それは、偶然だった。
汚泥の巨人の掌が触れた箇所は、肉体が膨れ上がって爆発する。巨人は竜胆ウルウの顔に触れた。本来、ウルウの頭は弾けるはずだった。
しかし、そこは
至近距離からの爆発でも、頭そのものが爆弾と化すよりはマシだ。
間一髪、ウルウは一命を取り留めた。
しかし、それでも竜胆ウルウは負けるはずだった。
吊り橋から放り投げられたウルウには、ここから逆転する術など存在しない。重力に従って地面に落下するのみ。
異変があったのは、その瞬間だった。
(…………
木も、鳥も、ヒトも、空気も。
あるいはこの星すらも。
世界全てが鎖に繋がれている。
支配され、束縛され、隷属されている。
それは竜胆ウルウさえも例外ではない。
彼女を縛る鎖、鎖を縫い止める鉄球。
後付けされた足枷じゃない。
(これって、まさか────)
パキッ、と。
触れた鎖にヒビが入る。
支配、束縛、隷属。
その象徴が崩れ去る。
それが意味するのは解放、あるいは自由。
その瞬間、ウルウは世界の拘束から解放される。
世界に定められた
そう、即ち────
──
「ありえ……ない。空を、飛んでいるだと⁉︎」
ハラム=アサイラムは息を飲む。
その事実を信じられず、アナテマ=ブレイクゲートに怒鳴り立てる。
「目にしたものが真実でしょ」
「あり得る訳がないだろー! 吾輩は知っているぞ! 翼というのは体格や体重に比例した大きさが必要なのだと! あんなちっぽけな翼でっ、薄っぺらい翼で空を飛べる訳が……っ!」
「
奇蹟ではない。
祈祷術ではない。
だが、現実を非現実に塗り替える力を二人は知っている。
「────
『空を飛ぶ』魔法使い。
それこそが、竜胆ウルウの正体。
思えば、その前兆はあった。
アナテマとウルウの
上空から落ちてきたウルウは、川に着水する事で奇跡的に助かった。……本当に? 本当にあれは奇跡だったのか。
最初から、魔法は少女の手にあった。
世界で最も自由な魔法。
あらゆる束縛から解放される
「両者共に魔法使い。これで条件は五分──いや、
宙に浮く。
空を飛ぶ。
それは
どんな理屈によって空を飛んでいるのか、それはウルウにも分からない。それどころか、どうして魔法が宿ったのか、魔法を使った代償はないのか、何も分かっていない。
勝つためならば何でもする。
勝ちたい。負けたくない。そのためなら、何だって賭けられる。
『私はまだ負けてません。勝つ、勝ちます、絶対に。──たとえ、この身が
カツン、と。
竜胆ウルウは吊り橋に舞い戻る。
風にたなびく黒い髪、羽撃く蒼い蝙蝠の翼。
身に纏うは漆黒のセーラー服、光を乱反射する群青の鱗。
蒼と黒。それが入り混じった竜胆ウルウの姿は、まるで
「オ、マエ……ナンダ?」
『汚泥の巨人。私はあなたを倒す』
言葉は通じない。
その上で、汚泥の巨人から疑問が溢れた。
六本腕、畸形の
とん、とウルウはしゃがみ込んで吊り橋に触れる。
魔法の性質は、目の前の
自身の血肉を操り、新たな腕を形成した。同じように、掌を通して他者の血肉を操り、爆発するように肉体の一部を肥大化させたのだ。
つまり、魔法の性質とはそれ。
自らに対して及ぼす効果と、掌を通して他者に及ぼす効果の二つがある。
ウルウの『空を飛ぶ』魔法は自分を浮かせるだけではない。
『
ウルウの掌を起点として。
蒼と黒の魔法陣が吊り橋そのものを呑み込む。
メキッ、メキメキメキメキメキッッッ‼︎‼︎‼︎ と。
吊り橋が悲鳴を上げた。
思い返してみれば、ウルウは何度もその魔法を使っていたのだ。ウルウがそれを怪力だと誤解していただけで。
だが、それが怪力によるモノではなかったとしたら。
重力に逆らって吊り橋は上空に昇る。
枝を橋を結んでいた縄は呆気なく引っこ抜かれた。
上から下に負荷がかかる事は想定していても、下から上に引っ張られるなんて思ってもいなかったのだ。
『私は勝つためなら何でもやります。ルール違反スレスレの事でも、無法都市なら許してくれるでしょう?』
吊り橋から地面に落ちたら負けならば、吊り橋そのものを破壊すれば良い。
誰も行わなかった蛮行。だが、ルール違反ではない。ルールになければ、何をやったって許される!
「ぐっ、ゴッ! っお、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオっ‼︎」
宙に浮かぶ吊り橋に汚泥の巨人は必死にしがみつく。
無数の腕を絡ませ、まるで吊り橋そのものと一体化するように。
分かっていた。
力勝負では勝てない。無理やり吊り橋を引っこ抜いても、汚泥の巨人は絶対に離さないと。
でも、これは力勝負ではない。
この
『
直後。
ゴッッッ‼︎‼︎‼︎ と轟音が響く。
青褪めた
「じゃ、わたしらの勝ちってことで」
あっさりと、アナテマ=ブレイクゲートは宣言した。
誰もが驚く中で、彼女一人だけが当たり前のような顔をしていた。何故ならば、彼女だけが竜胆ウルウの勝利を信じていたからだ。
「ふっ、ふざけるなっ! こんな馬鹿な話があるかー⁉︎ 反則っ、反則だろー⁉︎」
「そんな
唾を飛ばして騒ぐハラム=アサイラムをあしらって、アナテマは商品代わりになっていた兄妹の腕を掴む。
「じゃ、行くよー」
「ほんとに、本当に勝てたのか……? これで、妹は本当に自由に……」
「いいから着いてきなって。ほーら、もう誰の目もこっちに向いちゃいない。無法都市の住人はみんなウルウに釘付け。強さは十分に示したってワケ」
声をかけるが、逆立った灰色の髪の冒険者──ゲロウはぼんやりとした顔のまま立ち尽くしていた。
「ほ、ほんとに……」
「寝ぼけてる? トリィ、お願い」
「コケコッココー‼︎」
「うおっ⁉︎ わっ、ワリい!」
耳元で大音量の
いまだ驚愕が覚めやらない妹を抱き抱え、いつでも逃げられる準備を始める。切り替えの早い所はさすが冒険者と言うべきか。
「じゃ、そういうワケで。バイバーイ!」
「まっ、待てえー! わっ、吾輩の奴隷を貴様っ、誰か捕まえろおおおおおおおおおおお!」
ハラムの大声を合図として、アナテマとゲロウは走り出す。アナテマは頭にトリィを、ゲロウは腕の中に妹を抱えたまま。
一拍遅れて奴隷達は動き出すが、その頃にはもうアナテマ達は
「『着地任せた! ウルウ!』」
『りょーかいっ、です!』
それはいつかの邂逅の逆のようだった。
落下するアナテマをウルウは抱き止める。
ついでに他二人(と一羽)もキャッチする。
そのまま、着地する事なく羽撃く。
目指すは無法都市の外側。
激流樹海アシリミッツを飛び出して、
「本気で逃げられると思うておるのかのう」
しかし、空を飛ぶウルウ達に追いつく者がいた。
視界の端に
その剣士は上空を覆う樹々の枝を飛び跳ねる事で、飛翔するウルウの速度に追随していたのだ。
「……悪いのう。儂はハラムの用心棒じゃ。
「そっか。ま、いいよ。返り討ちにしちゃうから」
「カカカッ! なあに、気にするでないぞ。儂はハラムの用心棒じゃからな。
「……そっか! ありがとう、キリジ!」
「何の話か分からんのう」
瞬間、キリジは跳ねた。
枝を蹴り、ウルウの飛行ルートと交わるように跳躍する。
一瞬の交錯。
交差する瞬間、湾刀が抜刀された。
「うむ! 斬った! これ以上は儂の仕事ではないのう!」
キリジの湾刀は確かにアナテマを斬った。
そのままキリジは落下する。
落下しながら、笑って空を飛ぶ自由な
「……礼を言いたいのはこちらじゃ。何よりも自由で、どんな鎖も跳ね除ける
「あっ、あの用心棒がーっ! 肝心な所で手を抜きおってえええええええー‼︎」
ハラム=アサイラムは地団駄を踏む。
彼はキリジの剣の腕前を知っている。
『血闘王者』汚泥の巨人の勝利を疑わなかったように、あのキリジが敵を斬り損ねる訳がないと信じているのだ。
「まずい、まずい! あんな女子供に出し抜かれたとなると、無法都市での吾輩の地位が危ういぞー! 舐められたままでは商売も上手くいかんだろー……なんとか、しなければ────」
キリジが斬ったアナテマの背中の服がめくれ、一瞬だけその素肌が露わになった。
そこにあったのは美しい肌色────
ただの火傷ではない。
あの痕は、あの
ぽろっ、と常に咥えていた
聖典に精通したハラムは知っている。
あの傷の正体を。あの傷を受けた者の正体を!
呆然……とハラムは呟いた。
「