ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ   作:ボルメテウスさん

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秩序 Part3

 放課後の教室は、昼間よりも少しだけ本音が落ちやすい場所だと思う。

 授業が終わったあとの空気は妙に軽いくせに、教室の隅へ残る机や椅子や黒板の静けさは、昼間よりずっと人の気配を濃く残している。

 誰かが置き忘れた教科書、半分だけ開いた窓、消し切れていないチョークの白い筋、そういう細かなものが、今までそこに人がいた証拠みたいに視界へ引っかかる。

 だからこそ、普段なら見落としそうな違和感まで、こういう時間の教室ではやけにはっきり見えてしまう。

 

 その日も最初は、ただの放課後だった。

 窓から差し込む西日が、机の表面を斜めに照らしている。

 廊下の向こうでは運動部の声が遠く反響していて、風に揺れたカーテンの端が、時々、机の脚へ触れて小さな音を立てていた。

 何でもない、見慣れた教室のはずなのに、教室へ足を踏み入れた瞬間、俺は妙な引っかかりを覚えた。

 

「……あれ」

 

 思わず、そんな声が漏れる。

 教室の中央付近、窓際から三列目の机の横に、東条斬美が立っていた。

 

 東条斬美。

 超高校級のメイド。

 それだけ言えば、たぶんほとんど説明は足りてしまう。

 誰よりも先に気づき、誰よりも静かに動き、頼まれる前に必要なことを片付けてしまう。

 忙しそうにしていれば自然に手を貸してくれて、こっちが気づいていない乱れまで、いつの間にか整えてくれる。

 俺が事件や悪夢の後始末やら何やらで慌ただしくしている時も、東条は一歩引いた位置から、でも確実に状況を整えてくれるクラスメイトだった。

 そういう意味で、東条が教室に一人残っていること自体は、別に珍しくもない。

 

 珍しかったのは、その教室が、東条のいる空間らしくなかったことだ。

 

 黒板の下にはチョークの粉が散っている。

 教壇の脇にはプリントの束が少しだけ崩れたまま置かれていて、窓際の机には消し残しの筆跡が細く残っている。

 それだけなら、放課後の教室としては普通だ。

 でも、そこに東条がいるなら、普通はもう少し違う。

 少なくとも、黒板の汚れや机の傾きや紙の乱れをそのままにして立っているような奴じゃない。

 

「東条さん?」

 

 声をかけると、東条がゆっくり振り向いた。

 その所作自体はいつも通り綺麗だった。

 背筋も伸びているし、表情も穏やかだし、制服の乱れだってない。

 それなのに、何かがおかしい。

 言葉にしづらいけど、目の前に立っている東条からは、普段みたいな“先に全部整えてしまう人間”の空気が薄かった。

 

「万津君」

 東条は柔らかく微笑む。

「あなたも、まだ教室に残っていたのね」

 

「残ってたっていうか、今来たばっかだけど」

 俺は軽く肩をすくめる。

「東条こそ、珍しいな。まだいたのか」

 

「ええ、少しだけ片付けをしようと思っていたのよ」

 そう答えながら、東条の視線が黒板の方へ流れる。

 けれど、その黒板を見たまま動かない。

 いつもの東条なら、そう言った瞬間にはもう布巾か黒板消しを手にしている。

 そういう人間だ。

 なのに今は、片付けると言いながら、その最初の一歩が出ていない。

 

「片付けなら、俺も手伝うけど」

 

「ありがとう」

 東条はすぐに答えた。

「そうね……難しく考えずに、手を付けられるところから始めてみましょう」

 

 その台詞自体は、たぶん間違っていない。

 東条らしい言い方でもある。

 けれど、何だろうな、と俺は心の中で首を傾げる。

 今の言葉、整ってはいる。

 綺麗でもある。

 でも、綺麗すぎる。

 普段の東条の言葉は、もっと自然に実務へ繋がっていく。

 今みたいに、一拍置いてから「手を付けられるところから」なんて言い方をする時は、大抵もう、その手を付ける場所が頭の中で固まっている時だ。

 なのに、今の東条にはその先がない。

 

「じゃあ、俺はプリントまとめるわ」

 そう言いながら教壇の脇へ近づく。

「東条は黒板頼めるか」

 

「ええ、任せてちょうだい」

 

 返事は綺麗だった。

 けれど、返事のあとでも東条はすぐに動かない。

 黒板の前まで歩いて、そこで一瞬だけ立ち尽くす。

 黒板消しへ手を伸ばしかけて、途中で止まり、それからようやく握った。

 そんな小さな動きの鈍さが、妙に目について仕方がない。

 

 俺はプリントの束を揃えながら、さりげなく東条の方をうかがう。

 黒板消しを持った東条は、上から順に板書を消している。

 動きは丁寧だ。

 でも、いつもより少しだけ遅い。

 それに、消し終わったあとの白い粉が、黒板の下へ細く落ちていくのに、そのまま気づかないふうでいる。

 いや、気づいていないわけじゃない。

 気づいているのに、反応が遅れている。

 それが気味悪かった。

 

「東条さん」

 

「なぁに、万津君」

 

「疲れてるか」

 

 その問いに、東条はわずかに目を瞬いた。

 意外だった、というより、そう訊かれると思っていなかった顔だ。

 

「どうしてそう思うのかしら」

 

「いや、何となく」

 俺はプリントの端を揃えながら言う。

「ちょっと動きが鈍いっていうか、いつもみたいな感じじゃない」

 

「そう……見えるのね」

 東条は小さく息を吐く。

「確かに、少しだけ集中しきれていないのかもしれないわ」

 

「何かあったのか」

 

「別に、大したことではないのよ」

 東条は黒板へ向き直る。

「少し、考え事をしていただけだわ」

 

 考え事。

 東条がそういう時、普通はもっと静かで、もっとまとまっている。

 考えながらでも手が止まらない人間だからだ。

 だから今みたいに、手元の仕事へ明らかにズレが出ている時点で、もう“考え事”だけでは済まない気がした。

 

 俺がそう思っていると、東条は黒板を消し終えたあと、今度は窓際の机へ目を向けた。

 そこには誰かがこぼしたらしい細い水滴の跡が残っている。

 東条なら、そういう小さな汚れを見逃さない。

 見逃さないはずなのに、彼女はそこへ歩み寄って、机の上へ指先を置き、そしてまた止まった。

 

「東条さん?」

 

「……ええ」

 

 返事はある。

 でも、視線が机の一点へ貼りついたまま離れない。

 汚れの前で、固まっている。

 それがあり得なかった。

 東条斬美が、片付けるべき汚れを前にして、判断を止めるなんて。

 

 俺はプリントを机へ置いて、そっちへ近づく。

「大丈夫か」

 

「大丈夫よ」

 東条は少しだけ早口に答える。

「少し、ぼんやりしてしまっただけだわ」

 

「ぼんやりで済む顔じゃない」

 

 言った瞬間、東条の肩がわずかに揺れた。

 やっぱり、図星だ。

 そう確信したところで、東条は無理に微笑もうとする。

 その笑顔は綺麗だけど、薄い。

 感情をきれいに整えすぎていて、逆に怖い。

 

「あなたは時々、妙なところで鋭いのね」

 

「そりゃどうも」

 俺は机の水滴跡を見る。

「で、何があった」

 

「……」

 

「東条さん」

 

「本当に、大したことではないの」

 東条はそう言う。

 でも、その声は少しだけ掠れていた。

「少しだけ、気分が優れないだけよ」

 

「東条がその程度でこうなるなら、もっと分かりやすく休むだろ」

 

 俺の言葉に、東条は何も返さない。

 その沈黙の方が、言葉よりずっと重かった。

 

 その時、不意に教室の隅から、軽い音がした。

 振り向くと、東条がいつの間にか手にしていた雑巾が、床へ落ちていた。

 水を含んだままの雑巾だ。

 落ちた拍子に、床へ小さく水が跳ねている。

 

 そこまで見た瞬間、俺の背筋に冷たいものが走る。

 

 東条が、雑巾を落とした。

 それだけなら、誰にでもある。

 でも、落とした瞬間の東条の顔がまずかった。

 驚きでも、照れでもなく、もっと別の感情がそこにあった。

 怯え。

 しかも、雑巾を落としたこと自体じゃない。

 “綺麗にできない自分”を見た瞬間の怯えだ。

 

「……ごめんなさい」

 

 東条が、小さく言う。

 その謝罪に、俺はぞっとした。

 床へこぼれた水滴ひとつに対する反応としては、明らかに重すぎる。

 

「謝ることじゃないだろ」

 

「いいえ」

 東条は俯いたまま続ける。

「私は、こういうことを起こしてはいけないのに」

 

「こういうこと?」

 

「片付ける側が、散らかしてどうするの」

 その声音は静かだった。

 静かすぎて、逆に危うい。

「整えるべき人間が、汚してしまってどうするの」

 

 今の言葉で、胸の中の違和感が一気に形になった。

 東条は今、目の前の小さな失敗を見ていない。

 もっと大きい何かを見せられている。

 片付けられない自分。

 綺麗にできない自分。

 役目を果たせない自分。

 そういう“像”が、今の東条の目の前にある。

 

 俺はしゃがんで雑巾を拾い、そのまま水滴を拭き取る。

 東条はそれを止めようともせず、ただじっと見ていた。

 それもまた異常だった。

 普段なら真っ先に「それは私が」と言うはずの人間が、今はただ見ているだけだ。

 

「東条」

 俺は立ち上がって、まっすぐ彼女を見る。

「お前、何見た」

 

 その問いに、東条の瞳がかすかに揺れた。

 ああ、やっぱり。

 そう思った時には、もう答えはほとんど出ていた。

 

「……何も」

 

「嘘だな」

 

「嘘ではないわ」

 

「じゃあ、何でそんな顔してる」

 

 東条は口を閉じる。

 否定も反論も返ってこない。

 その沈黙が、何よりの答えだった。

 

 絶望のビデオ。

 その単語が、頭の中で冷たく輪郭を持つ。

 片付けても終わらない世界。

 綺麗にしても意味がない光景。

 役目を果たせない自分。

 東条みたいな人間へ見せるなら、これ以上なく効果的な悪夢だ。

 

 教室の空気が、さっきまでより少しだけ重くなった気がした。

 西日の色は変わらない。

 机も椅子もそのままなのに、今この教室だけが、薄く悪夢の入口へ繋がっているように見える。

 

「東条さん」

 

 もう一度、名前を呼ぶ。

 今度は少しだけ低く、はっきりと。

 

 東条はゆっくり顔を上げた。

 その表情はまだ綺麗だった。

 けれど、その綺麗さの下で、確かに何かが崩れかけている。

 

 間違いない。

 東条斬美は、絶望のビデオを見た。

 そして今、その悪夢へ引きずられる寸前にいる。

 

 俺は息を整えながら、目の前のクラスメイトを見失わないように、その姿をまっすぐ視界へ捉え続けた。

 

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