雪は静かに降り積もる
声なき祈りを覆い隠すように光は瞳に宿り、
闇は名を奪った片方は空の残響
片方は地の記憶その狭間に生まれたものは、
神々の断絶を越えてまだ誰も知らない物語を
まだ誰も見たことのない世界をその瞳に映していた。
――その瞳は、空と地の狭間に生まれた。右目は「煌虹色(こうこうしょく)」。光と色が溶け合い、虹の残響が揺らめくその瞳は、朝焼けの霧が空を撫でるように、見る者の心を震わせた。それは祝福か、あるいは呪いか。
ある地では聖女の証とされ、ある地では災厄の前触れと恐れられた。一方、左目は茶色がかった黒。湿った土のように静かで、夜の森に潜む獣のように確かな現実を映す。誰もが見慣れた色――だが、煌虹色と並ぶことで、その平凡さは逆に深い美しさを帯びた。
奇跡と日常が、ひとりの少女の中で呼吸していた。
その名は、アデル。
だが、彼女は家名「クロヴァ」を名乗ることを許されなかった。理由はただ一つ――捨て子だからだ。
エルディナ王国北西部、ナヴァルシュ地方。
雪深い山々と黒い森に囲まれたこの地は、王都ルミナス・グランディアから遠く離れ、冬は長く、夏は短い。その片隅に、ヴェルノ村という小さな集落があった。
ある日、村近くを流れる川のほとりに、ひとつの小さな命が捨てられていた。傍らには、身ぐるみを剥がされた若い女の遺体。それが母であったのか、誰にも分からない。
ただ、その遺体はあまりにも無惨で、川の流れがその血を薄め、遠くへと運んでいた。
籠に入った赤子は、奇跡のように無傷だった。アデルと刺繍された小さな衣を纏い、泣き声すら上げず、ただ空を見つめていた。偶然通りかかった村の老人は、その姿に胸を締めつけられ、赤子を抱き上げた。その瞬間、霧の奥から冷たい風が吹き抜け、老人は一瞬だけ、誰かに見られているような感覚を覚えた。
村の入り口まで戻ったとき、酒場の扉が軋む音が響く。中から、酒と煙草と獣脂の混ざった匂いが流れ出す。
そこから現れたのは、片足を引きずる大柄な男――ダリオン・クロヴァだった。片手には酒瓶、もう片方には杖。顔には魔物に斬られた大きな傷跡が走り、片目は濁り、もう片方は酔いで赤く充血している。かつては勇敢な狩人だったが、仲間を失い、誇りを砕かれ、酒と賭け事に溺れた男。その歩みは重く、地面を踏むたび杖の先が乾いた音を立てた。彼は老人の腕に抱かれた赤子を見て、にやりと口角を上げた。
「じじい……何を持っている?」
その声は低く、酒で掠れていた。老人が咄嗟に赤子を背に隠そうとした瞬間、杖が地面を叩き、次いで拳が飛んだ。老人はよろめき、腕から赤子が奪われる。ダリオンはその小さな体を片腕に抱え、不気味に光る右目を見て酒臭い息を吐きながら笑った。
「おもしれえ目だ…こいつはいずれ金になる」
そのまま、彼は上機嫌で歩き去った。
家に戻ると、薄暗い室内でダリオンの妻リゼリア・クロヴァが椅子に腰掛け、冷ややかな目を向けた。
「……何、それ」
「拾った。運がいい日だ」
「運? ただのガキじゃない。口減らしにもならない厄介者よ」
リゼリアの視線がアデルの顔に落ち、右目の煌虹色が灯りを受けて淡く揺らめくと、彼女は眉をひそめた。
「……なにこの気色悪い目。ぞっとする」
ダリオンはふてくされたように鼻を鳴らし、酒瓶を机に置いた。
「お前にはわからん。この目は金になる。きっと高く売れる」
「根拠は?」
「……勘だ」
リゼリアは深くため息をつき、呆れたように立ち上がった。
「くだらない。あんたの“勘”で家が良くなった試しがある?」
彼女は外套を羽織り、戸口に向かう。
「どこへ行く」
「村長のところよ。あの人なら、この子をどうにかできるかもしれない」
そう言い残し、リゼリアは冷たい外気の中へ消えていった。
雪を踏みしめ、村の外れにある石造りの館へ。ヴェルノ村の支配者、マルティン・ド・フォンセカの屋敷は、冬枯れの庭と雪に埋もれた彫像に囲まれていた。玄関扉が開き、暖炉の熱と香辛料の匂いが流れ出す。
「おや、リゼリア。こんな雪の日に珍しいな」
「……話があって来ました。ダリオンが今朝、川辺で赤ん坊を拾ってきたんです」
「赤ん坊?」
「女の子です。ただの子じゃない。右目が……虹色に光るんです。宝石みたいに。正直、気味が悪いくらい」
マルティンの目が細くなる。
「ほう……珍しいな」
「ダリオンは“金になる”なんて言ってますけど、あの人の言うことですから、根拠なんてありません。でも……あなたなら、その価値がわかるでしょう?」
マルティンの口元がゆっくりと歪む。
「面白い。今すぐ見に行こう」
雪を踏みしめ、二人はクロヴァ家へ戻った。扉を開けると、室内の隅でアデルが毛布に包まれていた。まだ首も据わらぬ小さな体、吐く息は白く、右目の煌虹色が灯りを受けて淡く揺らめく。
マルティンはその光を見て、低く笑った。
「……なるほど。これは珍しい」
アデルはその視線に理由のわからない寒気を覚えた。温もりも優しさもない、値踏みするような目。
「大事に置いておけ、リゼリア。傷をつけるな。時が来れば、わしが引き取る」
そう言い残し、マルティンは背を向けた。
その夜。古びた木箱に毛布を敷いた即席の寝床で、アデルは小さく丸まり、雪の音を聞いていた。外では風が壁を叩き、家全体がきしむ。かすかな灯りを受けて、右目の奥で虹色の光が淡く揺れた。それはまだ誰も知らない物語の、最初の微かな脈動だった。
それから幾年。
アデルは、ゆっくりと、しかし確かに成長していた。
とはいえ、十分な食事を与えられたことは一度もなかった。
朝は冷たい粥をひと匙、昼は干からびた根菜をかじり、夜は空腹のまま眠ることも珍しくない。
そのせいで、年齢に比して体は小さく、骨の浮いた手足はいつも土にまみれていた。
それでも、彼女は黙って畑へ向かった。
夜明け前、霜の降りた畑に、擦り切れた革靴と薄い外套を身にまとい、鍬を握る。
土は凍てつき、鍬の刃が跳ね返されるたびに腕が痺れた。
指先は手袋越しでもかじかみ、息を吐くたび白い靄が立ち上る。
それでも、彼女は黙々と耕し続けた。
誰に言われたわけでもない。
ただ、働けば食べ物にありつけるかもしれない――それだけだった。
畑の隅で、アデルはふと立ち止まり、空を見上げた。
雪雲の隙間から、淡い光が差し込む。
その光を受けて、彼女の右目が微かに煌めいた。
虹の残響が、凍てついた空気の中で静かに揺れる。
村人たちは、遠巻きにその姿を見ていた。
誰も声をかけようとはしない。
だが、彼女が通り過ぎるとき、そっとパンを手渡す者がいた。
干し肉を袖に忍ばせてくれる者もいた。
「……ありがとう」
その声は、冷たく澄んでいて、今にも壊れそうなほど儚かった。
けれど、聞いた者の胸には、なぜか深く残った。
まるで、雪の中に咲いた一輪の花のように。
アデルはそれだけで、十分に幸せだと思っていた。
ほんの少しの温もり。
ほんの少しの優しさ。
それが、彼女の世界のすべてだった。
アデル 9歳
イラストは生成AIに作ってもらいました、嫌いな方いるかもですがイメージ掴みやすいように何度も修正しながら作ってもらいました。
なかなか難しい…ある程度妥協はしています…