屋敷に来て三か月が経った。
冬の冷気は石造りの廊下を這い、吐く息は白くほどける。
アデルは毎朝ガインとの稽古をこなし、その後はミレナの指示で調理場、馬小屋、洗濯場、書庫と、屋敷のあらゆる仕事を巡った。
その手際の良さと、年齢に似つかわしくない落ち着きは、奴隷という身分でありながらも使用人たちの信頼を勝ち得ていた。
その日、離れの魔術研究室へ呼び出したのはアル
ゲンタイトだった。
重い扉を押し開けた瞬間、薬品と焦げた香草が混じった匂いが鼻を刺す。
壁際には大小さまざまな魔道具が沈黙を保って並び、床一面には黒いインクで描かれた複雑な魔法陣が広がっていた。
幾重にも絡み合う円と線、その隙間を埋める古代文字が蝋燭の揺らめきに合わせて不気味に影を落とす。
魔法陣の中央には、場違いなほどみすぼらしい木の椅子が一脚だけ置かれていた。
塗装は剥げ、脚はわずかに歪み、座面には古い染みがこびりついている。
まるで長い間、誰かの苦痛を受け止め続けてきたかのような沈んだ色をしていた。
「座れ」
アルゲンタイトの声は淡々としていたが、その響きは魔法陣の線を伝って足元から這い上がってくるようだった。
アデルは背筋を冷たい指でなぞられたような感覚に襲われながら、魔法陣の外周を一歩ずつ踏み越え、中央の椅子に腰を下ろす。
木の軋む音が、室内の静寂を裂いた。
バルド男爵は魔法陣から外れた椅子に座り、腕を組んでその様子をニヤニヤと見ていた。
セリウスが机から一冊の古びた本を取り上げ、アルゲンタイトへ手渡す。
革表紙はひび割れ、金具は黒ずみ、頁の縁は長い年月で黄ばんでいる。
アルゲンタイトは本を開き、低く呟くように読み上げた。
そこに記されていたのは、片方の瞳にかける古の呪術――
赫蒼ノ奈落(かくそうのならく)の呪い。
かつて、美と破滅を司るヴァニタス神が、傲慢な人間を罰するために与えたとされる瞳。
赫と蒼が交わる奈落の色を宿し、見つめた者の心と身体の傷を呪われた者に転写し、その代償として呪われた者が痛みを引き受けることで、相手は癒やされる。
だが、それは使うほどに精神と肉体を蝕み、やがて命を奪うことすらある――。
男爵の口元が、愉悦を含んで歪んだ。
「左目の茶黒の方にかけろ」
男爵の命に、アデルは小さく「いや…」と声を漏らした。
アルゲンタイトは無言で魔道具の拘束具を持ち上げ、冷たい金属が手首と足首を締め上げる。
机の上から掌ほどの大きさの魔石が取り上げられた。
深い紫の中に赤と青の光がゆらめき、内部で何かが脈打つように明滅している。
「……これを媒体にする。私の魔力だけでは、この呪いは掛けられん」
魔石の周囲に、用途も原理も分からぬ奇妙な魔道具が並べられる。
歯車のような輪、透明な管に満たされた銀色の液体、黒曜石の台座。
それらが魔法陣の外周に配置され、低い唸り声のような共鳴音を立て始めた。
空気が震え、室内の温度がじわりと下がる。
アルゲンタイトが本を開いたまま詠唱を始めると、魔石が脈動し、紫の光が赤と青に分かれて渦を巻いた。
その光がアデルの左目へと注ぎ込まれようとした瞬間――
アデルの右目、煌虹色の瞳が突如として強く輝いた。
まるで異物を拒むかのように、赫と蒼の光を弾き返す。
魔法陣の線が一瞬乱れ、魔石の光が不規則に明滅した。
「……抵抗している?……右目か……」
アルゲンタイトの額に汗が滲む。
魔道具の出力を上げ、魔石からさらに強い光を引き出す。
右目の輝きと左目に注ぎ込まれる呪いの光が、室内でぶつかり合い、火花のような魔力の粒が散った。
「抑え込む……!」
アルゲンタイトは詠唱を早め、両手で魔石を掴み、全身から魔力を絞り出す。
魔道具が甲高い音を立て、床の魔法陣が赤と青の二色に燃え上がった。
その一瞬――アデルの視界が、現実から剥がれ落ちた。
時が止まったような感覚の中、闇の奥、形容しがたい光に包まれた“何か”が立っている。
それは神々しいほどの輝きを放ちながらも、口元には不適な笑みを浮かべていた。
男でも女でもなく、年齢も種も判別できない。
ただ、その視線だけが、氷のように冷たく、炎のように熱く、アデルの存在を丸ごと見透かしていた。
――神なのか、悪魔なのか。
問いが浮かぶより早く、すぐさま現実に戻されその存在は赫と蒼の渦とともに左目へと流れ込み、視界を焼き尽くした。
アデルの身体がびくりと跳ね、喉から押し殺した悲鳴が漏れる。
右目の光は徐々に弱まり、やがて赫と蒼の渦が完全に左目へと押し込まれていった。
失神と覚醒を繰り返し、アデルの茶黒の瞳は、赫と蒼と黒が渦巻く不気味な輝きへと変わっていた。
アルゲンタイトは黒地に金糸の魔術刺繍が施された眼帯を取り出し、彼女の左目を覆う。
布が肌に触れた瞬間、渦巻く光は闇に封じられ、室内の空気がわずかに緩んだ。
「……呪いは成功しました」
息を荒げ、額の汗を拭いながら告げるアルゲンタイト。
「普段は眼帯で封じなければ暴走する可能性があり、命を落とす恐れがあるゆえこの眼帯をします」
男爵はその説明を聞き流し、酒を煽って喉を鳴らすと、口元に愉悦を浮かべた。
「これでまた楽しみが増えた」
やがてバルド男爵とセリウスは部屋を去り、残されたアルゲンタイトはアデルに付けられていた拘束具を外し、ぐったりと力を失ったアデルを抱き上げた。
魔法陣の光はすでに消え、ただ焦げた香草と金属の匂いだけが残っている。
奴隷小屋に戻ると、アルゲンタイトはアデルを藁の寝床にそっと横たえた。
治癒魔術を施し、呼吸と脈を確かめる。
枕元に一枚の紙を置くと、何も言わずに背を向け、自室へと戻っていった。
やがて、浅い眠りから目を覚ましたアデルは、左目に重みと鈍い違和感を覚えた。
手を伸ばすと、眼帯の布地が指先に触れる。
枕元の紙を手に取り、震える視線で読み進めた。
そこには、赫蒼ノ奈落の性質と、アルゲンタイトにも解呪の方法は分からないことが簡潔に記されていた。
「……」
小さく嗚咽を漏らし、紙を胸に抱きしめる。
夜、リリィが戻ってきた。
その日のうちに屋敷内でアデルへの呪いの噂は広まり、彼女の耳にも届いていた。
「アデルちゃん…」
涙を浮かべて抱きしめるリリィに、アデルも静かに涙を返す。
「お腹、空いたでしょ?」
リリィは切れ目の入ったパンに、肉と野菜を挟んだ温かな包みを差し出した。
「グランさんが、アデルちゃんにって」
アデルは「…ありがとう」と呟き、ゆっくりと噛みしめた。
パンの温もりと肉の旨味が、冷え切った胸の奥にじんわりと広がる。
やがてカイラとノームも戻り、言葉少なに彼女を気遣った。
その夜、アデルは声を殺し、枕を濡らしながら眠りに落ちた。
外では冬の風が屋根を撫で、遠くで犬の遠吠えが響く。
赫と蒼の奈落は、静かにその瞳の奥で渦を巻き続けていた。
赫蒼ノ奈落(かくそうのならく)の呪い
かつて、傲慢な人間たちを罰するために、美しさと破滅を司るヴァニタス神が与えた「赫蒼ノ奈落」の瞳。
• 赫(かく=強い紅)+蒼+奈落(深い闇の底)色をしている。
• 紅と蒼が交わる奈落の底。美しさと破滅の象徴。
• 見つめる者を奈落へと引きずり込むような美しい瞳。
•その瞳で見た者の心の傷や体の痛みがアデルに転写される。
• 彼女はその瞳で誰かを見れば見るほど、その人の苦しみを自分の身体に刻む。呪いの代償として、アデルが痛みを受け取ることで、見つめられた側の人間はその苦しみから解放され、癒やされる。