ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
学園の廊下を歩いていると、時々、現実そのものが夢と地続きなんじゃないかと思うことがある。
もちろん、そんなのは錯覚だ。
教室のざわめきも、窓から差し込む午後の日差しも、誰かが落としたプリントが床を滑る音も、全部ちゃんと現実側の感触を持っている。
それでも、悪夢と何度も向き合っていると、何気ない風景の中へ紛れ込んだ“異物”に、前よりずっと早く気づくようになる。
その日も最初は、ごく普通の放課後だった。
ただ、行き先が少しだけ特別だっただけだ。
美術室。
あるいは、夜長アンジーの一角とでも呼ぶべき場所。
教室とは違う匂いがする。絵具、木材、石膏、乾きかけた粘土、紙、それから何に使うのか分からない妙な素材まで、色んなものの匂いが雑多に混ざっている。
そこにいるだけで、何かを“作る”ための空気が満ちている場所だった。
夜長アンジー。
クラスメイトではあるが、ひと言で説明しろと言われると少し困る。
誰に対しても妙に距離が近くて、ファーストネームで呼び、本人も「アンジーさん」と呼ばれることが多い。
ふわふわしていて、マイペースで、前向きで、何を考えているのか分からない時もある。
けれど、ただのおっとりした癒し系かと言えば絶対に違う。
あの子の中には、“神さま”っていうものへの信仰がちゃんと一本通っていて、その感覚の上では、平気で怖いことも口にする。
柔らかい言い方のまま、刃物みたいな言葉を差し込んでくることがあるから、気を抜くとこっちの方が面食らう。
そんな奴だ。
「万津くーん、こっちこっちー」
呼ばれて顔を上げると、アンジーは窓際に置かれた大きな制作台の向こうで手を振っていた。
相変わらず間延びした調子で、危機感とか緊張感とかいう単語から一番遠い場所にいるような声だ。
その足元には小さな彫刻や絵筆、石膏像のパーツ、色鮮やかな絵具皿なんかが散らばっていて、部屋の主が誰なのか一目で分かる有様だった。
「何やってるんだ、こんな時間に」
「神さまがねー、今日のアンジーさんは手を止めちゃだめだよーって言うからー」
アンジーはくるりと筆を回しながら、楽しそうに笑う。
「だから、もちもちーっと頑張ってるところー」
意味が分かるようで分からない。
でも、アンジー相手にそれをいちいち問い詰めても、大抵は余計に分からなくなるだけだ。
俺が軽く肩をすくめた時だった。
違和感は、音もなく始まった。
最初に気づいたのは、絵具皿だった。
赤、青、黄色、緑、アンジーが雑に混ぜたせいで変な中間色になっている部分まで含めて、そこに確かにあった色が、ほんのわずかに褪せた気がした。
気のせいかと思った。
だが次の瞬間、その表面へ白い粉がうっすら浮き始める。
「……何だ?」
俺がそう呟くのと、ほとんど同時だった。
制作台の上にあった粘土細工の表面からも色が抜け始める。
乾くとか、褪せるとか、そういう速度じゃない。
生命感そのものが吸い取られていくみたいに、一気に白さだけが浮かび上がる。
周囲の小物、絵筆の柄、塗りかけのキャンバス、アンジーが作りかけていた小さな人形、全部がじわじわと白く、硬く、冷たいものへ変わっていった。
石化。
その単語が、嫌な予感と一緒に頭へ浮かぶ。
しかもこれは、ただ物質が石になるのとは違う。
色が抜かれている。
素材が変わる前に、まず色だけが奪われる。
絵具でも、粘土でも、木でも布でもなく、そこにあった“生きている感じ”だけが先に死んでいくみたいな白さだった。
「アンジー、そこから離れろ!」
思わず声を上げる。
けれど、アンジーは怯えるどころか、自分の手元を見て小さく首を傾げただけだった。
「わあー」
その声は、いつもの調子からほとんど変わらない。
「真っ白って、きれいだけどー、ちょっと死んでるよねー」
冗談みたいに聞こえた。
でも、冗談として流せなかった。
今この場で起きている異変を、アンジーはもう“感じ取って”いる。
しかも、怖がるより先に、その本質へ触れるような言葉を口にしている。
それが余計に不気味だった。
「神さまが呼んでるー」
アンジーがぽつりと言う。
その表情には焦りがない。
むしろ、少しだけ遠くを見ているような、妙に静かな顔だった。
「呼んでるって、何を――」
最後まで言い切る前に、アンジーの身体がわずかに揺れた。
目の焦点がずれる。
手から筆が落ちる。
だが、その筆ですら床に転がる前に白く変色し、硬い石の棒みたいな質感へ変わっていた。
「まずい……!」
俺は反射でアンジーの方へ踏み込む。
また遅れるかもしれない。
また目の前で誰かが夢に引きずられるところを見ているだけかもしれない。
その焦りが、胸の奥で嫌な熱になって広がる。
アンジーは崩れ落ちる寸前、かすかにこちらを見た。
微笑んでいるようにも、諦めているようにも見える曖昧な顔だった。
「ぐっばいならー、じゃないよねー、たぶん」
そんなことを、間延びした口調のままで言う。
次の瞬間には、その意識は完全に夢の側へ引かれていた。
俺はアンジーの身体を支えながら、白く染まり始めた美術室を睨む。
制作物が次々と色を失っていく。
作品のための空間だったはずなのに、今ここで起きているのは創造じゃない。
完成でも保存でもない。
ただ、全部を“動かないもの”へ固定していく暴力だ。
間違いない。
ナイトメアだ。
しかも、かなり質が悪い。
「……行くしかない」
俺はそう吐き出し、ゼッツドライバーへ手をかけた。
迷っている時間はない。
アンジーはもう、夢の奥へ引き込まれている。
色が奪われる前に。
心そのものまで白く固まってしまう前に、こっちから追いかけるしかなかった。
スイッチを押す。
視界が反転する。
美術室の輪郭がほどけ、色を失った現実の白が、そのまま別の世界へ繋がっていく。
◇
「……ここが」
足元の感触が戻った時、最初に見えたのは白だった。
どこを見ても白い。
空も、建物も、遊具も、床も、展示物も。
白い石で削り出された世界が、息苦しいくらい整った形で広がっていた。
遊園地だった。
たぶん、学園でもある。
そして、美術館でもある。
三つの場所が、継ぎ目もなく一つに溶け合っている。
観覧車はあるのに、その支柱は校舎の廊下と繋がっていて、廊下の先には展示室のような空間が口を開けている。
回転木馬の馬は全部白い石像で、その周りには石膏像みたいに固まったクラスメイトの姿にも見えるオブジェが並んでいた。
綺麗だった。
思わずそう感じてしまうくらい、無駄がない。
造形としては完成している。
整いすぎていて、壊れる要素がどこにも見えない。
けれど、その“綺麗さ”を認識した直後に、背筋へぞわりとした寒気が走る。
死んでいる。
この世界、綺麗なんじゃない。
色を失った結果、整いすぎてしまっただけだ。
音も温度も呼吸もない。
全部が完成品のふりをして、実際には何一つ生きていない。
「やばいな、これ」
自分の声だけが、妙に遠く響く。
この白さに長く触れていたら、こっちの感覚まで薄くなっていきそうだった。
その時、遠景の中で動く影が見えた。
アンジーだ。
白い世界の奥、石像群の向こうを、あの子が一人で歩いている。
慌てて追おうと、一歩踏み出しかけた瞬間だった。
視界の端を、閃きが横切る。
反射で身を引く。
次の瞬間、俺の横にあった白いベンチの端が、音もなく色を失い、完全な石へ変わった。
さっきまで石っぽく見えていたんじゃない。
本当に今この瞬間、視線みたいな何かに撃ち抜かれて、石へ固定されたんだ。
「……視線か」
光線。
いや、もっと嫌なものだ。
“見られる”ことそのものが石化に繋がっているような感覚。
この世界では、視線と石化がルールになっている。
俺は息を潜めながら、白く変わったベンチへ触れる。
冷たい。
しかも、その表面には絵具の色がわずかに残ろうとして、そのまま凍りついたみたいな痕跡がある。
やっぱり、奪われているのは色だけじゃない。
変化の途中ごと、完成した石像へ押し込められている。
「万津くーん」
遠くから、アンジーの声がした。
いつもの間延びした調子なのに、この白い世界の中だと妙に浮いて聞こえる。
「こっちだよー。でも、完成の邪魔はしないでねー」
意味深だ。
軽いようでいて、全然軽くない。
アンジーはあの世界の奥へ向かっている。
しかも、自分がこの悪夢の核心に近い位置にいることを、たぶん分かった上で歩いている。
「待て、アンジー!」
叫んでも、アンジーは振り返らない。
ただ白い石像の並ぶ回廊の向こうへ、ふらふらと、でも迷いなく進んでいく。
追わなきゃいけない。
でも、無闇に走れば、さっきみたいな石化光線をまともに食らう。
白い遊園地。
白い学園。
白い美術館。
綺麗で、整っていて、息が詰まるほど死んだ世界。
その中心で、アンジーだけがまだ“完成前”のまま歩いている。
俺は周囲の石像群と視線の通り道を見極めながら、慎重に一歩を踏み出した。
この悪夢のルールは見えた。
だったら、次はその中心へ辿り着くだけだ。
アンジーを追う。
その先で待っているのが、どんな“完成”だろうと、ぶち壊して連れ戻すしかない。