「一年半前、私が秀知院学園に受験しに行くまさにその日のこと。私は道の真ん中で倒れ、救急車で病院に運ばれました。そして病院で受けた診断の結果は……脳腫瘍。腫瘍を切除するために手術が必要でしたが、私には多額の手術費を捻出できませんでした」
「その費用を肩代わりしてくださったのが、四宮黄光さんです」
「残念ながら、手術の後遺症で私は記憶を失い、半身に麻痺が残ってしまいました。しかし、それでも黄光さんが私の命を救ってもらったことは事実。だから黄光さんは私の、命の恩人なのです」
……と言う、カバーストーリーだ。自分で言っていて鳥肌が立つ。あのおハゲさんが私の命の恩人? 冗談だろう。今のところは共謀者未満で、よくてゲーム仲間だ。月末には本邸に行って、黄光さんジュニアたちと花札とかやってるし。
けど、これで私の記憶喪失と黄光さんとの関係を説明できる。
「あの黄光兄様が、無償で誰かを助けるはずがないわ。命さん……あなたは、いったいどんな条件で取引したの?」
「頭脳ですよ、四宮かぐやさん。記憶を失う前の、当時の私は小学生ながら全国学力テストでも上位を取り続け、高校生並みの学力を持っていたそうですから、それに目をつけたのでしょう」
私は自分の頭を指差して言った。
「四宮黄光さんには敵が多いみたいですし……それに対抗するためにも、将来性のある駒が欲しかったんじゃないですか? ねぇ、どう思います? 四宮かぐやさん」
暗に私はお前の敵だと告げてみると、彼女の顔が歪んだ。
「まさか、命さんが黄光兄様に目をつけられたのは……私のせい……?」
え、いや違うと思いますけど。そもそも四宮かぐやは黄光さんの眼中にないし。
「私が本家から逃げていなければ……命さんが黄光兄様の手に落ちることもなかった……?」
そう言って更に顔の表情を暗くしていく四宮かぐや。
おーい、変な勘違いしてますよあなた。というか仮にそうだった場合、私は黄光さんの目に留まらず死んでるんじゃ……。
「命さん、今からでも遅くはありません。あなたが四宮家に囚われていると言うなら、私があなたを連れ出してみせます!」
別に囚われてなんてないです。もしかして私が命の代償に無理やり四宮本家に従わされてると思ってる?
……あながち間違いではないな! 一歩間違えていれば殺されてたし。
これはむしろ、良い流れなのでは。このまま黄光さんに罪を被ってもらえば、事故のことに二人が気づく可能性は減る。
人は自分が見つけ出した真実が現実だと思い込む。確証バイアスってやつだな、今回はそれを利用させてもらおうか。
「あなたたちに黄光さんとの関係をとやかく言われる筋合いはありません。……それにもう、遅いんですよ」
意味深に一言付け加えてみる。イメージは囚われの少女だ。自嘲したような儚い笑みを浮かべるとなお良いだろう。ここで幸薄感を演出しておくか。
「……命さん!」
ここですかさず席を立つ。そしてそれに食いついたのは四宮かぐや……ではなく兄の方だった。
前回のことで学習したのか、無駄に手を掴む力が優しいのがムカつく。
「待ってくれ、命ちゃんはそれで良いのか。もし無理やり従わされてるなら、言ってくれ。俺と……四宮が力になる」
「仮にそうだとして、あなたに何か関係がありますか?」
「関係あるだろ。俺はお前の兄なんだぞ。妹が困ってるなら助けるのが……」
やめろ。
「……ちがう」
今更出てきて、兄貴面とか、心底煩わしい。
「命ちゃ……」
「違う……私はお前の妹の『白銀命』じゃない。その人は一年半前に死んだんだよ! ここにいるのは、よく似た別人だッ!」
あの病室には、誰も見舞いになんて来なかった。だから私には、両親も、兄も、姉妹もいないと思うことにした。
今更いると知ったところで、私が惨めになるだけだろうがよ。
「テセウスの船って知ってますよね」
ある船を修理していくと、やがてパーツがすべて置き換わった。このとき、それは元の船と同じなのか、はたまた別の新しい船なのか。
そういう思考実験、倫理問題だ。
「人間も数年でほとんどの細胞が入れ替わると言います。ですが、過去の自分と今の自分が別人だとは疑わないでしょう。それは自己の連続性、アイデンティティがあるからですよ」
脳と心臓、そして卵細胞は生まれたときから変化しない。頭と心、遺伝子。つまり、記憶と肉体が同一の個体であれば、それは一人間として連続性があると言える。
「けど、記憶を失った私にはそれがない」
記憶と肉体の構成元素が全く同じ人間のコピーが作られたとき、それはオリジナルとどう違うか議論になるだろう。スワンプマンの思考実験というやつだな。
だが、肉体が同じでも記憶が違えばそれは議論になり得るだろうか。そんなわけない。それはただの別人だ。
『我思う、故に我在り』、哲学者デカルトの言葉。
感覚器官から得るすべての情報が偽物である可能性を誰も否定できない。だが、思考する己だけは確かに存在を肯定できる、という考え方。
人は自我こそが本質だとして、そうであるならば、記憶にない過去の私は、果たして私なのだろうか。
「私は! 『白銀命』の肉体を引き継いだだけの、別人に過ぎないんだよ……ッ!」
だから、私はそう思うことにしていた。それで満足していた。そうやって過去に折り合いをつけていた。だと言うのに……。
「それは違う」
なんで、お前は私を妹として扱うんだよ。
「どうして!?」
「今の命ちゃんと、昔の命ちゃんで人格が異なるなら、一人称だって異なるはずだろう。けど、命ちゃんの一人称は前と変わっていない」
「はぁ!? そんなの誰だって『私』でしょ!」
「──昔から命ちゃんはボクっ娘だったッ!」
「え……嘘!?」
これ生来の気質だったのかよ!?
「あの日、俺が命ちゃんを転ばせてしまった日。咄嗟に命ちゃんは『ボクに触れるな』と言った。それは今も昔も変わらず、ボクっ娘であることを意味する!」
「ボクっ娘じゃないし!」
「いいや、ボクっ娘だね! ちなみに始めたきっかけは4歳のとき! 双子の姉と間違われたくないからだ!」
「そんな理由!? 覚えてないよそんなこと!」
「覚えてないからって、すべてが消えたわけじゃないだろ! ふとした時に出る、仕草とか、性格、全部同じなんだよ! 命は消えたわけじゃない、ただ、今は思い出せないだけで……お前は俺の妹なんだよ、命ちゃん」
「うっ……ううっ…!」
反論できない!
「まだ理解できないなら何度でも言ってやろう。命ちゃんは、俺の、大切な、妹だ──!!!」
「うっさい! バカ! アホ! もう分かったから黙れ!」
「……別に、ちゃんと黄光さんとは話し合ってるから無理矢理とかじゃないし。四宮グループは就職先としては大当たりだから、イヤイヤでもないから」
しばらく沈黙が続いた後に、私はそう言った。
「お、おう。そうか」
「四宮かぐやさんも、変に勘違いさせてごめん」
「かぐやで良いですよ。でも……勘違いだったのですか?」
「黄光さんとは今のところ本邸で麻雀するくらいの関係だから」
「どういうこと……???」
そういうことだ。
「……なら、良い。命ちゃんが何ともないなら、余計な心配だったかな」
そう言って兄……さんはぐったりと椅子に沈み込み、深くため息をついた。
「変な人……こんなめんどくさい妹なんて放っておけば良いのに」
「兄、だからな。またこの喫茶店にきても良いか」
「……好きにすれば」
(おぉ……今のすごく圭ちゃんっぽい。やっぱり双子なんだなぁ……)
「え、なに。急にニヤニヤして。キモいんですけど」
「(死亡)」
「か、会長。大丈夫ですか?」
だけどもう、私はこの人たちを遠ざける気分にはならなかった。
恐れていた惨めさなんて欠片も無く。まぁ……ちょっと居心地の悪さというか、恥ずかしさはあるけれど、違和感のないところに心が収まったと言うか……。
「命さん、私もよろしいでしょうか。またこの喫茶店に来ても」
「勝手にどうぞ、私はただのバイトなので。それに、デートくらい好きにすれば良いじゃないですか」
「デートではありません。違いますよ? 聞いてますか?」
「はいはい」
私のモヤモヤって記憶喪失関係なく、思春期によくあるアレだったのかもしれない……。
でも今日は、良く眠れそうだ。
「藤原書記は?」
「早坂……さんは?」
「勝手に帰ったみたいですね」