届かないと知りながら手を伸ばす。
視界が真っ赤に滲んでもなお。
そこで、竜胆ウルウは目が覚めた。
「アナ、テマ……」
伸ばした掌は
見覚えのある天井に突き上げただけで、何一つとして掴めない。
尻尾と翼が押し潰される不快感。
ウルウは気付けば、
「目ェ覚めたかよ。クソったれな現実へお帰り、嬢ちゃん」
隣から、声がかかった。
もちろん、それはアナテマではない。
しかし、カナンの村の住人ですらなかった。
逆立つ灰色の髪に、両腕に刻まれた刺青。
冒険者ゲロウ。無法都市で出会い、アナテマが助けた男がそこにいた。
「あな、たは……逃げたはずじゃ、」
「妹は逃した。安全な場所にな。だが、アンタらに受けた借りをそのままにはしておけねえ。オレは義理を果たす男なんでな」
「…………」
「オイオイ。何だよ、その胡散臭いヤツを見るような目はよォ。オレを何だと思ってやがるんだ?」
「胡散臭いヤツだと思ってます」
「クソが。アンタの致命傷をギリギリの所で助かる怪我に軽減してやったのは誰だと思ってんだ」
「……え、」
そう言えば、とウルウは思い出す。
本来なら、ウルウは両断されるはずだった。上半身と下半身が真っ二つに別れるはずだったのだ。だが、そうはならなかった。
「幻影の魔法……あなたがその場にいたんですね」
「おっと、どうして助けなかったって文句は勘弁だぜ。『雨斬り』の
「……言いませんよ、そんなこと」
ウルウだって瞬殺された。
マガリの
ウルウ一人を連れ帰れただけでも、ゲロウは十分に大金星と言えるだろう。
「っ、ぁ」
改めて状況を自覚して、ウルウの瞳が潤んだ。
痛みによるものではないだろう。
ゲロウは目を伏せた。
大切な
だが、ゲロウのそれは勘違いだった。
竜胆ウルウは常人に想像できるような精神構造をしていなかった。
(まけ、た。私が、一方的に倒された。くやしい、悔しい悔しい悔しい悔しい!)
本当に、心底から竜胆ウルウは悔しかった。
ただ、マガリの
斬られた恐怖ではない。アナテマを奪われた事でもない。自分が誰かに脅かされ、何もできずに敗退するという……敗北そのものが許せなかった。
敗北は認められない。
ならば、どうする?
答えなんて決まっている。
「アナテマを助けに行きます」
「はあ⁉︎」
即断即決。
それがウルウの欠点であり、長所だった。
「んなっ、できる訳ねえだろ⁉︎」
「なら、あなたも力を貸してください」
「ぜっっっってぇ、ヤダね!」
ウルウは勝利のためならば何だってする。
自分の命を救った恩人。ゲロウすらも戦力として換算する。
「アンタを助けた。親切丁寧に説明もしてやった。それで義理は返したろ? あんなクソったれな樹海なんざに二度と戻るかよ」
「そう、ですか。でしたら、私一人でも──」
「それも諦めろ。致命傷は軽減させたっつっても、結局は死にかけな事に変わりはねえ。そんな体で戦う? ふざけんなよ、クソが」
ゲロウはウルウの腕を掴んだ。
こんなに細くて小さな腕で少女は戦っていた。
魔法がなければ、ゲロウには手も足も出ないちっぽけな力で。
「……話は盗み聞きしてたぜ。あの嬢ちゃんは聖人なんだろ? 何をさせられるかは知らねえが、悪い扱いはされねえだろうさ。オレの妹とは違ってな。死ぬよりは──」
「──負けるくらいなら、私は死んだほうがマシです」
ウルウは迷いなく言い切る。
血のような真っ赤な瞳にゲロウは気圧された。
思わず、掴んだ腕を離してしまうくらいに。
「奴隷商は私からアナテマを奪った。私の
竜胆ウルウは、絶対にアナテマ=ブレイクゲートを逃しはしない。
「ッ。ああっ、クソったれ! ふざけんなよ、オレはオレの命の方が大事だ! 恩人だろうと見捨てるからな!」
「どうぞ、お好きに」
「…………っっっ、クソが! 途中までは着いてってやる! オレが危険と思ったらすぐに逃げ帰るからな!」
「だから好きにすれば良いでしょう」
ゲロウは他人のために自己犠牲を選べない。
しかし、恩人を見捨てる事もできない。
中途半端な利己主義者で、中途半端な善人だった。
竜胆ウルウは立ち上がる。
魔法を使って、体に負担がないように浮かんで。
いつの間にか治っていた
「返して貰います。あなたが奪ったアナテマも、踏み躙った私の
「オキタ、カ?」
「…………っ、君は」
「オデ、汚泥の巨人。オマエ、ドレイ。オデの、コウハイ」
同時刻、アナテマ=ブレイクゲートは極彩色の樹海で目を覚ました。
目の前にいたのは、三メートルを優に超える青褪めた肌の
汚泥の巨人。
それが彼の名前だった。
「オマエ、オトナシクしてろ。オデ、ミハリ。ハラム、クルまで、ソコにいろ」
「大人しくも何も……そもそも動けないってば」
全身に絡みつく
周囲には檻のように囲まれた竹。ここは植物で作られた天然の牢屋だった。
恐らくは激流樹海アシリミッツの何処か。
無法都市とはまた異なる、ハラム=アサイラムの隠れ家だろう。
地べたに座らされた太腿に
「ねえ、君。暇だからさ、ちょこっと話し相手になってよ」
「……イイゾ。オデ、ナンデモ、コタエル」
「いよっしゃー! じゃあさ、ずっと訊きたい事とかあったんだけどさあ」
親切な
アナテマ=ブレイクゲートは問いかける。
「──
「
汚泥の巨人の瞳に理知が宿り、流暢な言葉でそう話した。
アナテマ=ブレイクゲートは最初から気付いていた。汚泥の巨人、彼のたどたどしい話し方が全て演技である事に。
「……ずっと不思議だった。生き物の本能に抗えない
相応に頭も大きく、脳みそだって肥大化している。
腹が減ったら犯罪に走り、眠気が限界を越えれば意識を失い、色欲に惑わされて間違える。
たとえそれがどれだけ正しい事でも、秩序のために自らを犠牲にする事に拒否感を覚える。
だが、
そして、秩序のためならば自己犠牲さえ厭わない。冷静で、冷徹な、
奴隷だから命令されて敵を甚振る?
そんな訳があるか。
「……汚泥の巨人、君はどんな想いでその名を付けたの。
「そのままです。
汚泥の底で、少しでも汚泥をマシにする。
故に、汚泥の巨人。
彼は自らそう名乗った。
「貴女は一人の少女を奴隷から解放しました。……素晴らしい事です。尊敬に値する。ですが、それでも一人だけ。奴隷というのは、巨人の手でも足りないほど多くいるのですよ」
「奴隷って
「それを守っている
「…………」
「奴隷はなくなりません。何故ならば、必要だから。奴隷という最底辺の仕事を担う労働力がいなくては社会は回らないからです。教会があれば祈祷術で何とかなる仕事でも、神官もいない辺境じゃ奴隷に頼るしかありません」
「……聖域崩壊、地方の神官不足ってワケね」
「二百年前──まだ私が生まれたばかりの時代もそうでした」
長寿の
肉体が崩れ、塵と化しても、
「あの時代──魔法使いの勇者が魔王を討ち倒すまで、魔法使いは魔物の一種とされ、奴隷にする事が許される唯一の
言葉を話す者こそが
そんな価値観はここ百数十年の間に生まれたモノで、それよりも前には言葉を話す者すら
「
アナテマ=ブレイクゲートは最底辺にいる少女に手を伸ばし、そこから救い上げた。
しかし、汚泥の巨人は違う。彼がやっているのは
「奴隷一人一人を救うのではなく、『奴隷』という概念そのものをマシにする。そのために無法都市に潜入していたってワケ⁉︎ あの奴隷商なんかに
「奴隷商なんか……ですか。それは間違いですよ、預言の聖女。あなたも気付いているんでしょう? ハラム=アサイラム、あの男の正体を」
「っっっ!」
アナテマ=ブレイクゲートは息を飲む。
図星だった。彼の魔法──
それは魔法なんかじゃなかった。
彼が使っていたのは、アナテマもよく知る──
「吾輩がいつマトモに話して良いと言ったー?」
思考を遮るように、雨音だけが響く樹海に声がした。
ハラム=アサイラム。無法都市の王、奴隷商。
「オ、オデは……」
「ベラベラと情報を漏らしよってー。もう見張りは良い。周囲を警戒しに行けー!」
巨大な体を縮こめて、汚泥の巨人は天然の牢屋から去る。
残されたのはアナテマとハラムの二人だけ。
「…………」
「チッ。何だァその顔はー? 吾輩に言いたい事でもあるのかー?」
誘拐されたのだ。当然、あるに決まっている。
だが、アナテマは何よりもまず、こう言った。
「──