ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
黒い扉を越えた先で、図書館は校舎の形をしていた。
床は磨かれた廊下なのに、左右には天井まで届く本棚が並んでいる。教室の引き戸には図書分類番号が振られ、黒板の上には校訓の代わりに章題が貼られていた。窓の外は夕焼けでも夜でもなく、ページの裏側みたいな乳白色で、めくられるたびに遠くの校庭が別の文章へ変わる。
ここには風がない。
なのにページだけが勝手にめくれ、紙の音が廊下の奥で靴音みたいに続いている。
「図書館の次は学園か。文部省って名前に、律儀すぎるくらい寄せてきたな」
俺がぼやくと、赤松は本棚の角に置かれた机を見つめていた。
机の上には誰もいないのに、鉛筆が小さく転がっている。転がる間隔が妙に規則正しくて、カツ、カツ、カツ、と廊下の奥の放送に合わせて鳴っていた。
「万津君、あの音に合わせて歩かないで。たぶん、歩幅を決められてる」
「歩幅まで管理される学園生活、校則が厳しいにも限度があるだろ」
「冗談で済めばいいんだけど、足が勝手に拍子を拾いそうになるの」
赤松は指先を机へ置き、鉛筆が転がる直前に軽く一拍ずらして叩いた。
その瞬間、廊下の奥に浮かんだ黒い文字がわずかに滲む。俺の足元へ絡みつきかけていたインクの筋が、靴底から離れて床へ戻った。
「今ので剥がれた。やっぱり音に弱いのか」
「弱いというより、言葉が拍子に乗ってるんだと思う。拍子が崩れれば、言葉も少しだけ転ぶ」
「転ぶ言葉って、赤松らしい言い方だな」
「ピアノだって、転びそうな音を支えるのが大事だからね」
赤松がそう言った直後、黒板にインクが染み出した。
そこにはチョークの粉ではなく、濡れた墨みたいな文字が浮かぶ。
王子様は廊下を進む。
奏でる乙女は旋律を奏でる。
祝福の画家は正しい挿絵を描く。
癒やしを拒む脇役は退場口へ向かう。
文章が完成した瞬間、本棚が壁のようにせり出した。
廊下が折れ曲がり、俺達の進路をひとつに絞っていく。床には黒い矢印が現れ、俺の足を「王子様の登校ルート」と書かれた道へ誘導した。
「勝手に進路指導するな!」
俺は横へ跳んだ。
けれど床が本のページのように折れ、俺の着地点を廊下の中央へ戻す。黒い文字が靴に絡みつき、まるで台本のト書きが足首を掴んでいるようだった。
『王子様、どうか迷わないでください。登校の場面で道に迷う王子様など、読者が困ってしまいます』
校内放送が甘く響く。
声は耳に触れる前から、頭の中に栞を挟んでくる。聞いているのではなく、読まされているような声だった。
「読者の心配より、本人の許可を取れよ」
『本人の許可より、物語の整合性が優先されます。あなたは、私の物語に必要な王子様ですから』
「俺は必要な役じゃなくて、ここに巻き込まれた万津だ」
そう言った瞬間、黒板の「王子様」という文字が濃くなり、万津という名前が床のインクに沈みかけた。
赤松が机を叩く。今度は二拍、わざと不揃いに。
タッ、タン。
黒板の文字が揺れ、沈みかけた俺の名前が一瞬だけ浮かび直す。
赤松は息を整えるように指を開き、もう一度机へ置いた。
「万津君、名前が沈む前に言い返して。こっちは拍子をずらす」
「分かった。じゃあ、遠慮なく言う」
俺は靴に絡んだ文字を蹴り払い、黒板へ向かって声を張った。
「黒四館、王子様って呼び方で俺を縛るなら、その呼び方から間違ってる。俺は万津だ」
黒い文字が弾ける。
床に広がったインクが少しだけ後退し、折れ曲がっていた廊下が元の形へ戻った。
その横で、アンジーが壁の挿絵を覗き込んでいた。
壁には、俺が王子として赤松達を導く絵が描かれている。俺はあり得ないくらい立派なマントを着せられ、赤松はピアノの前で微笑まされ、アンジーは花を撒くように描かれ、星は廊下の奥の黒い扉へ背中を向けていた。
「にゃははー、この絵、ぜんぜん似てないねー。万津の顔が、都合よくキラキラしすぎてるよー」
「そこは俺も同意したいけど、今はもっと大事なところを見てくれ」
「見てるよー。ほら、星の足元だけ影が濃いんだよー」
アンジーが指差した先で、挿絵の星の足元に描かれた黒い影が現実の床へ滲み出す。
同時に、廊下の奥に退場口と書かれた扉が開いた。星の近くに置かれていた貸出カードがひとりでに滑り出し、カードの端から黒い紐のような文字が伸びる。
癒やしを拒む脇役。
退場予定。
リカバリー不可。
星はカードを見下ろし、帽子のつばを少しだけ下げた。
黒い紐が足元へ絡みつく前に、彼は片足でカードを踏み止める。
「退場口ね。随分と親切な案内じゃねぇか」
「星、引っ張られるぞ!」
「慌てるな。こういうのは、引かれる方向を見るより、引いてる文字を見る方が早い」
星は床へ沈み込むように重心を落とし、カードの端を指で押さえた。
黒い紐は彼を扉へ引こうとしていたが、星が押さえた文字の上だけインクが濃く溜まっている。
「治せないって書いたやつが、治す気があったかどうかは別問題だろ」
星の親指が「リカバリー不可」の文字を隠す。
その瞬間、黒い紐の力がわずかに弱まった。文字が意味を失ったのではない。ただ、星がその言葉を自分の全部として受け取らなかっただけで、紐の形が少し崩れた。
「竜馬のカード、まだ変えられるねー」
アンジーが壁の挿絵へ白い線を描き足す。
王子の隣ではなく、退場口へ続くはずだった廊下の横に、別の小さな道が生まれた。白い線は落書きみたいに幼いのに、現実の床では黒い扉の輪郭を歪ませる力を持っていた。
「アンジー、今の描き足しで扉が歪んだ!」
「神さまはねー、勝手な結末には余白を描けばいいって言ってるよー」
「その神さま、今はかなり頼れるな」
「今だけじゃないよー。神さまはいつも頼れるのだー」
アンジーは笑いながら、挿絵の王子のマントへ変な模様を描き足した。
そのせいで壁画の俺は、妙に派手な模様つきのマントを着せられ、黒四館の整った恋愛劇の雰囲気がほんの少し間抜けになる。
『祝福の画家。挿絵を乱さないでください。絵は物語の構図を固定するためにあります』
「違うよー。絵はね、見えなかったものを描くためにあるんだよー」
アンジーの言葉に、赤松が机を叩く音を重ねた。
机、椅子、ピアノの鍵盤、本棚の背表紙。赤松は身近なものを次々と叩き、放送の拍子をずらしていく。黒板の文章は現実になろうとするたび、一拍遅れて床へ落ちた。
『奏でる乙女。役割に従い、王子様のために旋律を奏でなさい』
「私は誰かのためだけに弾くんじゃない。並んで歩くために、音を置くの」
赤松は本棚の間にあった古いピアノへ駆け寄り、短い旋律を弾いた。
旋律は派手ではなかった。けれど、歩幅を揃えようとしていた放送のリズムから、俺達の足音を少しずつ外していく。黒い文字が鎖のように伸びても、その輪は音に触れるたび緩んだ。
俺は緩んだ文字を踏み越え、星へ伸びていた退場口の紐を掴んだ。
「黒四館、仲間を勝手に退場予定にするな」
『王子様は、脇役の退場に涙し、それでも物語の中央へ進むものです』
「残念だけど、俺は涙を演出に使われる趣味はない」
俺は黒い紐を引き千切ろうと力を込めた。
けれど紐は切れず、逆に俺の腕へ「王子様は救済する」と文字を刻もうとする。星が横から短く息を吐き、カードを俺の腕へ押し当てた。
「救済なんて大きな言葉を背負わされる前に、まず手を離せ。文字に噛まれるぞ」
「助けようとして噛まれるとか、かなり情けないな」
「情けないやつほど、大きな役名を着せられやすい」
星がカードをずらすと、俺の腕に絡んでいた文字がカードの方へ移った。
カードの上で「救済」と「退場」がぶつかり、インクがぐちゃりと滲む。星はその黒い滲みを見て、口元だけを少し動かした。
「ほらな。あいつの言葉は、綺麗に見えても混ぜれば汚れる」
「星、今のかなり辛辣だけど助かった」
「辛辣じゃねぇ。分類だ」
「その分類は黒四館より信用できそうだねー」
アンジーが横から言い、赤松が小さく笑う。
黒い学園の中で、短い笑い声が教室の窓に反射した。黒四館の整えた拍子ではない、少しずれた、俺達の声だった。
その声を嫌うように、黒板の文字が大きく変わる。
第二幕、言葉の学園。
校舎全体に黒い文字が広がり、窓ガラスへ俺を王子として描くページが映る。俺の胸の奥で、カタストロムの黒い鼓動が一度だけ鳴った。前より近い。ページの向こうから、誰かがその音に合わせて指揮をしているようだった。
赤松のピアノが、そこへ一音だけ重なった。
黒い鼓動に白い鍵盤の音が触れ、胸の奥で鳴っていたものがわずかにずれる。俺は息を吐き、黒板を睨んだ。
『王子様、言葉は人を縛る鎖ではありません。正しい物語へ導く、やさしい手なのです』
黒板から、巨大な文字の手が伸びた。
手は俺を物語の中央へ戻そうとし、指の一本一本に「役割」「登校」「救済」「終幕」「カタストロム」と書かれている。触れられたら、その言葉の通りに歩かされると肌で分かった。
俺は一歩下がりかけた。
すぐ横で、赤松が机を叩く。アンジーが壁に新しい道を描く。星がカードを閉じる。三つの小さな音と線と仕草が、黒い手の輪郭にひびを入れた。
俺はその隙に前へ出て、黒い文字の手を拳で振り払った。
「手っていうなら、相手の名前くらいちゃんと呼べ」
黒い指が砕け、インクの雨になって床へ落ちる。
雨みたいなインクは、廊下に小さな黒い染みを作った。そこにはまだ物語の匂いが残っている。けれど、さっきまでのように足を縛る力は弱まっていた。
『名前。名前ですか。ああ、王子様はまだ、その小さな呼び名に拘るのですね』
「小さいかどうかは、お前が決めることじゃない」
俺の言葉の後、黒板に新しい章題が浮かんだ。
第三幕、役名固定。
赤松がピアノから手を離し、アンジーが描き足した白い線を見上げ、星が貸出カードの端を指で押さえ直す。三人の役名はまだ黒板に残っている。けれど、その下に本来の名前が薄く浮かび戻っていた。
黒四館の校内放送が、甘く息を吸う。
『では次に、名前がどれほど脆いものか、確かめましょう』
廊下の奥で、黒い扉が開いた。
そこから流れてきたインクの匂いは、さっきより濃い。黒四館は、俺達が名前にしがみついたことを、次の罠へ書き込んだのだろう。
俺は黒板に浮かぶ自分の名前を一度だけ見てから、赤松達へ振り返った。
「次は、役名をもっと強く押しつけてくる」
「なら、もっと強くずらすよ。言葉の拍子がある限り、音は入れる」
「にゃははー、塗り潰すなら、こっちはもっと描き足すだけだねー」
「退場予定って文字を、こっちから返却してやるか」
星がカードを軽く掲げた。
その仕草が妙に落ち着いていて、俺は少しだけ口元が緩むのを感じた。
黒い扉の向こうで、ページがめくられる。
次の章には、俺達の名前がまだ残っている。薄くても、消えてはいない。
だったら、進める。
誰かに書かれた役名ではなく、自分達の名前を抱えたまま。