ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
東条が絶望のビデオを見たと察した瞬間から、俺の中ではもう悠長に考える時間なんて消えていた。
このまま彼女を一人にしておけば、悪夢は必ずもっと深いところまで食い込む。
そう分かってしまった以上、迷っている暇なんてない。
俺は教室の扉を閉めると、深く息を吸ってから腰のゼッツドライバーへ手をかけた。
小型のPsync装置としても機能するこのドライバーは、戦うためのベルトであると同時に、夢の底へ潜るための鍵でもある。
東条の意識がまだ完全に沈みきる前に追いつかなければならない。
その焦りが、指先へじわじわ熱を集めていく。
「行くぞ……東条」
小さくそう呟いて、俺はスイッチを押し込んだ。
次の瞬間、ドライバーの中心で淡い光が脈打ち、耳の奥へ低い駆動音が走る。
視界の輪郭がゆっくりとほどけ、教室の机も椅子も窓の外の夕焼けも、薄い膜みたいに揺らぎ始めた。
床が消えるわけじゃない。
自分の方が、現実の層から一枚ずつ剥がされていく。
何度経験しても気分のいい感覚じゃなかった。
肺の奥で息が浮き、心臓だけが現実に置いていかれまいと妙に強く脈を打つ。
それでも、意識の沈下が止まることはない。
教室の白い蛍光灯が滲み、黒板の緑が溶け、最後には全部が細い線の群れになって、暗い水の底みたいな場所へ吸い込まれていった。
そして次に足裏へ返ってきた感触は、現実の床よりずっと重たく、嫌に湿っていた。
俺はゆっくり目を開ける。
そこに広がっていたのは、学園と屋敷を無理やり一つへ縫い合わせたみたいな、巨大で歪んだ館だった。
「……何だよ、ここ」
思わず漏れた声が、やけに長く響いた。
廊下は広い。
壁には豪奢な額縁が並び、天井には古びたシャンデリアが吊られている。
ぱっと見だけなら格式のある洋館にも見える。
けれど、その全部がどこかおかしい。
磨かれているはずの床板には黒ずんだ染みが残り、赤い絨毯の上には腐った野菜、砕けた皿、破れた紙袋、濡れた雑巾みたいなものが雑然と散らばっている。
しかもその汚れ方が、誰かが乱暴に荒らした感じじゃない。
最初から、片付けても片付けても追いつかなかった末路みたいな汚れ方だった。
鼻を刺す臭いがある。
腐敗臭。
湿った布の臭い。
古いゴミ捨て場の奥をひっくり返した時みたいな、重たくて甘い最悪の臭いだ。
俺は反射で口元を押さえながら、廊下の先へ視線を走らせる。
左右に続く扉はどれも半開きで、その隙間からも汚れた光景が見えていた。
応接室らしい部屋では、白いクロスの上へ茶色く変色した食器が放置されている。
給仕室らしい場所では、並んでいるはずの調理器具が床へ転がり、奥の棚からは何か黒い液体が糸みたいに垂れていた。
東条斬美の悪夢としては、これ以上ないくらい最悪な景色だ。
「東条!」
呼んでみる。
けれど返事はない。
代わりに、廊下の奥でごとりと鈍い音がした。
俺はすぐそちらへ走る。
靴底の下で、何か柔らかいものがぐしゃりと潰れる感触が伝わってきて、思わず顔をしかめた。
気持ち悪い。
でも、立ち止まってる場合じゃない。
進むほど異常は濃くなる。
壁際に積まれたゴミ袋は口を縛られているはずなのに、内側から何かが蠢くみたいに膨らんでいた。
割れた窓の下には、片付けられたはずのガラス片がまた増えている。
ひとつ拾い上げて脇へ退けようとした瞬間、その足元へ新しい破片が音もなく落ちた。
この世界は、散らかっているだけじゃない。
片付ける行為そのものを嘲笑っている。
整えようとするほど、もっと汚してくる。
それがこの悪夢のルールなんだと、見ているだけで分かった。
角を曲がった先で、ようやく人影が見えた。
大きなホールの中央。
そこだけは吹き抜けになっていて、本来ならメイドが完璧に整えた応接の間みたいに見える造りをしている。
だが今は、長机の上にも床にも、ゴミと腐敗した食材と汚れた布が山みたいに積み上がっていた。
その中心で、東条が一人、床を拭いていた。
「東条!」
声を上げる。
東条はびくりと肩を揺らし、ようやくこっちを振り向いた。
その顔にはいつもの静かな落ち着きがまだ残っていた。
でも、その奥で焦りが息をしている。
拭いたそばから黒い液体が滲み、拾ったゴミの後ろからまた新しいゴミが落ち、整えたテーブルクロスの端からは腐った染みが花みたいに広がっていく。
東条はそれを止めようとしている。
必死に。
必死に、いつもの自分でいようとしている。
「万津君……来てしまったのね」
「来るに決まってるだろ」
俺はホールへ踏み込みながら答える。
「何だよこの世界。東条、お前ずっとこんな中にいたのか」
「大丈夫よ」
東条はすぐにそう言う。
けれど、その声には無理があった。
「少し散らかっているだけだわ。今、片付けるから――」
その言葉の途中で、彼女のすぐ脇へ積まれていたゴミ袋が、ぶくりと膨らんだ。
次の瞬間、中身が破裂したみたいに袋が裂け、腐った食材と汚泥みたいなものが床へ飛び散る。
東条が反射で後退する。
そこへさらに、床のあちこちから黒ずんだゴミが湧くように増えていく。
片付けても終わらない。
むしろ片付けようとした分だけ、悪夢は勢いを増しているように見えた。
「下がれ、東条!」
俺がそう叫んだ瞬間だった。
足元のゴミ山が、ぐらりと揺れる。
ただ崩れたんじゃない。
内側から、何かが押し上げてきている。
腐臭が一気に濃くなる。
同時に、じゅわ、と嫌な音を立てながら、周囲の机や椅子の脚が黒ずみ始めた。
腐っている。
ゴミに触れたところから、館の中の物そのものが腐敗しているんだ。
「っ、これ……!」
鼻の奥へ刺さる臭いが変わる。
ただの腐敗臭じゃない。
もっと鋭くて、吸い込んだら駄目だと本能で分かる臭いだった。
毒ガス。
俺はすぐに東条の腕を引き寄せ、口元を押さえさせる。
「息を止めろ!」
その瞬間、ゴミの山が弾けた。
飛び散った腐敗物の中心から、ゆっくりと立ち上がる影がある。
女のシルエットに見えた。
だが人間じゃない。
着ているのは汚れたメイド服。
けれどその頭部は顔ですらなく、何本もの汚れた繊維を垂らした巨大なモップそのものだった。
先端からは黒い汚水がぽたり、ぽたりと垂れ、その滴が床へ落ちるたびに白い床板が腐っていく。
腕を振るうたびに、ゴミが舞う。
足元では腐ったゴミ袋が口を開き、そこから立ち上るガスがホール全体へ薄く広がり始める。
「……トラッシュナイトメア、か」
名前にしたって、あまりにも分かりやすすぎる。
けれど、それ以外に呼びようがなかった。
清潔と奉仕の象徴であるメイドと、掃除道具であるモップを、最悪の汚染へねじ曲げた怪物。
東条斬美の絶望を形にするなら、確かにこれ以上なく正しい姿だ。
東条の息が、隣で少しだけ乱れる。
俺はその気配を感じながら、一歩前へ出た。
目の前の怪物は、ただの敵じゃない。
片付けても終わらない世界。
綺麗にできない自分。
役目を果たせない恐怖。
そういうものを東条へ延々と見せつけるために生まれた悪夢だ。
「東条、俺の後ろにいろ」
「でも――」
「いいから」
短く言い切って、俺は腰へ手をかける。
ゼッツドライバーの冷たい感触が、今度はやけに頼もしく思えた。
この悪夢のルールも、この怪物も、東条の心ごと抱え込んだまま終わらせるわけにはいかない。
だったら、やることは一つしかない。
俺はトラッシュナイトメアを睨みつけたまま、静かに息を整えた。
教室で見た違和感の正体は、もう目の前へ姿を現している。
なら、今度はこっちが踏み込む番だった。