ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
透明な扉を越えた先には、世界の輪郭だけを抜き取ったような研究所が広がっていた。
壁はあるのに、向こう側が見える。床はあるのに、足を置くたびに胸の奥が冷える。天井も階段も通路も、薄いガラスを何枚も重ねたみたいに透き通っていて、俺達はそこに立っているのか、それともどこかの空中に吊るされているのか、すぐには信じられなかった。
見えないものは、怖い。
けれど、ここでは見えているものまで信用できなかった。
モニターの文字が、透明な壁の奥に浮かび上がる。
第二階層、接続完了。透明舞台装置、展開。視覚依存度、測定開始。対象群、誘導開始。
「足元はあるのに、どこまで続いてるのか分からない。これじゃ、歩くだけで神経を削られる」
俺がそう言うと、キーボは膝を少し曲げ、床面に指先を近づけた。彼のセンサーが微かな音を拾っているのか、頭部のランプが細かく明滅している。
「透明素材の屈折率が一定ではありません。視覚情報だけで進むのは危険です」
「んあー、これは魔法の舞台みたいじゃな。見えぬ床に見えぬ壁、客席も裏方も全部透明とは、なかなか凝っておる」
夢野は怯えているのか感心しているのか分からない顔で、透明な空間を見渡した。
その隣で、茶柱は夢野の半歩前に立ち、足元と周囲を交互に警戒している。彼女の肩は少し強張っていたが、夢野の前に立つ姿勢だけは崩れない。
「夢野さん、感心している場合ではありません! 見えない床など、足元を信用するには危険すぎます!」
「転子よ、そんなに力むでない。ウチは歩くのが面倒なだけで、落ちたいわけではないぞ」
「落ちたいわけではないなら、なおさら転子の袖を掴んでください! 夢野さんの安全確保は、最優先事項です!」
その掛け合いに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。
けれど、透明な研究所は俺達の安心を待ってくれなかった。
夢野が次の一歩を出した瞬間、足元の階段が急に現れたように見えた。実際にはそこに段差があったのだろう。ただ、見えないように処理されていたせいで、夢野の身体がふわりと前へ傾いた。
「んあっ、今の一段は聞いておらんぞ!」
茶柱が即座に夢野の腕を掴み、自分の方へ引き寄せる。
その動きはほとんど反射だったが、ただ乱暴に引くのではなく、夢野の身体が痛まない角度を選んでいるのが分かった。
「夢野さん、転子の袖を掴んでください! 転子が先に足場を確かめます!」
透明な壁の奥から、テコの声が響いた。
「落下錯覚への反応、正常。保護対象を優先する行動選択、再現性あり」
「夢野さんを守ることを、反応実験の項目みたいに言わないでください!」
茶柱の声が鋭くなる。
俺もテコへ向かって言った。
「テコ、これが研究所なのか。人を歩かせるだけで観測データを取るなんて、趣味が悪いぞ」
「趣味ではありません。視覚依存対象の行動誤差を測定しているだけです」
「そうやって言葉を冷たくすれば、やってることまで冷静に見えると思ってるのか」
返事はない。
ただ、透明な床の奥で観測光が細かく瞬いた。テコは感情で言い返す代わりに、俺の反応を記録しているのだろう。その沈黙が、こちらの怒りまで試験管へ落とされたみたいで、どうしようもなく気持ち悪かった。
キーボが壁に向き直り、透明な面を軽く叩いた。乾いた音が空間に広がり、遅れていくつもの反射音が返ってくる。
「音響反射で壁の位置を割り出します。皆さん、少しだけ静かにしてください」
「んあー、音で見るとは便利じゃのう。魔法の鈴みたいなものか」
「魔法ではありませんが、見えないものを把握する方法としては近いかもしれません」
キーボは真面目に返した。
その律儀さに夢野が少しだけ笑い、茶柱が「キーボさん、今の返しは悪くありません」と妙な評価をした。
キーボの音に合わせて、透明な壁の輪郭が一瞬だけ青く浮かび上がった。見えなかった廊下の境目、横に伸びる通路、天井からぶら下がる観測カメラの位置が、ほんの一呼吸だけ分かる。
「よし、これなら進める」
そう思った瞬間、表示が変わった。
機械知性体、環境解析開始。反射データ取得。透明壁、再配置。
青く見えたはずの壁が、次の瞬間には別の位置へ移っていた。
キーボの解析が届いたその直後に、舞台そのものが組み替えられている。
「反射した直後に構造が移動しています。こちらの解析結果を読まれています」
「解析結果に依存する対象は、解析結果を更新するだけで容易に誘導できます」
テコの声に、俺は歯を食いしばった。
「見えていないだけじゃない。見えないまま、こっちの行動に合わせて舞台を組み替えてるんだ」
透明な研究所は、迷路ではなかった。
迷路なら、出口を探せばいい。けれど、ここは俺達の足取りを見て、そのたびに通路の意味を変える舞台だった。観客席にいるはずのテコが、幕も床も照明も勝手に動かして、役者の反応だけを記録している。
次の瞬間、何もない空間に壁が差し込まれた。
俺とキーボの間に透明な隔たりが生まれ、夢野と茶柱の足元だけが別の方向へ流れるように動き始める。
対象分断、開始。夢野秘密子、茶柱転子、別導線へ誘導。ワンダー反応およびトランスフォーム反応、近接観測へ移行。
「夢野、茶柱、そっちは見えてるか!」
「見えておるかと聞かれても、何も見えぬのが問題なのじゃ!」
「万津さん、こちらは転子が守ります! 夢野さんには指一本触れさせません!」
「保護衝動を増幅する配置に変更。茶柱転子の身体反応を観測」
「あいつの守りたい気持ちを、勝手に実験条件へ変えるな」
俺は透明な壁を叩いた。手応えはある。けれど、見えない壁はどこまでも無機質で、怒りをぶつけても音しか返さない。
夢野と茶柱のいる通路で、空気が微かに歪んだ。
見えない機械腕が動いている。俺には輪郭すら掴めないが、夢野は何かに気づいたように杖を持ち直した。
「転子、右じゃ。何かが空気を押しておる」
「了解しました、夢野さんの言葉なら疑いません!」
茶柱は一瞬も迷わなかった。
彼女は夢野の言葉だけを頼りに半歩踏み込み、目に見えない何かの力を肩で受け流した。空間に透明な歪みが走り、機械腕の輪郭がわずかに浮かぶ。そのまま茶柱は身体を回転させ、相手の力を殺さず、床へ叩きつけた。
研究所の床が震えた。
「視認不能攻撃への反応、予測値超過。外部音声情報への信頼による補正を確認」
「夢野さんを信じたから動けたのです。補正などという言葉で片づけないでください!」
「んあー、ウチの魔法的指示は、科学の測定値より当たるのじゃ」
夢野は胸を張ったが、その指先は少し震えていた。怖くないわけではないのだろう。
見えない床も、見えない腕も、見えない観測者も怖い。けれど、夢野はその怖さを別の名前で呼ぼうとしていた。科学省の舞台装置ではなく、自分の魔法の舞台だと。
「見えぬものを見破ろうとするから疲れるのじゃ。見えぬなら、見えぬまま舞台装置として使えばよい」
「見えないまま使うって、どういうことだ」
俺が尋ねると、夢野は透明な床を杖で軽く叩いた。
「手品の箱には、見えぬ仕掛けがあるから面白いのじゃ。透明な舞台なら、見えぬ壁も階段も、ウチの魔法の裏方にできる」
「非科学的解釈による恐怖軽減を確認。自己暗示による適応と判断」
「んあー、自己暗示ではない。魔法じゃ」
夢野の声はいつものように眠そうだった。
けれど、その奥には小さな火が灯っていた。面倒だと言いながら、彼女はもう逃げるだけの側にはいない。見えない舞台に立たされているのではなく、その舞台を自分のものとして見返そうとしている。
「テコの分類と夢野さんの認識が食い違っています。ですが、その食い違いによって恐怖反応が下がっています」
キーボがそう言うと、俺は透明な壁越しに夢野を見た。
「夢野、今の見方はたぶん大事だ。テコがどう分類しても、お前がどう見るかまでは決められない」
「んあー、ようやく分かったか。魔法使いは舞台を選ばぬのじゃ」
その言葉に、茶柱が嬉しそうに頷いた。
「夢野さんが舞台を選ばないなら、転子はその舞台ごと守ります!」
再び不可視の機械腕が襲いかかる。
今度の茶柱は、ただ守るだけではなかった。彼女は腕の先端を掴もうとせず、触れた瞬間に力の向きを読んだ。押してくるなら引き込み、引かれるなら踏み込む。ネオ合気道の動きが、透明な機械の力を逆に利用していく。
「見えなくても、触れれば力の流れは分かります。相手が押してくるなら、その力ごと返します!」
茶柱の身体が円を描き、不可視の機械腕は自分の勢いのまま透明な壁へ叩き込まれた。
壁の輪郭が白い亀裂のように浮かび、俺達を遮っていた透明な隔たりが震える。
身体反応、変換傾向確認。外力方向の再利用。トランスフォーム適合反応、上昇。
「転子は夢野さんを守るだけではありません。皆さんが進む道も、力ずくで開きます!」
「茶柱、今の動きで壁の輪郭が出た。こっちからも進める!」
俺が叫ぶと、キーボがすぐに反応した。
「茶柱さんの投げによって、透明壁の振動が広がっています。今なら位置を特定できます」
「夢野、茶柱、そのまま壁を揺らしてくれ。こっちも合わせる!」
「んあー、壁を揺らす魔法とは地味じゃが、今はそれでよい」
「夢野さんの魔法に合わせて、転子が舞台を揺らします!」
茶柱が透明な機械腕をもう一度壁へ叩きつけ、夢野が杖で床の歪みを指し示す。
キーボは振動情報を読み取り、俺へ短く方向を告げた。
「万津君、右斜め前に壁の薄い部分があります。衝撃を一点に集中すれば、通路が開く可能性があります」
「分かった。見えないなら、信じるしかないな」
「信じるだけではなく、僕の解析も少しは信用してください」
「もちろんだ。友達の解析だからな」
俺がそう返すと、キーボの目元の光が少しだけ強くなった。
俺は透明な壁の薄い部分へ肩からぶつかる。衝撃が走り、白い亀裂が網のように広がった。次の瞬間、壁の一部が砕けるように揺らぎ、夢野と茶柱のいる通路への合流路が開いた。
俺達は合流した。
たったそれだけのことなのに、透明な研究所の冷たさの中で、誰かの声に届いたことが妙に胸へ沁みた。見えない壁を越えるというのは、物理的な距離だけではないのだと思った。
テコの観測表示が、再び更新される。
夢野秘密子。非科学的錯覚反応から、ワンダー適合反応へ再分類。透明舞台装置への認識変換、確認。
茶柱転子。保護衝動過多から、トランスフォーム適合反応へ再分類。外力方向変換、確認。
「興味深い。錯覚は舞台認識を変え、保護衝動は外力変換へ接続する」
「んあー、ようやく魔法の素質を認める気になったか」
「転子の判断を、衝動だけで片づけるのは間違いだと分かったはずです!」
「二人は、お前の表示よりずっと多くのものを持ってる」
俺がそう言うと、テコは少し間を置いてから答えた。
「表示は対象のすべてではありません。しかし、制御に必要な情報としては十分です」
「また制御か。お前は、分かったものを全部支配できると思ってるのか」
「記録可能なものは、制御可能です」
透明な研究所の奥に、新しい扉が現れた。
その前で、二つの小さな光が浮かんだ。一つは不思議な色合いで揺れ、舞台の幕のように形を変える。もう一つは形を変え続ける歯車のように回転し、力の向きを何度も入れ替えている。
ワンダーカプセム、接続候補。
トランスフォームカプセム、接続候補。
第三観測へ移行。変身反応誘導、準備。ノクスナイト・クリア、準備継続。
「次は、適合反応をより明確に観測します。舞台上で発生する変身現象は、分類価値が高い」
「テコ、お前は二人を実験対象にしているつもりかもしれない。でも、あいつらはお前の舞台で踊るだけの役者じゃない」
「対象が舞台上にいる以上、行動は記録されます。記録可能なものは、制御可能です」
夢野が小さくあくびをして、それから杖を肩に乗せた。
「んあー、舞台に立つ者が、いつも脚本通りに動くとは限らんぞ」
茶柱は夢野の隣で拳を握った。
「夢野さんの魔法と転子のネオ合気道で、その脚本ごと投げ飛ばしてみせます!」
透明な研究所の冷たい光の中で、二人の声だけが不思議と温かかった。
テコはそれを、錯覚や衝動や適合反応として分類するのだろう。けれど、俺には別のものに見えた。
見えないものに怯えながら、それでも誰かの言葉を信じること。
自分の怖さに名前をつけ直して、前へ進むための舞台へ変えること。
守るだけだった手を、道を開くためにも使うこと。
透明な研究所は、まだ俺達の足元を奪おうとしている。
けれど、足場が見えないなら、声を頼りにすればいい。壁が見えないなら、震わせて輪郭を探せばいい。誰かがこちらを役者として配置するなら、脚本にない一歩を踏み出せばいい。
俺は第三階層へ続く透明な扉を見据えた。
「行こう。次は、こっちが舞台の使い方を見せる番だ」
夢野が面倒そうに頷き、茶柱が勢いよく返事をし、キーボが静かに隣へ並ぶ。
透明な扉の向こうで、オレンジ色の線が一瞬だけ人型の輪郭を描いた。
見えない敵は、まだ姿を隠している。
だけど、俺達が見えないまま終わらせるつもりはなかった。