ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
白い食卓が、幕を下ろすみたいに薄れていった。
科学省領域を満たしていた透明な光は、もう俺達の足元を縛っていない。けれど、消えたはずの場所には、まだ白い余韻が残っていた。テコが最後に見下ろしていた右手、消しきれなかった言葉、最後まで味方になるという声の断片。そういうものが、白い床の奥に沈んだまま、呼吸のたびにわずかに揺れている気がした。
インパクトゼロイダーの同期は解け、キーボの声は遠くなっていた。
それでも、耳の奥にはまだ、彼の落ち着いた通信が残っている。
「万津君、科学省領域は停止しました。ただし、別系統のコードが接続されています」
白い床の端に、黒い文字が滲み始めた。
墨を水に落とした時みたいに、文字は細く広がり、床の表面を這っていく。透明な研究所が見えないものを消していたなら、これは違う。黒い文字は、見せたい形だけを先に決めて、世界の方をそこへ合わせようとしていた。
「見えないものを隠すんじゃなくて、見せたい言葉で塗ってくる感じか」
「干渉形式が異なります。文字列そのものが夢構造へ直接触れています」
キーボの通信に、細かなノイズが混じった。
次の瞬間、黒い文字列が床の上で集まり、一通の封筒へ変わる。封筒は、授業中に机の下で回される手紙みたいな大きさなのに、赤黒いインクの封蝋がやけに重たく見えた。
封筒の表には、細い字でこう書かれている。
親愛なる王子様へ。
「親愛なる王子様って、悪い冗談にしても趣味が濃すぎるだろ」
俺が呟くと、通信の向こうでキーボが短く沈黙した。
その間に、封蝋がひとりでに割れ、中から黒い招待状が滑り出る。
あなたの登校を、ずっと待っていました。
第一幕、開演。
文部省領域、接続。
「黒四館仄は、万津君を敵ではなく、物語上の役割として認識している可能性があります」
「役割にされるのは、もう十分なんだけどな」
招待状へ触れた瞬間、黒い文字が床から立ち上がった。
それは壁になり、廊下になり、本棚になり、黒板になった。ページの束が風もないのにめくれ、チョークではなく黒いインクで書かれた文字が宙へ浮かぶ。俺は白い食卓の跡から、巨大な学園図書館の中心へ立たされていた。
天井まで届く本棚が、校舎の廊下みたいにどこまでも続いている。
書架の間には教室の机が並び、放送室のスピーカーが天井から下がり、貸出カウンターの奥には保健室のベッドが見えた。図書館なのに、ここは学園でもあった。学園なのに、すべてが誰かの本の中へ綴じられていた。
『第一幕、王子様の登校。ページをめくれば、あなたは私の物語へ進みます』
校内放送が流れた。
声は柔らかい。柔らかすぎて、刃を布で包んでいるみたいだった。
「出迎えが丁寧すぎて、帰りたくなるタイプの歓迎だな」
俺が本棚の間を見回していると、どこかでピアノが鳴った。
誰も鍵盤に触れていないのに、短い旋律が勝手に跳ねる。その音に混じって、足音が近づいてきた。
「えっ、万津君? ここ、図書館……だよね。でも、このピアノ、誰も弾いてないのに鳴ってる」
音楽室と図書館が混ざった区画から、赤松楓が現れた。
本棚の隙間に黒いピアノが置かれ、鍵盤の上に開かれた楽譜には、音符ではなく校内放送の台詞が並んでいる。
「赤松、巻き込まれたのか。大丈夫か」
「大丈夫って言いたいけど、あの放送のリズムが嫌な感じ。言葉だけじゃなくて、歩くタイミングまで決めようとしてる」
赤松はピアノの前へ立ち、鳴っている鍵盤をじっと見た。
その横の黒板に、インクが染み出す。
赤松楓:奏でる乙女。
役割、登録。
「奏でる乙女って、勝手に決めないで。私が弾く音は、私が決める」
赤松は鍵盤を三つ叩いた。
乾いた音が図書館に広がり、校内放送のリズムが一拍だけ乱れる。黒板に書かれた役名が揺れ、ほんの一瞬だけ赤松楓という名前が濃く戻った。
「今、名前が戻った。赤松の音で、文字が揺れたのか」
「うん。まだ小さくしか崩せないけど、言葉にはリズムがある。リズムがあるなら、ずらせる」
赤松の指が、もう一度鍵盤へ触れかけた時、別の本棚の奥から明るい声が響いた。
「にゃははー、万津発見だねー。ここ、変な絵がいっぱいあるよー」
夜長アンジーが、絵本と美術室が混ざった区画から手を振っていた。
壁一面には恋愛小説の挿絵が描かれている。馬車、舞踏会、花束、王子とヒロイン。けれど王子の顔だけが、何度も俺の顔へ描き直されていた。ヒロインの顔は黒く塗り潰され、輪郭のない黒い染みになっている。
「アンジー、そっちは何が見えてる」
「王子様がねー、ぜーんぶ万津の顔になってる。でも、ヒロインの顔は黒く塗られてるよー」
アンジーは壁画の前へ近づき、指先で黒い塗り潰しの縁をなぞった。
その瞬間、隣の黒板へ文字が浮かぶ。
夜長アンジー:祝福の画家。
役割、登録。
「神さまはねー、これは祝福じゃないって言ってるよー。描いた人が、見たいものだけ塗ってる絵だねー」
「見たいものだけ、か。ずいぶん都合のいい絵本だな」
「都合がいい絵はねー、ちょっと描き足すとすぐ変な顔になるんだよー」
アンジーは笑っていたが、壁画から目を離さなかった。
その視線は、いつもの軽さを残したまま、絵の奥に隠された下描きを探っているようだった。
今度は貸出カウンターの方から、低い声がした。
「今度は図書館か。ずいぶんと悪趣味な貸出システムだな」
星竜馬が、保健室と貸出カウンターが混ざった区画から現れた。
カウンターには黒い図書カードが並び、その一枚を星が指先でつまんでいる。カードには名前の代わりに、黒い文字で役名が書かれていた。
「星、そのカードは?」
「俺の名前じゃねぇ。癒やしを拒む脇役、だとさ」
星はカードを裏返した。
裏面には、分類番号みたいに短い言葉が並ぶ。
回復不能。敗者。退場予定。リカバリー不可。
星は少しだけ目を細め、カードをカウンターへ置いた。破るでもなく、投げ捨てるでもなく、ただ表へ戻す。その手つきが静かすぎて、黒い文字の方が逆に騒がしく見えた。
「治せる傷と、治したくない傷を一緒にされるのは御免だな」
黒板に、また文字が浮かぶ。
星竜馬:癒やしを拒む脇役。
役割、登録。
「脇役で結構だが、退場時刻まで書かれる覚えはねぇよ」
三人の名前が、それぞれ役名に変えられていく。
そのたびに、図書館の空気が少しずつ重くなった。本の背表紙がこちらを見ている。黒板が瞬きしている。図書カードが、まだ書かれていない結末を待っている。
『王子様、奏でる乙女、祝福の画家、癒やしを拒む脇役。どうか席についてください。第一幕は、もう始まっています』
「俺達を勝手に配役するな。こっちはまだ、お前の舞台に出るなんて言ってない」
『舞台に上がる意思は不要です。あなた達は既に、私の物語に記されています』
「記されたからって、その通りに動くとは限らないよ」
赤松が鍵盤を叩く。
短い和音が響き、校内放送の末尾がわずかに歪んだ。
「にゃははー、勝手に描いた絵は、描き直せるんだよー」
アンジーが壁画の端へ小さな花を描き足す。
黒く塗られたヒロインの顔の横に、場違いなくらい明るい色が浮かんだ。
「本に書かれた結末が、現実の結末になると思うなよ」
星は図書カードを指先で弾いた。
カードはカウンターの上で一回転し、リカバリー不可の文字が薄く滲む。
それでも、黒い図書館は笑っているみたいだった。
本棚の奥で、一冊の黒い恋愛小説がひとりでに開く。ページに描かれていたのは、俺の姿をした王子と、黒く塗り潰されたヒロイン。そしてページの端には、見覚えのある黒い紋様が浮かんでいた。
カタストロム。
その名前を認識した瞬間、胸の奥で黒い鼓動が一度だけ鳴った。
痛みではない。けれど、心臓の裏側を黒い爪で撫でられたような感触があった。足元に黒い波紋が広がり、図書館の床に一瞬だけ、別の悪夢の影が重なる。
「カタストロム……?」
ページの文章が、ひとりでに書き足される。
王子様は、壊れることで完成する。
黒い夢の鼓動は、愛の道標。
カタストロム、開花記録。
「万津、今の顔、絵本の王子様よりずっと変だよー」
アンジーの声で、俺はページから目を離した。
星が黒い本を見下ろし、帽子のつばをわずかに下げる。
「こいつはただの招待じゃねぇな。罠の続きを読ませてる」
校内放送が、柔らかく息を吸うように鳴った。
『カタストロム。ああ、その名前を忘れていなかったのですね』
「お前が、あれに関わっているのか」
黒板に文字が滲む。
誕生。罠。観測。導き。
『私はあなたを壊したのではありません。あなたを、この物語へ導いたのです』
その言葉が、図書館の天井から降ってくる。
優しく包むふりをして、首元に栞を差し込んでくるような声だった。
「導いたなんて言い方、勝手すぎるよ」
赤松の指が鍵盤を強く叩いた。
音が少し乱れ、放送の甘い響きへ細いひびを入れる。
「壊した側が導いたと言い換えるのは、加害者の好きそうな理屈だな」
星はカードから目を逸らさずに言った。
短い台詞なのに、カウンターの上の黒い文字が一瞬だけ固まった。
「神さまはねー、そういうのを愛って呼ばないって言ってるよー」
アンジーが壁画の黒いヒロインへ、白い目を描き足した。
塗り潰されていた顔に、こちらを見返す小さな視線が生まれる。
その瞬間、図書館の奥に演劇部の舞台みたいな扉が現れた。
扉の上には黒板があり、そこへ大きな文字が書き込まれていく。
第一幕、王子様の登校。
第二幕、言葉の学園。
第三幕、役名固定。
終幕、カタストロム。
「終幕にカタストロムって、最初からそこへ誘導するつもりか」
『あなたはいつか、その力を選びます。だって私は、あなたがそこへ辿り着くように物語を編んだのですから』
「だったら、その物語ごと破る。俺はお前の王子じゃない」
俺がそう言うと、図書館中のページが一斉にめくれた。
紙の音は拍手にも、笑い声にも聞こえた。黒いインクが扉の隙間から滲み、床の上に細い道を作る。
『ようこそ、私の王子様。どうか最後のページまで、私を見つめてください』
俺は返事をしなかった。
赤松が俺の横に並び、ピアノの鍵盤から離した指を軽く握る。アンジーは壁画に描き足した小さな目へ笑いかけ、星は図書カードをポケットへ入れず、カウンターへ残したまま歩き出した。
黒い扉の向こうから、甘いインクの匂いが流れてくる。
胸の奥では、カタストロムの黒い鼓動がまだ余韻を残していた。けれど、その音に俺だけが引っ張られているわけじゃない。赤松の短い和音が横から重なり、アンジーの描いた小さな白い目が背中を見ていて、星が置いていったカードが黒い役名を拒むようにカウンターの上で光っている。
誰かが決めた物語の入口で、俺は自分の名前を確かめるように息を吐いた。
「行くぞ。第一幕だろうが終幕だろうが、勝手に最後のページは書かせない」
黒い扉が開く。
その先で、校内放送がまた甘く笑った。