ダンガンロンパZ 希望のライダーと悪夢のビデオ 作:ボルメテウスさん
やっと、すべてが終わった。
俺は倒れ込む直前でなんとか踏ん張った。膝が笑い、よろけて駆け寄ってきた最原に肩を抱かれ半ばもたれかかった。二人でほとんど同時にへたり込み、背中を壁に預ける。冷たいコンクリートの感触。それも今はちゃんと現実だって思えた。
「……終わった、のか?」
どこか信じられないまま空を見上げる。街も、空も、最初はまだぐらぐら揺れている。けれど紫色に染まった空気は確かに薄れ、月の歪みも消えている。遠くで誰かが泣いている。誰かが名前を呼んでいる。
「ああ……終わったみたい、だな」
最原が隣で、そう小さく呟いた。帽子のつばが朝の風に軽く揺れている。
「夢と悪夢は、似てるんだな」
不意に、最原が言った。
東の空が、白み始めている。藍色が薄れて青い光が滲む夜明けの狭間。彼は顔を上げ、ぼんやりした声でもう一度呟いた。
「人が目を閉じてる時に見るもののくせに、片方には笑顔があってもう片方には悲鳴がある。でも、どっちも覚めたら消えるんだ」
風が吹いて、街の静けさを撫でていく。遠くのサイレンも今はかえって世界の終わりを遠ざけてくれるみたいだ。
「希望と絶望も、そうかもしれないな」
俺も、なんとなく口にした。まだ体の節々は痛い。でも会話をしていたかった。何故だか急に、この空気をこの言葉を、確かめたくなった。
最原が笑った。疲れ切った、それでいて穏やかな笑みだった。
「絶望に見えたものの中に、希望の欠片があった。逆も……きっと、あるんだろうね」
隣で、教祖が少しだけ身じろぎして、夜明けを眺めている。
彼は何も言わない。俺たちの声を聞いている。それで十分だよ、と背中で言われている気がした。
東の空が、すこしずつ、赤く燃えていく。あの悪夢の空と同じ色だったのにそれが今はこんなにも、胸の底から身体を温める。
「……なあ、最原」
俺は、白み始めた世界を見ながら言った。
「希望と絶望って、表裏一体なのかもしれないな」
最原は答えずただ少しだけ、帽子を深く被り直した。その口元が微かに動いて、朝焼けに溶けた。「ええ」なのか、「そうだね」なのか、俺には分からなかった。
それでも、答えなら、もう出ていた。
朝の光が、屋上のコンクリートを白く染めて俺たちの足を照らす。
終わった。
終わったのに世界は、これから始まる。
夢を見ていた朝のことを、俺たちはきっと忘れない。
「希望と絶望は、表裏一体」
教祖が静かに口を開いた。
その声は、夜明けの冷たい空気に溶け込むように澄んでいた。彼は東の空を見つめたまま、ゆっくりと続ける。
「絶望なくして希望は生まれません。闇が深いからこそ、光は輝く。悪夢にうなされたからこそ、目覚めた時の安らぎを知る。それは冷徹な真理です」
俺は拳を握りしめた。
反発が胸の奥で渦巻く。そんなはずはない。希望は希望として存在する。絶望なんかなくたって人は前を向けるはずだ。
だが、言葉が出ない。
これまでの戦いで見てきたものが、俺の喉を塞いでいた。
まんじの苦悩。時雨の孤独。ミコトルとヒメルの最期。そして、あの下で暴走していた人々の痛み。どれもこれも、絶望の果てに必死に何かを掴もうとしていた姿だった。
「教祖……それは、あんたの教義なのか」
「ええ。終天教が説く終末の祝福も、その理に従っています」
教祖は振り返らない。朝焼けが彼の傷ついた右肩を赤く染めていた。血の色と光の色が混ざり合い、痛々しくも神々しいコントラストを描いている。
「人類は終わりを知るからこそ、今を生きようとする。絶望という確定した未来があるからこそ、希望という不確かな現在を懸命に燃やすのです」
「それは……」
最原が口を開きかけて、言葉に詰まる。帽子のつばを強く握りしめ、眉間に深い皺を刻んでいた。探偵としての理性が教祖の論理の正しさを認めつつも、人間としての感情がそれを拒んでいる。その苦悩がありありと見て取れた。
「……確かに、今夜僕たちは悪夢の深さを知りました。絶望の底まで落ちたからこそ、這い上がる力を信じられた。それは否定できません」
最原の声が震える。
「でも、それを認めることは、絶望を肯定することになるんじゃないですか」
「違います」
教祖は首を横に振った。
「肯定も否定もありません。ただ、そこにあるのです。夢と悪夢が隣り合わせであるように。希望と絶望は不可分なのです」
夜明けの光が俺の装甲を照らす。
虹色に変化していたはずの表面は、朝日を受けてただの白銀に戻っていた。だがその奥には、確かに人々の想いが宿っている。痛みも悲しみも怒りも、全部ひっくるめて。
「……分かるよ、教祖」
俺は拳を開いた。
掌には爪が食い込んだ跡が残っていた。
「あんたの言う通りかもしれない。希望と絶望は切り離せない。俺たちが戦ってきたのも、結局は自分の中の絶望と向き合うことだったんだろうな」
教祖が初めてこちらを向いた。
その瞳には、教義を説く冷徹さだけでなく、どこか寂しげな光が宿っていた。
「ならば、万津君。あなたはこれからどう生きますか。絶望を内包したまま、それでも希望を信じると言いますか」
「ああ」
俺は頷いた。
「絶望がなきゃ希望もないなら、両方背負っていくしかないだろ。悪夢を見たからこそ、いい夢を見られる。そういう風に生きていくしかねぇよ」
朝日が、全部を照らしていた。
紫に歪んでいた空はもうどこにもない。薄い青が広がってその下で街がまた少しずつ音を取り戻していく。サイレンの音、遠くの鳥の声風に揺れる木々の葉擦れ。どれもこれも当たり前の朝の音だ。その当たり前が、やけに眩しかった。
「それでも、だ」
俺は立ち上がった。体中が軋む。装甲の下で、結局、生身の身体が派手に傷んでいた。痛い。痛むからこそここが現実だって嫌でも分かる。
「悪夢がなかったら、いい夢のありがたみなんて分からない。だったら俺は悪魔と手ぇ繋いだままでも、朝日に向かって歩くよ。背負って抱えて、受け止めて。それで初めてこの世界を『自分の現実』って呼べるんだろ」
最原が、ゆっくりうなずいた。帽子のつばを両手で持ち深くかぶり直す。その指先が一瞬だけ朝日に透ける。決意の仕草だった。
「残酷な真実の中にしか、本当の希望はないのかもしれないね」
彼は顔を上げた。青空を映した瞳が、まっすぐ前を向いている。
「現実を嘘で上書きして楽になることと、現実ごと抱えて進むこと。その差を僕たちはあの悪夢の中で思い知った。だったら、選ぶ道は一つしかないよ」
俺も頷いた。言葉はいらなかった。
教祖が、朝日を背にこちらを見ていた。傷だらけの身体を無理やり起こしそれでも背筋を伸ばして立っている。眩しさに目を細めることもなく、ただ静かに笑っていた。あの柔らかな教祖としての微笑みだ。
「現実という泥の中で、それでも足掻くことの尊さか」
彼の声は、朝の空気によく溶けた。
「ならば、終末の先にあるものも、捨てたものではありませんね」
「何だよ、それ」
「あなたたちを見ていると、そう思えるのですよ」
教祖はそう言って、ゆっくりと空を見上げた。朝焼けはもう過ぎ去り澄んだ光が屋上のすべてを隈なく照らしている。
三人、並んで朝を眺めた。
現実を生きる。それだけできっと十分に「希望の夢」なのだと、俺はその時ようやく腑に落ちた。
朝が来た。
雲の切れ間から差し込む光が屋上のコンクリートを白く染めていく。街から聞こえる音が、少しずついつもの日常の輪郭を取り戻していた。遠くの踏切の音どこかの犬の遠吠え、朝一番の自転車が坂を下る音。全部生きてる音だ。
「私はこれで行きます」
教祖が、ぽつりと言った。
振り返った彼の横顔は朝日に照らされていた。傷ついた身体のまま、けれど不思議なくらいに凪いだ表情で彼はじっと俺たちを見つめている。その目の奥に、怒りも悲しみもなかった。ただ穏やかな凪だけが広がっていた。
「終天教団の役目は、終末を恐れる人々の心を慰めその安らぎとともに終焉を受け入れることでした。けれど、今の世界はまだ終わるべき時ではないようです。あなたたちを見ていればそれがよく分かる」
「教祖…」
「それでも、見届けなければならないものがあるのです」
教祖は少しだけ笑った。あのすべてを包み込むような、教祖としての微笑みだった。
「私は人々の終わりを見守り続けます。終末が来るのならその瞬間まで、来ないのならそれが本当に世界から消えるまで。それが私の歩む道でありあなたたちと違えた道です」
風が吹いた。
カーテンのような薄い雲が、朝日を散らしていく。教祖の輪郭が光に溶ける。
「待ってくれよ」
声が出た。でも引き留めちやいけない。理屈じゃなく、胸の奥がそう言ってる。
俺は踏み出しかけた足を止め、拳を握った。
「…勝手だな。あんたはいつもそうだ。ぜんぶ分かった顔して、一人で先に行く」
「ええ。私の悪い癖です」
「けど、約束しろよ。まだ会う気があるなら次はちゃんと話をしろ。教義の話でも何でもいい。だが、勝手にいなくなるな」
教祖は、ふと目を細めた。
日差しが柔らかくて、屋上に二人分の影が伸びている。教祖の影だけがやけに遠く薄い。
「ええ、約束します。私はもう二度とあなたたちの前から一方的には消えません」
そう言い残して、彼は背を向けた。
去り際、血に汚れた右腕をそっと胸に当て俺たちに軽く会釈をした。
一歩、また一歩と、教祖の背中が朝の光の中へと遠ざかっていく。
まるで光の粒が散っていくみたいに、足音だけを残して彼の姿はやがて見えなくなった。
「…行っちゃったね」
最原が、隣で呟いた。寂しさを隠すように帽子の位置を何度も直している。
「ああ」
俺は、その消えた方角をしばらく見つめていた。心のどこかにぽかりと穴が空いたような気がする。でもそれが埋まらないからこそ俺はまた歩き出せる。
「帰ろう、最原」
「うん。…朝ごはん、何か食べたい気分だ」
「お前、そういうとこあるよな」
「今それ言う?」
小さく笑いながら、俺たちは屋上を後にする。
扉の向こうから本当の日常が待っていた。怖いくらいに、いつも通りの朝が。
俺たちは光の中へ歩き出した。