ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
光が弾けた。
ドンッ!
背中から屋上のコンクリートへ叩きつけられる衝撃が、背骨を走って脳髄を揺さぶった。痛い。だが、それは確かに「現実」の痛みだった。夢の中の感覚とは違う、鈍くて重い、生きた痛みだ。
「ぐっ…!」
俺は喘ぎながら身体を起こす。視界がまだ白い。虹色の残像が目に焼き付いていて、周りがよく見えない。ただ、肌を刺すような冷たい風だけが、ここが屋上であることを告げていた。
深く息を吸い込む。
「ッ…!」
肺が痛い。冷たい空気と一緒に、何か重くて粘ついたものが喉の奥へ張り付くような感覚。ソムニウムの無機質で清潔な空気とはまるで違う。これは、現実の、それも汚染された空気だ。
隣で、ズズッと血を吐くような音がした。
「教祖!」
振り返ると、教祖が片膝をついていた。右肩の傷口からは、いまだ鮮血が溢れ出している。彼は左手で時雨の身体を支えながら、血に濡れた右腕を押さえていた。その腕は、見ているだけで痛くなるほど激しく震えている。
「大丈夫…です」
教祖の声は、かすれていた。
俺は時雨の身体を受け取る。彼女はまだ意識がない。紫のタートルネックは汗と塵で汚れ、その軽い身体はまるで抜け殻のようだった。俺は彼女を屋上の給水塔の陰へと横たえた。
「万津くん…あれ…」
最原の声が震えている。帽子のつばを強く握りしめ、彼は欄干の方へと後ずさりしていた。
目が慣れてくる。
白い霧が晴れていく。だが、その下から見えたのは希望ヶ峰学園の日常の風景ではなかった。
空が、おかしい。
夕闇どころか、夜でもない。紫と赤が混ざった、目に痛いような不気味な色が空全体を覆っている。まるで、誰かがキャンバスの上に絵の具を殴りつけたかのように、空の色がギタギタと歪んでいた。
それだけじゃない。
校舎の影が伸びている。物理的に伸びている。まるで影自体が生き物のようにうねうねと蠢き、屋上の壁を這い上がろうとしている。視界の端で、建物の角がドロリと溶けたように見えたのは気のせいじゃない。
(なんだよこれ…夢から出られたはずなのに…!)
そして、音だ。
ヒュオオオオ…と風が鳴る中に、混じっている。
グルグルグル…
ガシャン、ガシャン、ガシャン…
下方から聞こえるのは、人々の呻き声と、機械的な足音だ。それはただの悲鳴じゃない。深層心理から絞り出されたような、無意識の獣の唸り声。それが何百、何千と重なり合い、うねりとなって屋上まで押し寄せてくる。
「あれ…見てください」
最原が欄干の向こうを指差す。
俺は恐る恐る下を覗き込んだ。
学園の中庭に、人だかりがあった。だが、そこにいるのはもう人間じゃなかった。パワードスーツを着た兵士たちが、同じリズムで首を振っている。まるで糸で操られた人形のように、一斉に同じ方向へ足を踏み出す。その目は虚ろで、口からは意味をなさない言葉の羅列が溢れ出していた。
TC-PERGE。
ウイルスが人々の意識を暴走させている。それは個人の狂気にとどまらず、空間そのものを侵食し、現実を書き換えようとしている。
(現実が、悪夢に食われてる…)
俺は拳を握りしめた。
ソムニウムの悪夢を終わらせたはずなのに、目の前の現実はそれ以上に異様な光景を晒していた。空気は重く、息をするだけで胸が締め付けられる。景色は揺らぎ、自分が立っているのか浮いているのかさえ分からなくなる。
戦いは、終わっていなかった。
いや、ここからが本当の悪夢なのかもしれない。
「うわっ…!」
最原が悲鳴を上げ、慌てて後ずさった。
俺たちの目の前の空気が、プツリと裂けた。そこから滲み出してきたのは、見覚えのある二人の天使だった。
だが、その姿は以前とはあまりにも違っていた。
ヒメルの金髪は、まるでテレビの砂嵐のようにチカチカと明滅している。フードの輪郭が定まらず、背後の給水塔が透けて見えた。彼女の身体は半透明で、風に吹かれれば今にも散ってしまいそうだった。
「あたし…あたしたち、どうなっちゃうのよ…!」
ヒメルの声が高い。だがそれはいつもの威勢の良さとは違う。パニックに陥った子供のような、悲鳴に近い金切り声だった。
「万津! あんた何してくれたのよ! あたしたちが消えちゃうじゃない!」
彼女は俺に掴みかかろうとしたが、その手は俺の装甲をすり抜け、虚しく空を切った。触れられない。彼女たちはもう、この世界にしっかりと根を張れていないのだ。
「ヒメル、落ち着きなさい」
ミコトルの声が響く。彼もまた、スーツのラインがノイズ混じりに歪み、頭上の輪がフワフワと不安定に浮遊していた。彼は必死に平静を装っていたが、その声には隠しきれない焦りが滲んでいる。
「しかし…これは想定を超えています。夢現の核が砕かれたことで、我々の存在基盤である『白昼夢の理』が崩壊しつつある」
「どういうことだ」
俺は問い詰める。目の前で消えかけている彼らを見るのは、決して痛快なものではなかった。
「見ての通りです」
ミコトルは唇を噛み、眼下に広がる惨状へ視線を落とした。それに呼応するように、屋上のコンクリートがミシミシと不気味な音を立てた。
「TC-PERGEは単なるウイルスではありません。感染者の脳波を強制的にリンクさせ、現実を上書きするためのプログラムです。彼らの暴走した意識が同調し、この世界をあるべき姿へとねじ曲げようとしている」
「あるべき姿って、あれかよ!」
俺は欄干の外を指差す。うねる影、溶ける建物、空を見上げるとぐにゃりと曲がった月までが落ちてきそうだった。
「ええ。地獄でしょうね。だが、本来ならここまで歪みは進まないはずだった」
ミコトルが俺を睨みつけた。その瞳の光が、パッと強くなり、また弱くなる。
「我々が制御していたのです。人々の意識が暴走しても、夢現の力で『白昼夢』という枠に収め、崩壊を防いでいた。しかし今、その楔が抜けた」
「じゃあ、お前らが消えるってことは…」
「世界の崩壊が止まらないということよ!」
ヒメルが叫ぶ。その声と同時に、足元の影がグネリと伸び、最原の足首へと触手のように絡みつこうとした。最原は悲鳴を上げ飛び退く。
「あたしたちが消えたら、誰もこの世界を支えられない! みんなの意識が溢れ出して、現実ごと書き換えられちゃうんだから!」
事実は、冷徹だった。
俺たちがソムニウムで夢現を倒したことは、確かにあの悪夢を終わらせた。だが同時に、現実を崩壊から守っていた最後の支えをも破壊してしまったのだ。
「そんな…じゃあ、どうすれば…」
最原が震える声で呟く。
ミコトルは答えなかった。ただ、自身の手が風化するように粒子となって散っていくのを、黙って見つめているだけだった。
夢現の消滅が、現実の崩壊を引き起こす。
俺たちは、とんでもないパンドラの箱を開けてしまったらしい。
「くそっ…!」
俺は手を伸ばした。ヒメルの肩を掴もうとして、指が空を切る。触れられない。さっきよりさらに輪郭が薄くなっている。金髪の輝きは砂嵐のように明滅し、フードの形を保つことすらできなくなっていた。
「おい、しっかりしろ! 消えるなよ!」
「触んないでよ…バカ…」
ヒメルが呟く。いつもの威勢の良さはもうない。声が途切れ途切れで、まるで壊れかけのラジオみたいだ。
「あたしたち…もう無理…なの…」
「ヒメル」
ミコトルが嗜めるが、彼の声にもノイズが混じり始めていた。スーツのラインがバグったように歪み、頭上の輪がふらふらと揺れている。
「正直に言いなさい。嘘をつく時間はもうありません」
ヒメルは唇を噛み、ミコトルは静かに目を閉じた。
その時、血に濡れた手が伸びた。
教祖だ。
彼は右肩の傷を押さえながら、左手をミコトルの肩へ向けた。触れられない。それは分かっている。だが教祖は止めなかった。見えない肩に触れようとするその虚ろな動作は、酷く痛々しかった。
「あなた方は、ただの機能ではありませんね」
教祖の声が静かに響く。
「最初はそうでした。人類存続のために送り込まれたプログラム。感情を持たない道具。ですが今のあなた方は、道具の言葉を超えている」
ミコトルが目を開いた。揺らぐ瞳の中で、わずかに光が強くなる。
「…私たちが零さんを、万津くんを導いたのは任務だからです。ですが、任務以外の言葉を、私たちは何度も口にしました」
「そうだね…ミコトル」
ヒメルが弱々しく笑う。
「あたし…任務とか関係なく、万津のことムカついてたし…あんたのこと、嫌いじゃなかったし…」
「ヒメル…」
「だから…消えるのヤダよ…! まだ言いたいこといっぱいあるのに…!」
彼女の声が裏返る。叫ぼうとした声は、しかし砂嵐に飲み込まれて霞んだ。身体の端から光の粒子がこぼれ落ち、風に散っていく。
俺は拳を握りしめた。何もできない。力があるのに、仲間を守る力があるはずなのに、目の前で消えゆく存在を救うことができない。この無力感は、今まで味わったどんな痛みよりも重かった。
「万津くん」
ミコトルが俺を呼ぶ。その声は、驚くほど穏やかだった。
「我々の消滅は避けられません。ですが、消える前にあなたに託したいものがあります」
「託すって…何をだ」
「人類の存続。それが我々の任務であり、意志です」
ミコトルは真っ直ぐに俺を見据えた。その瞳はもう揺れていない。
「我々が止めようとしていた崩壊は、これから加速します。だが、あなたなら止められる。あなたの中にある力、それが鍵です」
「でも…どうやって…」
「教祖様」
ミコトルの視線が教祖へ向く。
「あなたの悪夢は、人の意志に干渉する力です。それを、今の万津くんに一時的にでも繋げられませんか。我々が消えた後、彼が人々の意識を束ねる楔となれるように」
教祖は血に濡れた手を握りしめた。
「私の悪夢を…万津君に…?」
「ええ。あなたの罪は、彼の罪と同じです。背負いきれない闇を、共に担う力。それが今の彼に必要なのです」
ヒメルが最後の力を振り絞って顔を上げた。
「あたしたちの…残ってるデータ…全部あんたにあげる…! だからお願い…この世界を…!」
彼女の身体が、大きく明滅した。もう限界だ。
俺は顔を上げた。目の前で消えゆく二人を見つめながら、俺の中で何かが固まっていく。
見捨てられない。彼らの意志を、無駄にできない。
「分かった」
俺は言った。
「お前たちの意志も、目的も、全部俺が背負う。人類の存続も、世界の崩壊も、全部ひっくるめて俺が止める」
「万津くん…!」
最原が俺の隣で息を呑む。俺は振り返らずに続けた。
「教祖、やってくれ。俺に、お前の悪夢を分けろ」
教祖は静かに目を閉じ、そして頷いた。
「分かりました。万津君。あなたがそれを望むなら」
彼は血に濡れた右手を俺の胸元へ向けた。
ミコトルとヒメルが、最後の光を放つ。
「ありがとう…万津…」
「さようなら、万津さん」
二人の声が重なり、そして光の中へ溶けていった。
「やります…!」
ミコトルの声が、割れたガラスのように響いた。
彼はヒメルの手を強く握る。いや握ろうとしていた。二人の手は既に半ば以上が光の粒子となって風に溶け出し互いに触れ合うことさえ叶わない状態だった。だが二人はその消えゆく手を必死に絡み合わせようとしていた。
「あたしたちが…時間をあげる…! だから…!」
ヒメルが叫ぶ。その声はもう言葉になっていなかった。ただ強烈な光の奔流が二人の身体から溢れ出した。
二人の身体が崩れていく。
皮膚が剥がれ落ちるのではない。ピクセルが剥離するように、あるいは古いフィルムが焼き切れるように二人の存在が世界から抹消されていく。ヒメルのフードが灰のように舞い上がり、ミコトルのスーツが音もなく崩れ落ちる。最後に残った二つの瞳だけが一瞬強く輝き、そして消えた。
光が、屋上を包み込む。
目を開けていられないほどの輝き。だがそれは暖かい光だった。二人が最後に遺した意志そのもののような温かさが全身を包み込む。
光が収まった時そこにはもう誰もいなかった。
ただ風が吹いていた。
ヒュオオオオ…
屋上の冷たい風だけが二人のいた場所を通り抜けていく。光の粒子すら残っていない。本当に何もかもが消えてしまったのだ。
静寂。
頭上の空だけが相変わらず毒々しい紫色に染まっている。
だが、下方から聞こえていたあの機械的な足音や呻き声が止んでいた。
「止まった…のか…?」
最原が呟く。その声は震えていた。彼は欄干にしがみつき下を覗き込んでいる。暴走していた人々の影が止まっていた。うねるように伸びていた建物の影もピタリと動きを止めている。
ミコトルとヒメルが命と引き換えにした一時的な修復。世界の綻びを無理やり押し留めた猶予時間だ。
「長くは持たないでしょう」
教祖が静かに言う。彼は血に濡れた右手を胸に当て深い悲しみを湛えた眼差しを空へ向けていた。その表情は沈痛そのものだったがどこか安らぎも見えた。
「彼らがくれた時間だ。無駄にはできない」
俺は拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む痛み。これが現実だ。生きている痛みだ。
空を見上げる。夜の暗さがいつもより深く感じられた。星一つ見えない。だがその闇の中に俺たちはまだ立っている。
ミコトル。ヒメル。
あんたたちの意志は消えてない。この拳の中に確かに残ってる。
「行くぞ」
俺は言った。声が震えそうになったが噛み殺した。
「あんたたちがくれた時間で全てを終わらせる。現実も悪夢も全部ひっくるめて」
最原が帽子を目深にかぶり直し頷く。その瞳はもう揺らいではいなかった。
「ええ。僕たちが止めます」
教祖もゆっくりと頷いた。血の滴る右腕を押さえながら、しかし背筋は伸ばしていた。
「彼らの願いを叶えましょう。それが生き残った者の務めです」
俺たちは崩壊しかける現実へ再び向き合った。
戦いはまだ終わっていない。だがもう一人じゃない。彼らの意志を背負った今俺たちの前には進むべき道しかなかった。