銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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第十五話 赫蒼、鎖に繋がれぬまま

 冬の曇天が屋敷を覆い、光は鈍く、空気は冷たく張り詰めていた。

 調理場で野菜を刻んでいたアデルの背後に、ミレナの声が落ちる。

 「男爵様がお呼びよ」

 その声音は固く、視線はアデルを見ていなかった。

 

 案内されたのは、男爵の私室。

 扉を開けると、暖炉の火が赤々と燃え、酒の匂いが漂っていた。

 バルド男爵は椅子にふんぞり返り、手には半分ほど減ったグラス。

 その前には、見知らぬ中年の男が一人、深く椅子に沈んでいる。

 顔色は悪く、肩は重く垂れ下がっていた。

 

 「こいつは領内の商人だ。最近、妙に覇気がなくてな」

 男爵は愉快そうに笑い、アデルを顎で示す。

 「お前の“新しい目”で見てやれ。すぐに元気になるだろうよ」

 

 背筋に冷たいものが走る。

 「……嫌」

 小さな声は、暖炉の爆ぜる音にかき消された。

 バルド男爵は笑みを崩さず、しかし声を低くする。

 「命令だ」

 

 部屋の隅に立つセリウスは視線を動かさず、アルゲンタイトは壁際で腕を組んだまま何も言わない。

 男爵の手が伸び、眼帯を乱暴に外す。赫と蒼と黒が渦巻く左目が露わになった。

 視界が開いた瞬間、瞳の奥で何かが脈打ち、熱を帯びる。

 

 「その男を見ろ」

 

 命じられるまま、アデルは視線を向けた。

 次の瞬間、商人の瞳が大きく見開かれ、深い影が溶け出すようにアデルの中へ流れ込んでくる。

 胸を締め付ける痛み、息を奪う重さ、骨の奥まで染み込む疲労感――

 それは商人が長年抱えてきた苦しみと絶望だった。

 

 膝をつき、喉から押し殺した声が漏れる。

 男爵はその様子を見て、満足げに酒をあおった。

 「ほら、顔色が戻ってきたじゃないか」

 確かに商人の表情は幾分和らぎ、肩の力が抜けていた。

 だが、その代償はすべてアデルの中に刻まれていた。

 

 視界が揺れ、吐き気が込み上げる。

 セリウスが静かに歩み寄り、眼帯を戻す。

 「…もう十分でしょう」

 

 バルド男爵はニヤつきながら手を振り、「下がれ」とだけ言った。

 アデルはふらつきながら部屋を出ると、廊下の冷気が火照った身体に突き刺さる。

 胸の奥で、赫蒼ノ奈落がまだ微かに脈打っていた。

 

 奴隷小屋に戻ると、リリィが駆け寄った。

 「アデルちゃん、顔が真っ白……」

 首を振り、藁の上に身を沈める。

 目を閉じても、あの瞬間に流れ込んだ痛みと絶望が消えない。

 それでも、心の奥で小さく誓った。

 ――この力を、あの男のためではなく、自分のために使える日を必ず作る。

 

 翌日夜明け前の中庭は、霜を踏む音だけが響いていた。

 吐く息は白く、空はまだ群青色のまま。

 アデルは外套を羽織り、アルゲンタイトの前に立つ。

 

 「今日は、赫蒼を“呼び出さない”訓練だ」

 低く落ち着いた声が、冷気を震わせる。

 「呼び出すのではなく、呼びかけられても応じない。それができなければ、お前はいつまでも男爵の道具だ」

 

 無言で頷くと、アルゲンタイトは眼帯越しに手を近づけ、魔力を込めた。

 胸の奥で赫蒼ノ奈落がざわめき、視界の端が赤と蒼に染まりかける。

 

 「…来るぞ」

 圧迫感が増し、心臓が早鐘を打つ。

 力が勝手に溢れ出そうとする――奥歯を噛み、深く息を吐く。

 

 「……まだだ。押し返せ」

 耳鳴りのような脈動を、呼吸に意識を縛りつけて静めていく。

 

 やがてアルゲンタイトは足を止めた。

 「……よし。今の感覚を忘れるな」

 わずかに満足の色があった。

 

 

 

 翌日、庭の中央に立つアデルの前に、領民の若い男が立たされていた。

 「今日は“実戦”だ」

 アルゲンタイトの声は低く冷たい。

 「赫蒼を呼び出し、対象を見据えろ。ただし暴走させるな」

 

 眼帯を外すと、赫と蒼と黒が渦を巻く左目が冬の光を受けて輝く。

 胸の奥で赫蒼がざわめき、熱を帯びた脈動が全身を駆け巡る。

 

 視線を合わせた瞬間、男の中の痛みが流れ込んだ。

 幼い頃に失った家族、飢えと寒さ、孤独の影――胸を締め付ける痛みが渦を膨れ上がらせる。

 

 「抑えろ!」

 アルゲンタイトの声が鋭く飛ぶ。

 

 呼吸を深くし、渦を鎖で縛るように念じる。

 痛みは波のように押し寄せ、意識をさらおうとするが、両足を踏みしめて吐く息ごとに勢いを削いでいく。

 

 やがて赫蒼の光は脈動を弱め、男の表情が和らいだ。

 その瞬間、渦を胸の奥に押し戻し、眼帯を戻す。

 

 「……よくやった。半分成功だ」

 アルゲンタイトは背を向ける。

 「次は、完全に縛り切る」

 

 アデルはその背中を見つめ、拳を握った。

 ――この力を、必ず自分の意思で使いこなすと誓った。

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