ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
日菜さんの様子がおかしいと気づいたのは、本当に些細な違和感からだった。
いつも通り、っていうのが一番正しい表現だと思っていた。
いや、正確には、いつも通りに見せようとしている、の方が近い。
俺が教室へ入った時、日菜さんは窓際の机へ腰掛けて、端末を片手で操作しながら、もう片方の手で紙パックのコーヒーを揺らしていた。
放課後の教室には西日が差し込んでいて、机の天板の傷までやたらくっきり見えて、外では部活帰りの声がたまに廊下を流れていく。
どう見ても平和だ。
けれど、その平和の真ん中で、日菜さんだけが少しだけ静かすぎた。
「万津君、遅いっすよ」
顔も上げずにそう言った。
声の調子はいつも通りだ。
軽い。
少し投げやりで、でもどこかこっちを気遣う余白もある、あのいつもの日菜さんの声。
なのに、俺の中では引っかかりが消えなかった。
「いや、まだ普通に放課後だろ」
俺はそう返しながら自分の席へ鞄を置く。
「っていうか、そっちこそ早いな。いつもならもう少し機材いじってる時間じゃないのか」
「今日はちょっと、気分転換っす」
「日菜さんが?」
「何すかその反応」
「いや、珍しいなと思って」
そう言うと、日菜さんはそこでようやくこっちを見た。
笑っている。
でも、その笑みが綺麗すぎた。
整いすぎていて、逆に嫌だった。
いつもの日菜さんなら、もう少し崩れた笑い方をする。
呆れたみたいに肩をすくめたり、半分ふざけてこっちをからかったりする。
でも今のそれは、正解っぽく置かれた表情みたいだった。
「珍しいことだって、たまにはあるっすよー」
間延びした言い方まで自然だ。
自然だからこそ、余計にぞっとする。
俺は何でもないふりをして席へ座りながら、視線だけは外さなかった。
「……なんかあったか?」
「いきなりっすね」
「いや、なんかあった顔してる」
「それ、万津君の勘違いっす」
日菜さんは紙パックのストローをくわえ、視線を窓の外へ逸らした。
「私はいつも通り、元気で有能で天才的なサポート役っすよ」
「有能と天才は否定しないけど、元気かって言われると微妙だな」
「ひどい」
そう返ってくる。
反応は普通だ。
会話のテンポも、変じゃない。
なのに、やっぱり妙な感覚が残る。
たとえるなら、全部の歯車は噛み合っているのに、回転音だけが微妙に違うみたいな感じだった。
それにもう一つ。
日菜さんは俺の方を見ているようで、ちゃんと見ていない。
正確には、俺の輪郭だけをなぞっている。
こっちの表情とか、呼吸とか、そういう生っぽい部分に触れる前に、どこかで切り上げている感じがした。
「日菜さん」
「はいはい、何すか」
「今日、誰かと会ったか?」
ぴくり、と。
ほんの一瞬だけ、日菜さんの指が止まった。
端末の画面をなぞっていた指先が、わずかに空中で固まる。
それだけで十分だった。
外した質問じゃない。
「急に尋問モードっすか?」
日菜さんは笑う。
でも、その笑いはやっぱり綺麗すぎる。
「別にー、普通に学園で普通に過ごしてたっすよ。何なら今の方がよっぽど不審者っす」
「そりゃ悪かったな」
俺は軽く肩をすくめる。
「でも、普通に過ごしてたならもっと雑な顔してるだろ、日菜さんは」
「それ褒めてないっすよね?」
「褒めてないな」
「即答しないでほしいっす」
やり取りは成立している。
だから厄介だ。
明らかに壊れているなら、まだ分かりやすい。
でも今の日菜さんは、ちゃんと日菜さんの形を保ったまま、何かだけが抜けている。
その“何か”が分からないせいで、余計に不気味だった。
俺は黙って教室の中を見回す。
誰もいない。
夕方の光。
静かな黒板。
窓際の机。
日菜さんの端末。
紙パックのコーヒー。
それから、机の端に置かれた小さな黒いメモリーカードみたいなもの。
見覚えがなかった。
少なくとも、さっき教室へ入った時には、俺の視界の中へ入っていない。
「それ、何だ?」
俺が顎で示すと、日菜さんの目が一瞬だけ細くなる。
本当に一瞬だけ。
次の瞬間には、またいつもの薄い笑みに戻っていた。
「ただの記録媒体っすよ」
「学園で使うもんじゃなさそうだけど」
「今どきは何でも小型化っす」
「そういう問題じゃないだろ」
俺が手を伸ばしかけた瞬間、日菜さんはそれを先に掴んだ。
動きが速い。
しかも、必要以上に速かった。
隠したいものを取られそうになった時の反射。
そこにだけは、やっと生っぽい反応があった。
「……見なくていいっすよ」
声の温度が、そこで少しだけ下がった。
冗談っぽさが消える。
軽さも引っ込む。
その代わりに、薄くて冷たい何かが顔を出した。
「何を?」
「見ない方がいいものって、あるじゃないっすか」
胸の奥が冷える。
この言い方は知っている。
何度か、嫌な形で聞いたことがある。
ナイトメアに触れた奴。
悪夢の気配を引きずった奴。
絶望ビデオの類に目をやった奴。
そういう連中が、自分でも分からないまま口にする“諦めに似た優しさ”だ。
「日菜さん」
「何すか」
「何を見た」
「だから、何も――」
「嘘だな」
俺がそう断ち切るように言うと、教室の空気がわずかに固まった。
日菜さんは口を閉じる。
笑わない。
否定もしない。
その沈黙だけで、答えになっていた。
「……絶望ビデオか」
その言葉を出した瞬間、自分の声の低さに驚いた。
日菜さんの瞳が、ほんの少し揺れる。
反射的な反応だった。
図星を刺された人間のそれだ。
「っ、何で」
「何でって顔してるからだよ」
俺は席を立つ。
机を回り込み、日菜さんの正面へ立った。
「無理に普通のふりをしてる時ほど分かりやすいんだよ。日菜さんはもっと雑に笑うし、もっと投げやりにしゃべる。今みたいな“綺麗な正解”みたいな喋り方はしない」
「それ、口悪くないっすか」
「悪いな」
俺は目を逸らさない。
「で、どこで見た」
「……見てない、っす」
「見たな」
「見て、ない」
否定の仕方が弱い。
言葉だけが前に出て、心の方が追いついていない。
そのズレが、絶望ビデオを見た後の嫌な兆候そのものだった。
俺は一歩だけ近づく。
日菜さんの肩が、ほんのわずかに強張る。
逃げたいんじゃない。
たぶん、逃げてはいけないと思っている。
それが余計にまずい。
「何が映ってた」
「……っ」
「日菜さん」
「脱出ゲーム、っす」
やっと出た言葉は、小さかった。
でも、その一言で全部が繋がる。
脱出ゲーム。
日菜さんの趣味。
状況を構造へ変換して、感情より先に解法を探すあの癖。
そこへ絶望ビデオを混ぜたら、最悪の形になる。
「閉じ込められて」
日菜さんは、どこか遠くを見るみたいな目で呟く。
「解けないと、誰かがいなくなるみたいな、そういう映像で……でも、ちゃんとルールがあって、手順があって、だから、あれはたぶん、解けたはずで……」
駄目だ。
思考がもう“感情”じゃなく“構造”へ逃げている。
怖かった、気持ち悪かった、助けてほしい、そういうところを全部飛ばして、先にルールの話をしている。
日菜さんは今、自分の心を殺して処理しようとしている。
「日菜さん、こっち見ろ」
「大丈夫っすよ」
言葉が被る。
「私、ちゃんと整理できてるっす。別に取り乱してないし、むしろ今は解析の方を――」
「大丈夫じゃない」
強めに言うと、ようやく日菜さんの目がこっちへ戻った。
その瞳は、少しだけ赤かった。
泣いていたわけじゃない。
泣くところまで行く前に、必死で止めている顔だった。
「……また、間に合わないかもしれない」
自分でも驚くくらい、先にその言葉が出た。
これは俺の焦りだ。
目の前で誰かが悪夢へ引かれていく、その兆候を見抜いたのに、止めきれなかった時の感覚が、嫌になるほど残っている。
春川の時も、みずきの時も、最後には飛び込めた。
でも、“引かれる前”に止められたことなんて一度もない。
「万津君……」
「まだ大丈夫なら、今のうちに戻れ」
俺は言い切る。
「無理なら、俺が追いかける。どっちでもいいから、黙って落ちるな」
日菜さんは、そこで少しだけ笑った。
今までの綺麗な笑みじゃない。
もっと歪で、もっと生っぽくて、困った時にしか出ない顔だった。
「何すかそれ」
声が震えている。
「ヒーローみたいなこと言って」
「ヒーローだからな、一応」
「自称でしょ」
「うるさい」
「ふふ……」
笑った。
本当に少しだけ。
でも、その笑いと同時に、日菜さんの指先から力が抜ける。
さっきまで握っていた黒い記録媒体が、机の上へ滑り落ちた。
その表面に、白い筋みたいなノイズが走る。
まずい。
空気が変わる。
放課後の教室だったはずの場所が、一気に遠くなる。
窓の外の夕焼けが、妙に平面的な色へ変わっていく。
机と椅子の輪郭が、少しずつ“配置されたパーツ”みたいに見え始める。
「日菜さん!」
「……やっぱり、来るっすね」
その声は、もう半分くらい夢の側へ引かれていた。
でも、まだ理性はある。
それだけで十分だ。
「逃げるなよ」
「逃げてないっす」
日菜さんは目を閉じる。
「ただ、たぶん……今の私、ちょっと最悪な感じっす」
「知ってる」
「じゃあ、助けてくださいよ」
その一言だけが、今までずっと押し殺してきた本音みたいに聞こえた。
「任せろ」
俺は即答した。
次の瞬間、教室の床が、黒い格子へ変わり始める。
机が箱になる。
窓が出口表示へ変わる。
廊下の向こうから、タイマーのカウントダウンみたいな電子音が鳴り始めた。
脱出ゲーム。
しかも、ただの趣味の延長じゃない。
感情を切り捨てて、ルールだけを信じた時に出来上がる、最悪の形だ。
俺はゼッツドライバーへ手をかける。
また遅れるかもしれない。
また、救う前に引きずられるかもしれない。
その焦りは消えない。
でも、だからって立ち尽くす理由にはならなかった。
「日菜さん、行くぞ」
スイッチへ指を置く。
夢の入口はもう開きかけている。
だったら、こっちから飛び込むだけだ。
教室の景色が音もなく反転していく中で、俺は日菜さんの手首を掴んだ。
今度こそ、見失わないように。
そう思いながら、俺はそのまま悪夢の側へ意識を沈めていった。