「匂い立つは豊穣。祖が賜りし
褐色の
奴隷商、ハラム=アサイラムは祝詞を告げる。
「春の訪れ、朝日は昇り、灰の中にも燻る炎」
咥えた
地面に落ちた吸い殻は祭具。
更に祝詞を加える事で、扱う奇蹟の規模を大きくする。
「命よ芽吹け──『豊穣の奇蹟』!」
ガコン! と。
地面から一斉に竹が槍のように生えて、アナテマ=ブレイクゲートを貫かんと殺到する。
よく見ると、
アナテマが囚われたのは自然物でできた天然の檻。全身に
攻撃を避ける、というのは無理。ならば選択できるのは防御くらいか。
(一応、保険は用意してあるけど……)
チリン、とアナテマの懐で鈴が鳴る。
それが必要最低限の護身。
『破魔の奇蹟』による守り。
かつて、竜胆ウルウは
『破魔の奇蹟』は害意を防ぐ。
威力の大小に関係なく、『破魔の奇蹟』が攻撃を通す事はない──
「
──
「〜〜〜〜〜ぁっ⁉︎」
「馬鹿が。『破魔の奇蹟』は害意を弾く。
声にならない悲鳴を叫ぶアナテマに対し、ハラム=アサイラムは淡々と説教を続ける。
「『破魔の奇蹟』が通用するのは害意を持った生き物のみ。だから、『破魔の奇蹟』の効果範囲外から投げられた石などには反応しない。吾輩が害意を持って奇蹟を使っても、植物自体に害意がないのなら弾けない。初歩的な事だー」
「……いたっ、めつけた、所で……わたしの意見は変わらないけど」
「そうかもなー。だが、これならどうだ?」
「なに……を、ゲホッゲホッ」
フー、とハラムは口に含んだ
思わず咳き込むアナテマだが、同時に言葉にならない頭痛が込み上げてきた。
頭痛。いや、違う。
これは感情。精神を削り取るような悲痛。
「ま、さか……『狼煙の奇蹟』っ⁉︎」
その祭具は煙。
ハラムは
「『狼煙の奇蹟』は自身の言葉や知識を他者に伝達する奇蹟だが、稀に感情さえも漏れ伝わる事がある。今回はそれを意図的に引き起こし、
「っっっ!」
「我を忘れるほど痛みを与え続け、憎悪を刻み続ける。貴様が自分の感情と吾輩の感情に区別が付かなくなるのも時間の問題だろうよ」
「……何の意味もないよ、こんなの。わたしの意見が今更変わっても神様に言葉を伝える機会はもう二度とない。君の願いは叶わない」
「分からないだろうが! まだ、別の手段があるかもしれない! その時を逃さないためにッ、貴様の心を変えて取っておく必要があるんだ‼︎」
それは神を信じていないと出てこない言葉。
言葉さえ通じれば、アナテマさえちゃんとやれば、神は
アナテマは悲しくなった。
出会い方さえ異なれば、ハラムとアナテマはきっと同じ道を歩めたのに。
「……神様は縋るモノじゃない。神様に頼るのも、神様に支えてもらうのも良い。でも、
「戯言を。救われない
「命乞いじゃないよ。あー、っていうか、」
アナテマ=ブレイクゲートの頭に浮かんだのは一人の少女の姿。
角に翼に尻尾という怪物染みた見た目をしていながら、誰よりも
「わたしはまだ負けていない」
その瞬間。
ハラムは自分の目を疑った。
アナテマを束縛していた
「
樹海の何処にでもいる生き物。
何の変哲もないただの
だからこそ、気付けなかった。
ちっぽけな彼らがハラム=アサイラムの計画を打ち砕くだなんて、考えすらしなかったのだ。
「『預言の奇蹟』ッ、
「聞こえるワケないっつーの。
アナテマ=ブレイクゲートは全ての生き物との会話が可能である。
しかし、声で意思疎通する生き物が全てではない。中には匂いで情報を伝達する生き物だっている。アナテマはその
「これで……これで逃げられるでも思ったか⁉︎ もう一度捕まえれば良いだけの事だッ!」
ハラムは再び
だが、それよりも早く、アナテマはハラムに向かって
「ぶっ、ぶばあッ⁉︎」
「安心して。綺麗な水だから。ま、これで君の神殿はなくなったワケだけど」
「わ、吾輩の火がァァああああああああ⁉︎」
ちょろちょろちょろ、と。
自分の太腿に水を掛けながら、アナテマ=ブレイクゲートは祝詞を詠唱する。
「尽きぬ湧き水、天の盃。閉じた瞼に十五の涙。
声と共に生じた光の粒子が視界を満たす。
目が眩む間に、太腿の怪我は綺麗に治っていた。
(馬鹿が! それだから甘ちゃんなのだ貴様はァ! 今は治癒ではなく、吾輩への追撃が優先だろうが‼︎)
ハラムは極小の神殿を失った。
だが、まだ地面に
祭具のみ、超簡略化した祈祷術。
それでも、発動しない事はないのだ。
奇蹟を一点に集中させ、今度はアナテマの腹部を貫くように成長させる竹の位置を調整する。
「くたばれ馬鹿がッ──『豊穣の奇蹟』っ‼︎」
────。
──────。
─────────何も起こらない。
「………………ほえ?」
間抜けな声が飛び出した。
ハラムの祈祷術は一切の効力を失っていた。
「な、何をしたァ⁉︎」
「馬鹿はそっちでしょ。『豊穣の奇蹟』の要は灰。でも、それって
『盈月の奇蹟』は怪我を治す奇蹟ではなく、欠けたモノを復元する奇蹟。
人体に使えば治癒の効果でも、
治癒などではなかった。
水を掛け、『盈月の奇蹟』を唱える。
そこまでがハラムを封じ込めるための一つの策だったのだ。
「さあて、どうしてくれようかなーっと。こっちは祭りの最中に拉致られてるんだから、ちょっとくらい弁償してもらっても罰は当たらない…………え?」
にやあ、と唇を歪めるアナテマ。
しかし、その後の言葉が紡がれる事はなかった。
軽口なんて叩けないものが目の前にあったから。
肉が……特にお腹の贅肉が溶け落ちる。
汗みたいに肌と同じ色をした粘液が垂れる。
そこに残ったのはほんとうに小さな、痩せ細った
「──ああ、そうか。汚泥の巨人が敗れたか」
「それって……」
「奴隷商には不似合いの痩せ細った体だろう? 汚泥の巨人に頼み、余分な脂肪を外付けしていたのだよ。悪の奴隷商というメンツを保たねば、無法都市で食っていく事はできない」
「そっちじゃなくて!」
痩せ細った体。
骨と皮だけのガリガリの老人。
しかし、それ以上の秘密が肉の下には隠されていた。
「もう吾輩に手はないと思ったか? まさか、そんな訳があるまい。手はあった。使いたくもない、
ハラム=アサイラムの胸元。
肋骨が浮いた体に刻まれたもの。
それは火傷の痕。……いいや、違う。
アナテマがそれを見間違える訳がない。
その正体は────
「聖痕解放────『
直後。
ドガッッッ‼︎‼︎‼︎ と。
アナテマの体は弾き飛ばされた。
『破魔の奇蹟』。
害意を弾く聖域。
だが、それは祈祷術ではなかった。
神殿も、礼装も、舞踏も、祝詞も、供物も、祭具も、何もない。奇蹟を再現する祈祷術ではあり得ない。
紛れもなく本物の奇蹟。
それを授けられた神の代行者。
その名は────
「改めて、名乗ろう。吾輩はハラム=アサイラム。
そうだ、ずっと疑問に思っていた。
魔境の側にあるカナンの村でさえ、大規模な『破魔の奇蹟』の祭りを半年に一度行わねばならないのに、どうして無法都市は激流樹海アシリミッツの中にあって被害がないのだろうと。
その答えは目の前にあった。
ハラム=アサイラムがたった一人いれば、魔物による被害は存在しないのだ。
「『破魔の奇蹟』は時代遅れだ。少なくとも、都市部では自前の戦力で魔物の排除ができる。だから吾輩は吾輩の力が求められる辺境に、巡礼者として向かった」
ミシミシミシミシッッッ‼︎‼︎‼︎ と。
アナテマの肉体が悲鳴をあげる。
害意を弾く聖域に弾かれ、後方にある大樹に押し付けられているのだ。
「必死に改善しようと思った。聖域崩壊を食い止めようとした。信仰心が薄くても奇蹟が発動するように、吾輩がいなくとも村が存続するように祭りを布教した。……だが、不可能なのだ。
神の手を借りず、
だが、それでも、本当は。
神様に救ってほしかった。
彼の心は折れかかっていたのだ。
「どうして救ってくれなかった! 貴様が神と話してさえいれば……それだけで彼らは救われていたのに‼︎」
「────ぁ」
何を言おうとして。
しかし、言葉にならない。
神を憎悪しながら、神への信仰を捨てられないハラムに対して、何を言えば良いのか分からない。
そんな時だった。
「コケコッコー‼︎」
「…………うん?」
ハラムの頭の上になんかあった。
「ぶふっ」
「…………」
「ごめん……ふふ」
「……貴様」
「いや、ごめんって。でも、笑うでしょ。……
「知るかァ! 貴様が訊けェ‼︎」
なぜか鶏がハラムの頭の上に乗っていた。
無論、トリィである。コケコケと喧しく鳴いている。
「……そっか。わたしを心配して着いてきてくれたんだ。ありがと」
どうやらウルウの回復もまたず、単独で樹海へ駆けつけ、
どう考えてもMVPである。なんか意味が分からない面白さがあってアナテマは笑った。
体が軽くなる。
聖域に押さえつけられた体が休まる。
そうだ、らしくなかった。
神様と話すための装置だったエルマ=エスペラントは死んだ。生まれ直し、新たな名前を得たアナテマ=ブレイクゲートはいつも明るくないといけない。
戦うためじゃない。言葉を交わすため、少女は立ち上がる。
殺し合いなんて柄じゃない。
これから始まるのは……単なる論争だ。
「わたしが神様と話していればって言うけどさ……そもそも、わたし一人が考えた
『
「……な、に⁉︎」
「二百年前、魔法使いは
「まさか、まさかまさかまさか!
さっき、ハラムは自分で言っていた事だ。
『破魔の奇蹟』は害意を弾く。
逆説、害意さえ持たなければ誰だって通す。
ただ鳴くだけのトリィがハラムの頭に乗れたみたいに。
「今だってそう。誰も亜人を
アナテマ=ブレイクゲートはハラム=アサイラムに害意を持たない。
どんな暴力を受けようと、それは相手の対話を諦める理由にはならない!
「勿論、わたしもね。誰かがわたしの救いを見たら、そんなの倫理的におかしいなんて言うのかもしれない。ああ、ちょうど君が言ってたね。わたしは頭がおかしいんだって」
「……何が、言いたい」
「『救い』って
何処までも正しく、何処までも残酷なアナテマの言葉に、ハラム=アサイラムは泣きそうな顔で呟く。
「……救えない、のか。
「だから、不平等で良いんじゃん。自分の手が届く範囲に、自分の思う救いを押し付ける。みんなが不平等にみんなを救う、それって総体的には平等でしょ?」
神様だってそうだ。
神様は
……でも、それって不平等だ。他にも生き物はいっぱいいるのに、
でも、それで良いのだと思う。
神も、
誰か一人がみんなを救うよりも、みんなでみんなを救い合う方がよっぽど平等だから。
「だったら! 誰の目にも留まらない彼らはどうするんだ! 神を心の底から信じる事のできない人々はッ、貴様の手が届かない者は誰が救ってくれるんだ⁉︎」
血を吐くようなハラムの言葉。
それに、アナテマは即答した。
「
何一つとして憂いなく。
当たり前のような顔で。
「…………は」
「神様には救えない。わたしの手も届かない。……でも、君がいる。君の前で嘆く人々は、きっと君が救ってくれる」
「本気で……言ってるのか? こんな吾輩を、薄汚れた奴隷商を信じると……」
「信じてるに決まってんじゃん。だって、
アナテマは心の底からそう言っていた。
騙そうという気持ちがない事は、『破魔の奇蹟』で弾かれない事が何よりの証拠だった。
「神様の救いじゃない。わたしの救いでもない。わたし達みんなで作った『救い』の方が、きっと完璧でしょ?」