夜明け前の静寂を切り裂くように、アデルは今日も門番ガインとの厳しい訓練を終えた。
訓練も少しずつ身体に馴染み、痛みに耐える力と動きのしなやかさを与えていた。
剣を握る手に宿る小さな自信が、彼女の心を支えていた。
その日の稽古の終盤、アデルは試しに肉体強化を発動させた。
足元から力が湧き上がり、剣を振る腕が軽くなる。
ガインの木剣を受け止めた瞬間、衝撃が以前よりも小さく感じられた。
「……ほう」
ガインは一歩下がり、構えを解いた。
「魔術を教わったのか。なるほど、動きが変わったな」
アデルは小さく頷く。
「……はい。少しだけ、体が軽くなった気がします」
「力に溺れるな。魔術は剣と同じく、使い方を誤れば身を滅ぼす。だが……よくやった」
短く褒めると、ガインは背を向け、朝の空気を切るように歩き出した。
その背中には、わずかな誇らしさが滲んでいた。
訓練が終わり顔を洗い、今日の仕事の指示を待っていると、奴隷小屋の仲間――ノームとカイラが現れた。
ノームは筋骨隆々の大男。
深緑の髪を揺らし、言葉少なに「ついてこい」とだけ告げる。
無愛想に見えるその表情の奥に、静かな温もりが潜んでいるのを、アデルは感じ取っていた。
連れて行かれた先は、屋敷の下水路と薪小屋だった。
下水路の掃除は悪臭が立ち込める重労働。
薪割りは、ノームのような腕力があってこそ成り立つ仕事だ。
アデルは、その逞しい背中を見て、自分には到底無理だと感じた。
だが、ノームは力任せではなく、テコの原理や道具の使い方を教えた。
薪の木目を見極め、最小限の力で割る方法を、言葉少なく、しかし丁寧に示す。
「……詩を口ずさむと、力が湧いてくる……」
作業の合間、ノームは記憶の断片のような詩を呟いた。
その響きは不思議と心を落ち着かせ、アデルの動きから余計な力を抜いてくれた。
言われた通りにすると、想像以上に楽に薪が割れることに、アデルは驚いた。
午後、アデルはカイラに連れられ、屋敷の裏庭の手入れと洗濯を手伝った。
カイラの手は無言で淡々と動くが、その一つひとつが驚くほど丁寧だった。
洗濯物を優しく揉み、草花に水をやる姿は、まるで壊れやすい宝物を扱うようだった。
カイラはかつて貴族に仕えていたが、戦争で奴隷として売られた過去を持つ。
その経験から、アデルが男爵の寵愛を受けながらも夜な夜な虐待を受けていることを、痛いほど理解していた。
夕食時、アデルが粗末な食事を口にしていると、ノームとカイラが隣に座った。
ノームは自分の皿からパンをちぎり、カイラは野菜を分け与える。
「……お前の右目の色……いや、なんでもない……」
ノームは遠い目をして呟いた。
彼は元魔導士の弟子であることを、アデルは聞いていた。
ノームは、かすかに残る魔術の知識を、生活に役立つ形で教えてくれた。
土の魔術で草木を育て、水の魔術で汚れを落とす――
それはアルゲンタイトの教える戦闘魔術とは違い、日々を生き抜くための術だった。
カイラはアデルの煌虹色の瞳を見つめ、静かに言った。
「貴族の世界では、美しい女ほど、深く泥に沈むものよ。
でも、あなたは…その目を汚さないで……」
その言葉には、深い哀しみと、アデルへの強い願いが込められていた。
アデルは、ガイン、ノーム、カイラ、そしてこれまで自分を支えてくれた人々の存在に、心からの感謝を覚えた。
彼らが与えてくれる知識と優しさが、彼女の心に小さな光を灯していた。
その夜、安堵の中で身体を横たえたアデル。
だが、その静けさは長くは続かなかった。
奴隷小屋の扉が軋み、疲れ切った顔のミレナが現れる。
「……アデル…男爵様がお呼びよ」
その一言に、昼間の温もりは一瞬で凍りつく。
アデルは身体を震わせ、静かにミレナの後を追った。
そして、屋敷中に響く醜悪な笑い声と、硝子のように脆くも鋭い悲鳴が、夜の闇を裂いた。
ノーム・エルヴァン
カイラ・セリス