ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
白い病院の奥へ進むほど、空気は冷たくなっていった。
廊下の壁は綺麗すぎるほど磨かれていて、床には俺達の足音だけが薄く反響している。病院なら、本来は誰かの呼吸や話し声、看護師の足音、機械の警告音が混ざっているはずだった。けれど、この場所には人が治るための雑音がない。ただ、何かを保管している機械だけが、規則正しく動いている。
俺達の前に現れた区画には、無機質な文字で「修復病棟、第三区画」と表示されていた。
入口のモニターには、患者名ではなく処理工程が並んでいる。感情欠損患者データ、保管中。人格断片、補填待機。記憶接続率、四十二パーセント。そこに名前はなく、誰が苦しんでいるのかを示すものもなかった。
「ここが、修復病棟か」
俺が呟くと、隣で入間が肩を震わせながらモニターを睨んだ。
「修復って言い方がもう嫌なんだよ。何をどこまで直すつもりなんだよ、ここの連中は」
入間の声にはまだ怯えが混ざっていたが、視線はもう逃げていなかった。怖がっていても、目の前の機械を見れば、発明家として何かを読み取ろうとする。そういうところは、やっぱり入間らしい。
東条はモニターの表示を見て、静かに眉を寄せた。
「病棟という名前なのに、患者の名前が一つも表示されていないわ」
「名前を見ていないんじゃない。最初から名前を必要としていないんだと思う」
春川の言葉は冷静だった。冷静だからこそ、病棟の異常さをはっきり切り取っていた。
犬神は、白い廊下の壁に流れる処理記録を見ながら答えた。
「丑寅君にとって重要なのは、対象がどの程度壊れていて、どの程度修復可能かという点なのでしょう」
「それって、人じゃなくて部品を見る目だろ」
「ええ。法務省の私から見ても、かなり危うい分類です」
俺達は、修復病棟の中へ入った。
そこには、白いベッドがいくつも並んでいた。ベッドの上には、人間の形を取りかけた白いデータ体が横たわっている。顔はぼやけていて、目も口もまだ定まっていない。身体の輪郭は人間に近いのに、中身がどこか足りない。まるで、誰かの夢の残骸を無理やり人の形へ押し込めているようだった。
胸元のモニターに、状態が表示されている。
感情欠損、補填待機。怒り、削除済み。恐怖、抑制済み。記憶断片、外部データ接続待機。
東条が息を呑んだ。
「恐怖や怒りを消しているのね。これでは、楽になっているのではなく、反応を奪われているだけだわ」
「苦しまないようにするために、感情ごと消してるのか」
俺がそう言うと、犬神は少しだけ目を伏せた。
「丑寅君は、痛みを残したまま修復することを非効率と考える傾向があります」
「痛みを消せば救えるなんて、随分と都合がいい考え方だね」
春川の声には怒りが滲んでいた。大きく叫ぶわけではない。けれど、静かに苛立っているのが分かった。
その時、入間が一つの修復装置へ近づいた。怖がっていたはずなのに、端末の配線や表示を見た途端、彼女の目つきが変わっていた。
「待て、この装置……感情を消してるだけじゃねぇ。足りない部分を別のデータで埋めようとしてやがる」
「何が分かったんだ」
俺が聞くと、入間は端末へ指を走らせながら、唇を噛んだ。画面に映る配線図と処理記録を追うたび、彼女の表情は嫌悪で歪んでいく。
「くそっ、気持ち悪ぃ配線してやがる。これ、治してるんじゃねぇぞ」
「どういう意味だ」
「壊れた部分を直してるんじゃねぇ。欠けた記憶とか感情を、別のデータで無理やり埋めてるんだよ」
東条が静かに言葉を受け取った。
「それでは、修復されたとしても本人のままとは限らないわ」
「そういうことだ。こんなの修理じゃねぇ。雑な改造だ」
入間は吐き捨てるように言った。普段なら自分の発明を誇る時のように大げさな口調になるはずなのに、今は違った。目の前の技術に対して、発明家として本気で怒っている。
犬神が記録するように入間を見た。
「入間美兎さん、あなたの解析は正しいと思います。丑寅君の修復は、対象の継続性を軽視する危険があります」
「褒められても嬉しくねぇよ。こんな胸糞悪い設計、天才のオレ様でも作らねぇ」
入間の声が震えていたのは、怖いからだけではないのだと思った。怖くても、許せないものがある。だから、あいつは端末から手を離さなかった。
その時、奥のベッドで横たわっていたデータ体が、苦しむように震え始めた。胸元のモニターに赤い表示が走る。
感情補填エラー。恐怖反応、再発。安定化処置、準備中。
東条が反射的に前へ出た。
「大丈夫よ。あなたが聞こえているなら、私の声に意識を向けて」
「おい東条、近づくなって! そいつ、何が起きるか分かんねぇぞ!」
入間が叫んだが、東条は止まらなかった。彼女はベッドのそばへ膝をつき、震えるデータ体へ視線を合わせるように身をかがめた。
「だからこそ、誰かが声をかけなければならないわ。苦しむ者を黙らせるだけなら、それは世話ではないもの」
東条の声は落ち着いていた。こんな場所でも、目の前に苦しむ誰かがいれば、東条は世話をする。相手が人間の形を取り切れていないデータ体でも、彼女には「対象」ではなく「誰か」に見えているのだろう。
「東条……」
「あなたは、ただの修復対象ではないわ。まだ言葉にできなくても、苦しんでいるなら、そこにはあなた自身が残っている」
その言葉に反応したように、データ体の輪郭が揺れた。ぼやけていた顔の中央に、目のような影が生まれる。けれど、病棟システムはその反応を回復とは見なさなかった。
天井から医療機械腕が伸びた。銀色のアームは、先端に注射器や拘束具のような器具を備えている。患者データと東条を同時に拘束するように、無音で降りてきた。
モニターに文字が浮かぶ。
異常反応確認。対象、安定化処置へ移行。外部干渉者、補助拘束。
「東条、下がって!」
春川が鋭く叫び、前へ飛び出した。彼女は機械腕の軌道を読んで、東条の肩を掴む寸前だったアームを蹴り払う。金属音が白い病棟に響いた。
「まだ駄目よ。この子は、反応を取り戻しかけている」
「反応を取り戻したら処置対象とか、完全にイカれてんだろ!」
入間が端末を操作し、拘束プログラムへ割り込もうとする。けれど、病棟全体が一つの命令系統で繋がっているらしく、一本のアームを止めても、別の壁から次の機械腕が伸びてきた。
「春川、東条を守れ。入間、機械腕を止められるか」
「言われなくてもやる」
「止められるかじゃねぇ。止めなきゃオレ様まで巻き添えだろうが!」
春川は東条と患者データの間へ立ち、近づく機械腕を次々と叩き落とした。変身していない状態でも、彼女の動きは無駄がない。守るために必要な距離と位置を、瞬時に選んでいる。
入間は汗を浮かべながら端末に指を走らせていた。
「くそっ、ここの機械、命令系統が病棟全体に繋がってやがる。一本止めても次が来るぞ!」
「万津、前に出すぎないで。あんたが素材候補なら、次に狙われるのはあんた」
春川にそう言われ、俺は踏み出しかけた足を止めた。分かっている。ここで俺が不用意に動けば、病棟は俺を直接取りに来る。けれど、東条だけに任せるわけにもいかなかった。
「分かってる。でも、東条だけに任せるわけにもいかない」
東条は機械腕の音が近づいても、患者データへ声をかけ続けていた。
「落ち着いて。あなたの反応は間違いではないわ。怖いなら、怖いと感じていいの」
データ体の口元が震えた。白いノイズの中から、かすれた声が漏れる。
「……こわ、い……」
俺は思わず息を止めた。
「声が出た……!」
犬神がその様子を見て、静かに呟いた。
「興味深いですね。東条斬美さんの呼びかけで、抑制されていた恐怖反応が言語化されたようです」
「犬神、観察してるだけなら黙ってて」
春川が冷たく言うと、犬神は少しだけ肩をすくめた。
「失礼しました。今のは記録に残す価値がある反応でしたので」
その瞬間、院内放送から豪快な笑い声が響いた。
「おいおい、保健省の患者に勝手な刺激を入れるんじゃねぇよ。せっかく安定化させてたのによ」
丑寅幽玄の声だった。姿は見えない。けれど、白い病棟の壁、天井、モニター、すべてから声が響いてくる。
東条は顔を上げ、声の方向を探るように周囲を見た。
「安定とは、感情を消すことではないわ」
「感情が暴れて苦しむなら、消した方が楽だろ。痛ぇところを残したまま治療する方が残酷じゃねぇか」
丑寅の言葉は、乱暴なのに妙な理屈が通っているように聞こえた。痛みを消せば楽になる。怖さを消せば震えなくなる。怒りを消せば暴れなくなる。だけど、それは本当に治ったと言えるのか。
「うるせぇ! 治療って言葉で改造をごまかしてんじゃねぇぞ!」
入間が端末から顔を上げて叫んだ。怖がっていたはずの彼女が、今は丑寅の声へ怒りを向けている。
「姿を見せずに診察気取りなんて、随分と都合がいいね」
春川も低く言い、東条の前へさらに立ちふさがる。
「威勢がいいな。じゃあ、まとめて診てやるよ」
病棟のモニターが一斉に切り替わった。最初に表示されたのは、入間の名前だった。
過剰知能反応。恐怖反応増大。技術干渉能力、高。
「入間美兎。頭は使えるが、恐怖で手元が乱れるタイプだな。補助拘束してやれば、もっと安定して働けるんじゃねぇか」
「ふざけんな! オレ様の手を縛ったら、世界最高の頭脳が使えねぇだろうが!」
次に、東条の診断が表示される。
奉仕衝動過多。外部対象へのケア反応、強。自己犠牲傾向、観測。
「東条斬美。自分より他人を優先する癖が強ぇな。看護役としては便利だが、放っておくと自分から壊れるぞ」
東条は静かに目を細めた。
「私の奉仕は、誰かに便利に使われるためのものではないわ」
春川の名前が映る。
防衛反応過剰。接近対象への攻撃準備、高。保護対象固定傾向。
「春川魔姫。守る相手を決めると、周りが見えにくくなるな。防壁としては優秀だが、治療の邪魔にはなる」
「治療の邪魔じゃなくて、あんたの好き勝手の邪魔をするだけ」
春川の返答に、院内放送の向こうで丑寅が楽しそうに笑った。
そして最後に、モニターが俺を表示した。
夢構造異常。デュアルメア反応、確認。カタストロム干渉痕、検出。明晰夢適合率、極めて高。素材適性、最優先。
その文字が出た瞬間、病棟の空気が変わった。天井の機械腕が、患者データではなく俺を向く。床の誘導線が赤く光り、俺の足元を囲うように円を描いた。
「やっぱり俺を素材として見てるんだな」
「素材って言い方が気に入らねぇなら、患者でもいいぜ。どっちにしろ、診る価値があるのは間違いねぇ」
丑寅の声は、さっきより少し熱を帯びていた。俺の中にある夢の構造が、デュアルメアが、カタストロムの痕跡が、あいつにとっては誰かを救うための鍵に見えているのかもしれない。けれど、俺を俺として見る気はない。
「丑寅君、万津君は私の観測対象です。勝手な処理は推奨しません」
犬神が静かに口を挟んだ。すると、丑寅の笑い声が少し低くなる。
「犬神、お前がそっちにいるのも診断項目に入れとくか。法務省の白い裁判長が、ずいぶん丸くなったじゃねぇか」
「丸くなったのではありません。判決を保留しているだけです」
「保留ねぇ。壊れた判決なら、俺が治してやってもいいぜ」
犬神の表情が、わずかに冷えた。けれど、言い返す前に病棟全体の照明が赤く点滅し始めた。
モニターに、新しい表示が出る。
素材候補、ロック。初期検査、開始。夢構造採取準備。
壁、床、天井から、医療機械腕が一斉に伸びた。俺を中心に包囲するように、注射器、拘束具、切開用の光刃、解析端子が白い腕の先で展開される。
「来るよ。万津、下がって」
春川が俺の前へ立った。
「いや、俺が狙いなら、逃げるだけじゃ終わらない」
「けれど、無防備に差し出すこともできないわ」
東条も俺の横へ移動し、患者データを守りながらも俺への拘束線を見ている。入間は端末を叩きながら叫んだ。
「くそっ、数が多すぎる! このままじゃ解析どころじゃねぇぞ!」
「安心しろ。壊しはしねぇよ。必要なところだけ診て、使えるところだけ取る」
「それを壊すって言うんだよ、丑寅」
俺がそう言った瞬間、機械腕が一斉に迫ってきた。
春川は低く構え、東条は誰を優先して庇うべきかを瞬時に見定め、入間は怖がりながらも端末から手を離さなかった。三人の前に、夢の光が小さく浮かび上がる。
入間の前には、機械的な光を帯びたカプセム。東条の前には、柔らかな緑の光を宿すカプセム。春川の前には、硬質な防壁のように輝くカプセム。
それぞれの力が、三人の手元へ引き寄せられていく。
「次に来たら、止める。守るためにね」
「私も、ここで引くつもりはないわ」
「ちくしょう……怖ぇけど、あんな機械にオレ様の万津素材化計画なんか許すかよ!」
「その言い方はどうかと思うけど、頼む。入間、東条、春川」
医療機械腕が俺へ迫り、三人が同時に前へ出た。
白い修復病棟の中で、三つのカプセムが朝の光のように輝き始めた。