立っている。そのつもりで動いているし、そこに迷いがないわけでもない」
あまりにもあっさりした肯定に、逆に言葉が詰まる。
冗談でも挑発でもなく、ただ事実としてそれを口にしている声音だった。
「だけどね」
下辺は続ける。
「それと同時に、君のことも気になっている。人類を終わらせたいと考える私が、人類の中にまだ見たことのない光を見つけてしまったなら、その矛盾を放っておくわけにはいかないだろう」
「……意味が分からないな」
「分からなくていいよ、今は」
下辺は少しだけ微笑む。
「私だって、全部を綺麗に説明できるわけじゃない。ただ、君を敵として片づけるには惜しいと思っているし、同時に、君が私の邪魔をするなら壊さなければならないとも思っている。そういう話なんだ」
優しい言い方だった。
その実、言っている内容は最悪だった。
好意と敵意が、同じ器に何の抵抗もなく入っている。
そこに葛藤している人間の苦さが見えればまだ理解もできる。
けれど、こいつはその矛盾ごと自然に抱えて立っている。
だから底が見えない。
「お前、本当に気味が悪いな」
俺が吐き捨てるように言うと、下辺は傷ついた様子もなく、小さく笑った。
「褒め言葉として受け取っておこうかな」
「受け取るな」
「そう言われる気はしていたよ」
そこで一度、沈黙が落ちる。
ホテルの一室という形をしたこの空間は、静かすぎて逆に落ち着かない。
窓の外の白さも、照明の柔らかさも、全部が会話のためだけに作られた舞台装置みたいで、余計に神経を逆撫でしてくる。
俺は少しだけ息を整えてから、真正面から下辺を見る。
「お前が俺に興味を持ってるのは分かった。けど、こっちはお前の感想を聞きに来たわけじゃない。春川のソムニウム世界を歪めてまで接触した本当の理由は何だ」
下辺はその問いに、今度はすぐ答えた。
「忠告だよ」
「忠告?」
「君は今、悪夢の中心へ近づきすぎている」
彼女の声は静かだった。
「春川魔姫の悪夢も、アサシンナイトメアも、そこへ割って入った謎のライダーも、君が思っている以上に深いところで繋がっている。君はもう、その端を掴んでいる。だからこそ、次に進めば戻れなくなるかもしれない」
「脅しにしては回りくどいな」
「脅しではないよ」
下辺は首を横に振る。
「私は本当に、君が壊れるところを見たくないんだ。人類の可能性がどこまで行けるのか、できることなら見届けてみたい。だから一度だけ、こうして言葉にして伝えに来た」
「だったら止める側に回れよ」
俺は即座に返す。
「終天教団の教祖なんだろ。全部の元凶みたいな立場にいるくせに、今さら忠告だけしていい顔するな」
その言葉に、下辺は初めてほんの少しだけ目を伏せた。
困ったようにも、納得したようにも見える微妙な表情だった。
「それは、できない」
静かな返答だった。
「私には私の立場があるし、私が背負っているものもある。それを捨てて君の側へ行くことはできない。けれど、だからといって何も思わないわけでもない。……本当に、面倒だよね」
「他人事みたいに言うなよ」
「他人事ではないから困ってるんだよ」
下辺は小さく笑って、それから一歩だけ俺へ近づいた。
距離にして大したものじゃない。
なのに、その一歩だけで空気が変わる。
優しそうな人物であることは間違いない。
その優しさが偽物だとも思わない。
けれど同時に、その奥に底なしの何かがある感覚も、やっぱり消えなかった。
「万津莫」
下辺は、今度は少しだけ真面目な調子で俺の名を呼ぶ。
「君はたぶん、これからも進むだろうし、私の言葉で止まるような人でもない。だから最後に一つだけ教えてあげる」
嫌な予感がした。
けれど、聞かないという選択肢もなかった。
「次に春川の夢へ踏み込む時、君が見ようとしているものは“彼女の悪夢”だけじゃない」
下辺の声が、部屋の静けさへゆっくり沈んでいく。
「もっと別の意志が、もうずっと前からそこに触れている。君が戦っている相手は一体じゃないし、君が守ろうとしているものも、一つの形だけではない」
「……何のことだ」
「そこから先は、自分で確かめた方がいい」
下辺は微笑む。
「答えを先に渡してしまったら、君の可能性を測れないからね」
「ふざけるな」
「ふざけてはいないよ」
そう言った彼女の輪郭が、わずかに揺らぐ。
空間の端が、滲むみたいに白く薄れていく。
話は終わりだと、そう告げる合図だった。
「待て、下辺!」
俺が踏み出すと、彼女は最後に一度だけこちらを見た。
その目には、柔らかい興味と、理解しがたい哀れみみたいなものが同時に浮かんでいた。
「また会おう、万津莫」
下辺零は、まるで本当に次の再会を楽しみにしているみたいな口調でそう言った。
「その時、君がまだ君のままでいてくれたら、私はきっと少し嬉しい」
次の瞬間、ホテルの一室は音もなく崩れた。
壁が溶け、照明が砕け、窓の外の白が一気に反転する。
俺は歪む空間の中で踏みとどまりながら、奥歯を強く噛み締めた。
優しそうで、底が見えなくて、敵で、それでも俺に興味を持っている。
あいつは何一つ分かりやすくない。
分かりやすくないまま、確かにこの先の悪夢へ繋がっている。
なら、もう進むしかなかった。
春川のソムニウム世界のさらに奥で待っているものが何であれ、あいつがわざわざこんな形で釘を刺しに来た以上、見ないふりだけはできない。
崩れる白の向こうへ、俺は意識ごと踏み込んだ。