永遠にも思えるほどの長いバイトの時間が終わった。ずっと立ちっぱなしで疲れた。早く帰ろう。
制服を脱ぎ、私は喫茶店を出る。
すると、そこには……。
「お疲れ、命ちゃん」
いた。屈託のない笑顔を私に向ける彼が。はっきりとお前のことは知らないと伝えたはずなのに、まさか、私に過去の記憶がないことを知らないのか。
あぁ、だとしたら滑稽だな。
お前の知ってる白銀命は、一年半前にもう死んだんだよ。
「よかったら一緒に帰──」
「やめてください。というか何なんですかさっきから。あなたのことは知らないって言いましたよね? これ以上つきまとわないでください」
私は過去なんて要らない。知りたくない。だからもうついてこないでくれ。
「待っ……!」
そう思って横をすり抜けようとすれば、彼が私の左腕を掴んだ。無理に速く歩こうとしたせいだろうか、私は体勢を崩しその場に転ぶ。
「あ、わ、悪い……強く引っ張りすぎたな。立てるか?」
彼の差し出した手を無視して杖を探す。そして見つけた。だが、どうにも私の手の届かないところまで転がってしまったようだ。
しかし、それを拾い上げる者が一人。
「大丈夫ですか? 杖、落としましたよ」
……四宮かぐや、あなたもいたのか。
何なんださっきから二人して、そんなに私に関わりたいのか? 私は、君らと関わりたくなんてないんだよ。
「命ちゃん、手を……」
だから、私は彼の手を振り払って言った。
「
ムカつく、苛つく、腹立たしいんだよ。まるで『そんなことを言われるとは思ってなかった』と言わんばかりのその表情、ボクが知らないボクに向けるその顔が。
さっきもそうだ。お前は白銀命が腕を引っ張ったくらいで転ぶと思ってなかったんだろう? 驚いてたもんな。
お前が知ってる、五体満足で健康な白銀命ならば、転んでなんてなかったろうよ。
「杖、返してください」
だから嫌だったんだ。自分の過去を知ることは。
比較という行為は、いつだって優劣を決めてしまう。
こんな体になる前のことを知ってしまえば、今のボクは惨めに思うしかないじゃないか。それが予想できていたから、自分の書いた日記だって読まなかったのに。
この先ずっと過去と今を比較し続けて、惨めに生きる人生など……
「さようなら」
だからもうこれ以上、私に近づいてこないでくれ。これ以上、私と過去を比較しないでくれ。これ以上、私を惨めにさせないでくれ。
二人が何かを言おうと口を開く。
聞きたくない、耳でも塞いでやろうかと思ったその時、私に救いの手がやってきた。
「白銀様、お迎えにあがりました」
「ありがとうございます、黒服さん。すいません、突然呼び出してしまって」
「いえ。我々も黄光様より白銀様のお世話をするよう命じられておりますので」
「監視の間違いでしょう。まぁ、今回は助かりました」
黒服……四宮本家の者たちだ。彼らは黄光さんの手の者であるが、一緒にアメリカに行ったメンバーとは個人的に仲が良い。バイト中に迎えに呼んでおいて正解だった。
「命……さん。どうしてあなたが……四宮家の……?」
四宮かぐやがそう問いかけてくる。
彼女は事故のことなんて知らないのだろう。どちらかと言えば彼女は雲鷹派閥、反主流派の人間だ。黄光さんとは敵対している。
さて、どう誤魔化したものか……。
あぁ、もうめんどくさいな。今日はもう会話なんてしたくないんだよ。
目線で黒服さんへと合図を送る。私の代わりに、適当に相手してくれ。
「お久しぶりでございますね。かぐやお嬢様。以前本邸でお会いして以来でしょうか」
「……っ」
「白銀命様につきましては我々の貴重なビジネスパートナーでございますので、無用な詮索はご遠慮願います」
「ビジネス、パートナー……ですって?」
ビジネスパートナー、私と黄光さんの関係を形容するにはそれが一番丸いか。一応探られた時のためにカバーストーリーは用意してあるけれど、今回は使わなくて済みそうだ。
「かぐやお嬢様こそ、そちらの男性はどなたですか? 随分と親しいようですが、そのような報告は──」
まずい、それ以上はダメだ。
「その男は秀知院学園の生徒会長ですよ。喫茶店には仕事をしにきただけです、そうですよね。四宮かぐやさん?」
「……えぇ、そうですよ」
尖り始めていた四宮かぐやの雰囲気が和らいだ。彼女にとって、恐らく彼は地雷だ。私にとっての過去と同じように。
あれ以上踏み込んだ話をしていれば不興を買っていただろう。やめてくれよ黒服さん、私は四宮かぐやと距離を取りたいだけで、何も敵対したいわけではないんだよ。対応を任せた私が悪いんだけどさ。
「もう行きましょう。車、出してください」
後部座席、運転席の後ろに乗り込みそう告げる。
「待ってくれ……っ。命ちゃん、最後に一つだけ聞かせてくれ」
ドアの外から、まだ未練がましく私に話しかけてくる白銀なにがしさん。このままだと車が出せないので、私は仕方なく窓を開けた。
「……なんです?」
「圭ちゃんと、仲直りするんじゃなかったのか……?」
……。
「誰ですか、それ」
ケイチャン? けいちゃん……人の名前だろうか。仲直りするってなんだ? 喧嘩でもしていたのか?
まぁ、もう全て覚えていないのでどうでも良いが。
答えを聞き呆然としている彼を置いて、私を乗せた車は走り出し、早坂さんの待つ私の家へと向かった。
「お帰りなさいませ、命様。お食事の用意が」
「すいません、今日はもうお風呂に入って寝たいです」
「……かしこまりました」
湯船に浸かり暖まった体を拭く。
鏡を見れば、そこには私の体があった。カーボンでできた右足、継ぎ接ぎの傷跡だらけの右半身、裂け跡のある口、暗く窪んだ右眼窩。
欠け身で、不自由、可哀想で、惨めで、哀れで、自立できない、不幸な姿。
あぁ、もう。自分の心の中がうるさい。そんなことくらい分かってるよ。鏡を睨みつけたって、無くした体は帰ってこないんだ。
はぁ……こんな風に思ってしまうのも、きっと私の過去を知る人物に会ったからだろう。今日は厄日だ、さっさと寝よう。人生はポジティブに生きなきゃ。
そうして、私はベッドの上で幻肢痛対策のマッサージをした後に眠りについた。
……夢は、脳が記憶の整理をしているときに見るという。ならばこれは、私の記憶の一部なのだろう。失った記憶の、ほんの一部。
私と同じ見た目、私と同じ仕草、だけど、私よりも成績の低い少女。そんな少女の前で、今より少し幼いくらいのまだ欠けていない私が、これまた私とよく似た大人の女性へと言った。
『圭は、ここには相応しくないと思う』
そして、夢の中の私の周りから、私に良く似た少女が消えた。
「おはようございます、早坂さん。おなかが空きました」
「おはようございま──どうしたのですか、命様。酷く目を腫らしていらっしゃいますが」
「そうなんですか? 自分ではわかりませんけど……けど何だろう、凄く、悲しい夢を見ていた気がします」
「悪いな四宮、今日はここまでだ。どうにも調べたいことができたのでな」
「奇遇ですね、会長。私も同じことを考えていました 。ここは共同戦線と行きませんか」
「「俺/私はきっと、白銀命を知らなくてはならない」」