ポツポツ、と雨が体に当たり始める。
体を冷やさないようにか、ゲロウは妹を抱きしめて雨から守る。
ウルウもまた翼を傘のように広げ、抱えた三人(と一羽)のため雨風を遮った。
「『ウルウ、ちょっと方角がズレてる。北側に真っ直ぐ進めば人類圏には入るから』」
『北ってどっちですか?』
「『あっ、そっか。ごめんごめん。えーっと、分かりやすいのは
太陽も見えないのに方角が分かるのか……と思ったが、アナテマ=ブレイクゲートが指差したのは何よりも分かりやすい目印だった。
それは一見、壁だった。
標高は曇天に隠れてよく分からない。
だが、少なくとも雲より高いのは間違いない。
ウルウが知っている高い山というのは富士山くらいだが、
大陸縦断山脈。それは雲を貫く高さ以上に、大地の果てまで続く横の長さの方が驚異的だった。
空を飛んでいるからだろう。
改めて、樹海の全貌と世界の形がよく分かる。
つまるところ、空から見える
「『左手に見えるのが
『なら、
「『そーゆーこと。真っ直ぐ進めば途中で雨がなくなるから、そこからちょっと行けばすぐに村も見つかるでしょ』」
北へ、北へ。
歩いて進めば何日かかるかもよく分からない樹海を、
そして、ウルウは目にした。雲の端、突然に晴れ出した空の奥。
ぐらっ、と。
突然、ウルウの飛翔が乱れた。
「なっ、なにごとーっ⁉︎」
『
じゃらり、と。
体にまとわりつく金属の感触。
ウルウの翼が、鎖に縛られていた。
『アナテマ! この鎖取れませんか⁉︎』
「……鎖? そんなの何処にも──」
「オイ! 通訳しろ神官サマ! そいつに見えてる鎖とやらはそいつにしか視えねえ!」
ゲロウは必死に叫んだ。
当たり前の話。ここでウルウが落ちたら、自分たちも巻き込まれて死んでしまうのだから。
「魔法っつーのは自分にしか視えない
ウルウは魔法を発動する際、鎖を破壊する
実際にそこに鎖があった訳ではない。重力か質量か、竜胆ウルウを縛る
「アンタの魔法が上手くいかないのも当然だぜ。鎖が何かは知らねえが、魔法ってのは神の
即ち、その鎖とは
神に見放された大地──激流樹海アシリミッツでは、魔法も永遠に使えたのかもしれない。
だが、
ウルウが破壊したはずの鎖。支配、束縛、隷属の象徴。それがより強固になり、空を飛ぶウルウの自由を奪う。
(魔法の時間制限っ! いやっ、これは魔法の反動ですか⁉︎)
単に魔法が解除されているだけではない。
浮かし、軽くし、自由にする魔法の反対。
落とし、重くし、束縛する力がかかっている。
思えば、この世界に来たばかりの時──アナテマ=ブレイクゲートと出会う前からそうだった。神は竜胆ウルウが空にいる事を許さない。
『──ッ、落ちます!』
「えっ⁉︎ ちょっ、ちょい待った!」
待たなかった。
四人(と一羽)は重力に従って落下する。
コケー! と飛べない
「……なんじゃ、ここ」
マガリの
キリジは割と長い間、ハラム=アサイラムの用心棒をやって来たが、その部屋はキリジでさえ初めて見るものだった。
ハラム=アサイラムの有する館。
その一室を改造して作られたそこは、激流樹海アシリミッツの湿気が入らないように普段は厳重に密閉されていた。
一言で言えば、そこは
本……と呼べるほどにしっかりとした形のモノは少ないが、様々な文字が書き記された紙束が棚に並べられていた。
何よりも、その部屋の異質さを際立たせるのは中央に飾られた絵画。
不思議な絵だった。キリジに絵を鑑賞する趣味はないが、それでもなお美しいと思ってしまうほどの色彩。
死にかけた
狼は全てを毛を剥がされていて、巨大な
何を意味しているのかは分からない。
だが、館の奥に隠されたそれは、間違いなくハラム=アサイラムの根幹を成す何かだった。
「準備をしろ、用心棒。すぐに無法都市を出て、激流樹海アシリミッツを抜ける準備を」
「……夜逃げでもするつもりかのう? そう急がんでも、お主の地位にそこまでの影響は──」
「違う! ……追うのだ、ヤツを。アナテマ=ブレイクゲートを!」
いつもの間延びした口調はなかった。
ハラム=アサイラムは何かを確かめるように、本棚を漁ってひたすら文字を追う。
男の目は血走っていた。憎悪か、歓喜か、キリジには理解のできない感情が瞳に渦巻いている。
「銀髪の
「貴様は吾輩を何だと思っている。くれてやった奴隷にも、亜人にも興味はない。……あの女だ。アナテマ=ブレイクゲートそのものを捕まえなければならない!」
唾を飛ばして叫ぶハラム。
しかし、キリジは首を振った。
「……手伝わんよ。儂はお主の奴隷ではないからのう。あの小童どもを襲いたければ、自慢の奴隷でも連れて好きにやれば──」
「
「────な、に……っ⁉︎」
マガリの
キリジは無法都市以外では生きられない。キリジは激流樹海アシリミッツの外には出られない。キリジは自由にはなれない。
キリジは森に呪われている。
激流樹海アシリミッツに暮らしていたマガリの
故に、その呪いを解くためにハラム=アサイラムの力を借りていた。どれだけの屈辱を受けても、ハラム=アサイラムを守っていた。
その呪いを解く手がかりは、キリジが見逃した彼女にあった。
「貴様も見ただろう⁉︎ ヤツの背中にあった火傷の痕を! あれは聖痕──神に選ばれた者にのみ生まれつき刻まれた印!
「……その聖人とやらは、儂の呪いを解けると?
「ただの聖人じゃあ無理だろう。だが、ヤツは広い
ハラムが握り締めるのは一枚の文書。
一人の神官に対して教会からの追放刑を科した破門状──その複写。
そこにあった名前はアナテマ=ブレイクゲートではない。だから、ハラムも聖痕を見るまで気付けなかった。
彼女は名前を偽っていた。
「
ハラム=アサイラムは血を吐くように告げた。
空飛ぶ鳥に手を伸ばし羨むような、地を歩く鶏を蹴飛ばし蔑むような、そんな表現し難い想いを乗せて。
「────
これで前編終了という感じの区切りですね。