ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
オルデルムへ変わった瞬間から、視界の質そのものが変わっていた。
さっきまでホールを埋め尽くしていた腐敗も、毒ガスも、散乱したゴミも、ただ厄介な障害物としてそこにあるわけじゃない。
どこが本来あるべき配置から外されていて、どこへ歪みが集中しているのか。
それが、緑の光を帯びた線となってはっきり見える。
トラッシュナイトメアが撒き散らした汚染は、無秩序に見えて、その実すべてに“悪夢として成立するための接続”があった。
つまり、そこだけを正しく断てば、この部屋は元へ戻せる。
腐臭の残るホールの中央で、俺は一歩前へ出る。
足元に散らばった腐った食材も、破れたゴミ袋も、オルデルムの視界ではただのゴミじゃない。
東条斬美を絶望させるために、無理やりこの空間へ固定された歪みそのものだ。
その一つひとつを見下ろしていると、胸の奥へ静かな確信が落ちていく。
壊す必要はない。
正しい形へ戻せばいい。
それだけで、この悪夢の前提は崩れる。
俺はカプセムへ手を添え、ゆっくりボタンを押し込んだ。
小さな駆動音が鳴る。
次の瞬間、オルデルムの全身を走る緑のラインが、部屋全体へ細く伸びていった。
最初に反応したのは、床へこびりついていた黒い汚泥だった。
じゅ、と嫌な音を立てながら広がっていた腐敗が、今度は逆再生みたいに収束していく。
汚泥の輪郭が細く縮み、床板の傷んだ部分だけが浮かび上がり、そこへ新しい木目が淡い光と一緒に再構築される。
次いで、割れた食器の破片が震えながら持ち上がり、白い皿の形へ戻っていく。
破れた袋は繊維の一本ずつからほどけるように元の形を取り戻し、腐っていた食材は黒ずみを失って、ただの空気の粒みたいに消えていった。
部屋そのものが、苦しそうに咳をしたあとで、ようやく息をし始めたように見えた。
「……すごい」
東条の声が、すぐ後ろで小さく震える。
驚きだけじゃない。
その中には、信じられないものを見た時の戸惑いと、もう一度手を伸ばせるかもしれないという微かな希望が混ざっていた。
トラッシュナイトメアが、それを見て身を震わせる。
頭部のモップ繊維を逆立て、また新しいゴミを撒き散らそうとする。
けれど、その動きより一瞬早く、オルデルムの視界が歪みの起点を捉えた。
俺は片手を軽く振る。
ただそれだけで、撒かれた腐敗物は空中で接続を失い、床へ届く前に塵のようにほどけて消えた。
この力は、敵を叩き壊すためだけのものじゃない。
悪夢が作り出した間違った構造を、あるべき位置へ戻す。
だからこそ今、トラッシュナイトメアが最も恐れているのは俺自身の打撃じゃない。
東条の心を折るために用意した“片付けても終わらない部屋”が、目の前で回復していくことだ。
俺はそこで、振り返った。
東条はまだホールの入り口寄りに立っていた。
息は乱れている。
顔色も完全には戻っていない。
それでも、その瞳だけは、さっきよりはっきり前を見ていた。
汚れに圧され、役目を果たせない自分へ怯えていた時の目じゃない。
整えるべき場所を見つけた人間の目だ。
「東条」
名を呼ぶと、彼女はすぐにこちらを見た。
その瞬間、オルデルムの中で一つの答えが定まる。
ここから先は、俺一人で全部を正す戦いじゃない。
東条斬美自身が、この部屋を取り戻す側へ戻らなければ意味がない。
「東条へオーダする」
俺は静かに、はっきりと言った。
「この部屋のゴミを片付けてくれ」
その一言が落ちた瞬間、東条の表情が変わった。
驚き。
それから、理解。
そして最後に、静かな熱。
超高校級のメイドとしての誇りが、悪夢の底で踏みにじられたまま終わるはずがない。
彼女にとって、“片付ける”という行為は単なる作業じゃない。
自分がここに立つ理由そのものだ。
その役目を、今、俺は改めて東条へ返した。
「……了解したわ」
東条は一歩前へ出る。
その声には、もうさっきまでみたいな怯えがなかった。
むしろ、落ち着きの奥へ鋭い芯が戻っている。
「命令を遂行するわ」
その言葉と同時に、東条の周囲へ薄い緑の光が走った。
オルデルムの修繕能力が、部屋だけじゃなく、東条の精神へ食い込んでいた悪夢の歪みも少しずつほどいていく。
汚れを前にした時の躊躇い。
片付けても終わらないという絶望。
それらが完全に消えたわけじゃない。
けれど、少なくとも今はもう、彼女の動きを止めるほど強くはない。
東条は近くの倒れたワゴンへ手を伸ばした。
さっきまでなら、そこに積み上がった汚れを見ただけで一瞬止まっていたはずだ。
だが今は違う。
彼女は迷いなく布を取り、散らばった破片を拾い上げ、床へ残った汚れへと視線を走らせる。
その一つひとつの動きが、まるで館全体へ「私はまだ終わっていない」と言い返しているみたいだった。
そして、その東条の動きに合わせるように、オルデルムの力が反応する。
彼女が片付けようとした場所から、先回りするように腐敗の接続が解けていく。
東条の手が届く先へ、正しい床が戻る。
彼女が整えようとした机は、本来の形へ修復される。
つまり今、この戦場では、東条のメイドとしての技量と、オルデルムの修繕能力が同じ方向を向いていた。
「右側の汚れは、もう広がらないわ」
東条がきっぱりと言う。
「なら、あとは正面の腐敗源だけを止めれば、この部屋は持ち直せる」
「分かってる」
俺は頷く。
「そっちは任せる」
「ええ、任されたわ」
東条はそう言いながら、落ちていた銀のトレイを足先で弾いて拾い上げる。
その動きに、もう迷いはない。
整えるための人間が、整えるために立ち上がっている。
その事実だけで、空間の圧が少し変わるのが分かった。
トラッシュナイトメアが苛立ったみたいに腕を振るう。
ゴミ袋がまた膨らみ、毒ガスが噴き出しかける。
けれど、今度は東条の方が早かった。
彼女は視線だけで汚染の起点を見抜き、短く叫ぶ。
「万津君、左の柱の根元!」
「了解!」
俺は即座に踏み込む。
オルデルムの視界では、東条の指摘した一点だけが鮮やかな緑で浮かび上がる。
そこへ掌を向けると、柱の根元に絡みついていた腐敗の線が切れ、毒ガスは発生する前に霧のように消えた。
今度は逆に、東条が俺の開いた道へ入る。
壊れたワゴンを立て直し、散乱した食器を拾い、床へ残った黒い汚れを一気に拭い上げる。
その動きは、まさに東条斬美だった。
超高校級のメイド。
片付けること、整えること、それ自体が彼女の誇りだ。
だから、この共闘は単なる補助じゃない。
彼女が自分自身を取り戻すための戦いでもある。
「東条!」
「ええ!」
短い呼びかけだけで、もう十分だった。
俺たちは同時に前を向く。
ひとりは悪夢の構造を見抜いて修復するために。
ひとりは、その修復された場を実際に整え、誇りと共に立つために。
互いに視線を交わすのは一瞬だけだ。
だが、その一瞬で十分に通じるものがあった。
ここから先は、もう迷う必要がない。
眼前の敵へ集中するだけでいい。
俺はオルデルムの構えを低く沈める。
東条もまた、散乱した道具を握り直し、静かに呼吸を整えた。
そのまま、俺たちは揃ってトラッシュナイトメアを見据えた。