ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
席の周囲へ立ち上がった透明な壁は、ガラスみたいに見えて、その実、もっと性質の悪いものだった。
触れれば砕ける類の障壁ではなく、そこに“正しい配置”として存在していること自体が、こちらの行動を拒絶している。
そんな感じがした。
物理的に閉じ込めるための檻というより、もっと静かで、もっと逃げ場のない理屈の塊だった。
『ここは最適配置です』
エスケープナイトメアの声が、やけに優しく響く。
優しいからこそ、その内容の冷たさが余計に際立った。
『月夜野日菜。あなたは支援の中心に立つべき存在です』
『観測し、解析し、選別し、最も損害の少ない答えを選ぶ』
『そのために感情は不要です』
『そのために迷いは不要です』
「黙れ」
吐き捨てたつもりだったのに、思ったより声が低く出た。
怒鳴ったわけでもない。
ただ、自分でも嫌になるくらい本気で、その言葉が耳障りだった。
けれど、ナイトメアは気にした様子もなく続ける。
『誰かを助けたいのでしょう』
『ならば最も正しい位置へ座るべきです』
『あなた一人が冷静でいれば、他の全員を誤答から遠ざけられる』
その言葉は、日菜さんのためにあるようで、同時に俺にも向けられていた。
助けたいなら、正しい配置を選べ。
迷うな。
感情を切れ。
そうすれば被害は減る。
そうすれば失敗は減る。
それは理屈だけ見れば、たぶんどこか正しい。
だからこそ腹が立つ。
正しさの形をしているくせに、そこから人間だけをきれいに抜いているからだ。
「日菜さん」
呼ぶと、日菜さんはすぐには振り向かなかった。
視線はまだ、あの席へ吸い寄せられている。
見たくないのに見てしまう顔だった。
嫌悪もある。
拒絶もある。
なのに、同じだけ、惹かれている気配もある。
あの席へ座ってしまえば、全部を見ていられる。
全部の情報を握れる。
全部を先回りして、全部へ手を伸ばせる。
支える側の人間にとって、それは甘すぎる毒だ。
「……分かってるっすよ」
ようやく返ってきた声は、かすかに掠れていた。
「座ったら終わりだって、ちゃんと分かってるっす」
「だったら」
「でも」
日菜さんはそこで、初めてこっちを見た。
その目は、疲れていた。
単純に消耗しているとか、そういう意味じゃない。
ずっと張っていた糸が、もう限界ぎりぎりまで引かれている時の顔だった。
「でも、ああいうの見ると、ちょっと思うじゃないっすか。あれなら全部見えるのかな、とか。あれなら誰かが壊れる前に止められたのかな、とか」
胸の奥へ、鈍いものが落ちる。
この人は、こういうことを一人で考えてきたんだろう。
支える側。
見守る側。
何かが起きた時、最初に原因を考え、次に手順を考え、最後に自分の感情を後回しにする側。
そういう立ち位置にいたからこそ、失敗した時の痛みの向きが、普通の奴とは少し違う。
ただ怖かった、つらかった、だけじゃ終われない。
もっと早く気づけたかもしれない。
もっといい選択肢があったかもしれない。
そういう“正解の可能性”が、いつまでも心に残る。
「私が止まったら」
日菜さんがぽつりと呟く。
「その瞬間に、誰かが取り返しのつかない方へ行くんじゃないかって、思う時あるんすよ」
その言葉は軽くなかった。
軽くないのに、日菜さんはそれをなるべく軽く言おうとしている。
そこが余計に痛かった。
「冷静でいれば、見逃さないで済むかもしれない。ちゃんと見ていれば、誰かが踏み外す前に引っ張れるかもしれない。そう思わないと、支える側なんてやってられないんすよ」
『その通りです』
ナイトメアが即座に肯定する。
柔らかい声だ。
柔らかいのに、刃物みたいに滑り込んでくる。
『だから、ここへ』
『あなたが見ていればいい』
『あなたが正解を出し続ければいい』
『あなたが感情を切り離せば、全員を管理できます』
「っ……」
日菜さんの指が、小さく震えた。
あの席の方へ一歩寄りかける。
反射で、俺はその手首を掴んでいた。
「駄目だ」
「……万津君」
「駄目だって言ってるだろ」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
その手を離したら、本当に遠くへ行ってしまう気がしたからだと思う。
「でも、もし」
日菜さんの声が揺れる。
「もし本当に、あそこに座れば減らせるなら」
「減らせるわけない」
「何でそう言い切れるんすか」
「言い切れるよ」
俺は迷わず返した。
「だって、それで残るのは“日菜さん”じゃないからだ」
言葉にした瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
ナイトメアが初めて沈黙する。
日菜さんも、目を見開いたままこっちを見る。
「支えるとか、見守るとか、正解を出すとか、それは確かにお前の役割だったのかもしれない」
自分の言葉を、俺自身も一つずつ確かめるように続ける。
「でも、それだけでお前を見てたわけじゃない。そういう機能だけで、お前がそこにいたわけじゃないだろ」
「……」
「俺が頼ってたのは、お前の判断だけじゃない」
喉の奥が少し熱い。
言い慣れていないことを言う時の感覚だった。
「お前がいたから、前に出れた。お前が見ててくれたから、無茶もできた。お前がいたから、俺はゼッツになってからずっと、ああやって戦えてたんだよ」
支えられていた。
言葉にすると、思っていたよりずっと重い。
でも、同時にすごく自然だった。
見ないふりをしていただけで、事実としてはずっとそこにあったものだからだ。
「だから」
俺は手首を掴んだまま、はっきり言う。
「お前が支援装置みたいな顔して、その席に固定されるの、認められるわけないだろ」
日菜さんの瞳が、細かく震える。
今、泣くかもしれない、ってところまで行きかけて、それでもまだ必死に耐えている顔だった。
『非合理です』
ナイトメアの声が、少しだけ硬くなる。
それでも丁寧な口調は崩れない。
『個体への執着は全体最適を阻害します』
『月夜野日菜が着席すれば、あなたの生存率も上昇します』
『それが最善です』
「最善?」
俺はナイトメアの方を見る。
「それって、“お前の計算の中では”ってだけだろ」
『数値は嘘をつきません』
「でも人間は嘘をつくし、迷うし、間違える」
自分でも妙なくらい、言葉が前へ出た。
「だからこそ一緒にいる意味があるんだろ。全部一人で背負わせて、それを正しいって言うのは、ただ切り捨ててるだけだ」
モニターが一斉に赤く点滅する。
床の発光ラインが、中央の席を中心に同心円状へ広がっていく。
まずい。
ルールが切り替わる。
『強制進行へ移行します』
ナイトメアが告げた瞬間、天井からケーブルが降ってきた。
細い。
でも速い。
そのまま日菜さんの肩と腕へ絡みつこうとする。
「っ!」
俺は反射で引き寄せ、代わりに自分の腕へそのケーブルを巻きつかせた。
冷たい。
電流みたいなものが走る。
ただ拘束するだけじゃない。
身体の動きより先に、“この位置へ留まれ”って命令を流し込まれている感覚がした。
『正しい位置へ固定します』
「ふざけんな!」
ゼッツドライバーへ手をかけ、そのまま強引に出力を上げる。
フィジカムインパクトの装甲が走り、ケーブルを力任せに引きちぎる。
白い火花が散る。
けれど、その切れた先から、また別のケーブルが伸びてくる。
壁。
床。
操作席。
全部がこの部屋の一部で、全部が日菜さんをそこへ座らせるための手足になっていた。
「万津君!」
「下がってろ!」
「でも」
「今は俺を信じろ!」
自分で言って、少しだけ可笑しかった。
ずっと支えてくれていた相手に、今さらそんなことを言うのかって感じはする。
でも、今は必要だった。
ここで日菜さんに“自分で何とかしなきゃ”へ戻られたら終わる。
日菜さんは何か言い返しかけて、結局飲み込んだ。
その代わり、一歩だけ後ろへ下がる。
それだけで十分だった。
『救助プロトコルを更新します』
ナイトメアが、今度は俺の方を見た。
片目のタイマーが、冷たく明滅している。
『月夜野日菜が適正配置を拒否したため、代替手順へ移行します』
『万津。あなたに正解を選択させます』
「は?」
次の瞬間、床のラインが一気に組み変わった。
三つの発光区画。
三つの選択肢。
モニターに映るのは、それぞれ違う区画に閉じ込められた人影。
一つは日菜さんそっくりのシルエット。
一つは俺自身。
もう一つは、輪郭の曖昧な“誰か”だ。
制限時間が点灯する。
CHOOSE THE CORRECT RESCUE TARGET
嫌な笑いが出そうになる。
そう来るか。
日菜さんを“支える席”へ固定できないなら、今度は俺に“正解を選ぶ側”をやらせるつもりなんだ。
『一つだけを救えます』
「クソみたいなルールだな」
『合理的です』
「どこがだよ」
『全員を救えない状況では、最適な損失管理が必要です』
その言葉が終わるのと同時に、タイマーが減り始めた。
日菜さんが息を呑む。
俺はその表示を睨みつけながら、ようやくはっきり分かった。
こいつは、ずっと同じことをやっている。
日菜さんには“支える側へ固定されろ”と迫り、
俺には“正解を選べ”と迫る。
つまり、
誰か一人へ全部を押しつける構造そのものが、この悪夢の核だ。
だったら、ここでやることも一つしかない。
「日菜さん」
「……はい」
「次は、俺がこいつのルール壊す」
「壊せるんすか」
「壊すしかない」
言い切ると、日菜さんは少しだけ目を細めた。
不安もある。
でも、それ以上に、今はもうこっちを見ていた。
席の方じゃなく、俺の方を。
それだけで十分だった。
支える側へ固定されるんじゃなく、ちゃんとここで、同じ場所へ立っている。
なら次は、そのための答えを俺が見つける番だ。
エスケープナイトメアの視線が鋭くなる。
タイマーが減る。
白い部屋の空気が、また一段、息苦しくなっていく。
でも、今度はもう分かっている。
これは“解くべき問題”じゃない。
“壊すべき構造”だ。
そして、その認識が次の扉を開くことも、たぶんもう分かり始めていた。