夜明け前の冷たい空気を切り裂くように、アデルはガインとの剣と体術の鍛錬を終え、奴隷小屋へ戻った。
筋肉はじんわりと疲れを訴えていたが、心は静かに燃えていた。
――今日もまた、何かを学び、何かを掴む。
その時、漆黒のローブに身を包み、顔の半分を仮面で覆った男が現れた。
魔導士、アルゲンタイト・ノクスス。
その足音は静かで、しかし空気をわずかに歪ませるような気配を纏っていた。
「来なさい……世界の裂け目よ」
奇妙な呼びかけに、アデルは一瞬だけ眉をひそめたが、逆らわずその背を追った。
連れて行かれたのは、屋敷の地下深く。
湿った石壁と、灯りの乏しい薄暗い部屋。
床には不気味な紋様が刻まれ、棚には薬品や未知の器具が並んでいる。
空気は重く、どこか別の世界の匂いがした。
「男爵様の命令だ。屋敷の結界維持のため、魔力の補充を学べ」
冷徹な声が響くが、その奥に微かな興味の色があった。
「まずは、自分の魔力を意識しろ」
アデルは目を閉じ、深く息を吸った。
次の瞬間、アルゲンタイトの手がそっと彼女の腹部――丹田のあたりに触れる。
そこから微かな熱が流れ込み、腹の奥がむずむずとくすぐったくなる。
「それが魔力だ。今は私の魔力を少し流し込んでいる。感じろ」
アデルはその温もりを意識し、言われた通りに集中する。
「その感覚を指先へ送れ。ゆっくりだ。焦るな」
お腹の奥のむずむずが、細い糸のように腕を伝い、指先へと集まっていく。
指先がじんわりと熱を帯び、今にも何かが灯りそうな予感がした。
「火が指先に宿る姿を思い描け」
アデルは心の中で炎の揺らめきを描き、その熱を指先に込める。
熱さが増し、皮膚の内側で小さな火種が生まれるような感覚――
「……火よ」
その言葉と同時に、指先に小さな炎がふっと灯った。
アデルは思わず目を開き、驚きに息を呑む。
アルゲンタイトは仮面の下で口角を上げ、満足げにニヤリと笑った。
「魔術は、魔力という目に見えぬ力を形にする技だ。才能ある者なら、簡単な術は呪文を唱えずとも発動できる。だが、複雑な術や大規模な魔法は、術式と詠唱で魔力を安定させねば暴走する」
アルゲンタイトは淡々と続ける。
「魔力は水のようなものだ。器が小さければすぐ溢れ、大きくても制御できなければ暴れ出す。術式はその器の形を決め、詠唱は水の流れを整える役目を持つ」
アデルは真剣に耳を傾けた。
「魔術には属性がある。火、水、風、土、光、闇……それぞれに得手不得手があり、才能や資質で向き不向きが決まる。」
アルゲンタイトは袖から小さな紫色の結晶を取り出した。
「これは魔石だ。魔物を退治するとその身は霧散し、こうした結晶だけを残す。魔術の増幅、魔導具の動力、結界の維持、希少な物は装飾品にも扱われる…用途は多い」
アデルはそれを見つめ、静かに言った。
「……見たことがあります。ミカさんと森で熊みたいな魔物を退治したとき……魔物は黒い靄になって消えて、地面にこれが残っていました」
「……そうか。なら覚えておけ。魔物は肉体だけでなく、心も奪おうとする。恐怖や怒りに呑まれれば、魔力の制御を失い、命を落とす。心は常に自分の手の中に置け」
アルゲンタイトは続ける。
「お前、毎朝ガインと鍛錬しているらしいな、肉体強化の魔法を覚えておけ。筋肉や骨格を一時的に強くし、動きの精度を上げられる。鍛錬の効率が段違いになる」
「……そんなこともできるんですか」
「できる。だが、やりすぎれば関節や筋を痛める。終わったら必ず治癒魔法で回復しろ」
アルゲンタイトはアデルの額に軽く指先を触れた。
淡い光が広がり、朝の稽古で重くなっていた身体がふっと軽くなる。
「……楽になった」
「これが治癒魔法だ。だが、癒しの術は容易ではない。古くから教会が得意とし、信徒から多くの施しを受けている。勝手に用いれば異端と見なされ、捕らえられることもある。使う時は場所と相手を選べ」
「治癒魔法で可能なのは、浅い傷の閉鎖や疲労の緩和、身体本来の治癒力を促す程度だ。骨折や欠損は瞬時には治せぬし、命を落とした者を呼び戻すなどは不可能だ。一説には骨折や欠損が瞬時に癒えた話もあるが、眉唾だ。……あるいは代償として寿命や記憶、魔力を差し出したのかもしれん」
アルゲンタイトはふっと口元を歪めた。
「明日の朝から肉体強化魔法を使ってみろ。あの汗臭い門番にひと泡吹かせてやれ」
後日、アデルがこの話をガインにすると、彼はわずかに眉を上げ、落ち着いた声で言った。
「……あの魔導士が? 相変わらず回りくどいことをするな。嫌いではないが、どうも辛気臭くて苦手だ」
この言葉を後に耳にしたアルゲンタイトは、仮面の下で小さく笑い、
「……あの門番は汗臭くてかなわん」
と、誰にともなく呟いた。
互いに皮肉を飛ばしながらも、そこには敵意ではなく、妙な距離感のまま続く不思議な関係があった。
そのやり取りを聞いたアデルは、心の中で小さく笑った。
――辛気臭いとか汗臭いとか言い合っているけれど、二人とも真面目で、教えてくれることは的確で……なんだか、似た者同士かもしれない。
夕食時、アデルが奴隷用の粗末な食事を口にしていると、アルゲンタイトがふらりと現れ、隣に腰を下ろした。
自分の皿からパンと肉を差し出す。
「お前の才は、ここでは理解されぬ。だが、儂は理解してやろう」
少し離れたところからその様子を見ていたリリィは、肩をすくめてカイラに小声で囁いた。
「……あの人、やっぱり怖いよ……」
カイラは小さく笑い、「あの人は危ない橋を渡る人。でも、アデルを害する気はないと思うわ」とだけ答えた。
アデルはアルゲンタイトに小さく「ありがとうございます」とだけ告げたが、問いかけようとした瞬間、アルゲンタイトは不敵に笑い、答えずに立ち去った。
奴隷小屋に戻ると、カイラが静かに近づき、
「魔術を学んでいるのね」
と囁いた。その声には、警告と励ましが混じっていた。
ノームは短く優しく助言を与える。
「魔力も魔石も、刃にも盾にもなる。使い方を間違えるな」
アデルは頷き、今日得た新しい「力」と知識を胸に刻む。
その夜は魔術の訓練による疲労で、男爵からの呼び出しはなかった。
寝床につき、リリィとたわいのない話を交わしアデルはにこやかに笑った。
闇の中で、右目の煌虹色が微かに光を放つ。
その光は、やがて彼女の運命を切り拓く力となるだろう。
アルゲンタイト・ノクスス