冬の曇天が屋敷を覆い、光は鈍く、空気は冷たく張り詰めていた。
調理場で野菜を刻んでいたアデルの背後に、ミレナの声が落ちる。
「男爵様がお呼びよ」
その声音は固く、視線はアデルを見ていなかった。
案内されたのは、男爵の私室。
扉を開けると、暖炉の火が赤々と燃え、酒の匂いが漂っていた。
バルド男爵は椅子にふんぞり返り、手には半分ほど減ったグラス。
その前には、見知らぬ中年の男が一人、深く椅子に沈んでいる。
顔色は悪く、肩は重く垂れ下がっていた。
「こいつは領内の商人だ。最近、妙に覇気がなくてな」
男爵は愉快そうに笑い、アデルを顎で示す。
「お前の“新しい目”で見てやれ。すぐに元気になるだろうよ」
背筋に冷たいものが走る。
「……嫌」
小さな声は、暖炉の爆ぜる音にかき消された。
バルド男爵は笑みを崩さず、しかし声を低くする。
「命令だ」
部屋の隅に立つセリウスは視線を動かさず、アルゲンタイトは壁際で腕を組んだまま何も言わない。
男爵の手が伸び、眼帯を乱暴に外す。赫と蒼と黒が渦巻く左目が露わになった。
視界が開いた瞬間、瞳の奥で何かが脈打ち、熱を帯びる。
「その男を見ろ」
命じられるまま、アデルは視線を向けた。
次の瞬間、商人の瞳が大きく見開かれ、深い影が溶け出すようにアデルの中へ流れ込んでくる。
胸を締め付ける痛み、息を奪う重さ、骨の奥まで染み込む疲労感――
それは商人が長年抱えてきた苦しみと絶望だった。
膝をつき、喉から押し殺した声が漏れる。
男爵はその様子を見て、満足げに酒をあおった。
「ほら、顔色が戻ってきたじゃないか」
確かに商人の表情は幾分和らぎ、肩の力が抜けていた。
だが、その代償はすべてアデルの中に刻まれていた。
視界が揺れ、吐き気が込み上げる。
セリウスが静かに歩み寄り、眼帯を戻す。
「…もう十分でしょう」
バルド男爵はニヤつきながら手を振り、「下がれ」とだけ言った。
アデルはふらつきながら部屋を出ると、廊下の冷気が火照った身体に突き刺さる。
胸の奥で、赫蒼ノ奈落がまだ微かに脈打っていた。
奴隷小屋に戻ると、リリィが駆け寄った。
「アデルちゃん、顔が真っ白……」
首を振り、藁の上に身を沈める。
目を閉じても、あの瞬間に流れ込んだ痛みと絶望が消えない。
それでも、心の奥で小さく誓った。
――この力を、あの男のためではなく、自分のために使える日を必ず作る。
翌日夜明け前の中庭は、霜を踏む音だけが響いていた。
吐く息は白く、空はまだ群青色のまま。
アデルは外套を羽織り、アルゲンタイトの前に立つ。
「今日は、赫蒼を“呼び出さない”訓練だ」
低く落ち着いた声が、冷気を震わせる。
「呼び出すのではなく、呼びかけられても応じない。それができなければ、お前はいつまでも男爵の道具だ」
無言で頷くと、アルゲンタイトは眼帯越しに手を近づけ、魔力を込めた。
胸の奥で赫蒼ノ奈落がざわめき、視界の端が赤と蒼に染まりかける。
「…来るぞ」
圧迫感が増し、心臓が早鐘を打つ。
力が勝手に溢れ出そうとする――奥歯を噛み、深く息を吐く。
「……まだだ。押し返せ」
耳鳴りのような脈動を、呼吸に意識を縛りつけて静めていく。
やがてアルゲンタイトは足を止めた。
「……よし。今の感覚を忘れるな」
わずかに満足の色があった。
翌日、庭の中央に立つアデルの前に、領民の若い男が立たされていた。
「今日は“実戦”だ」
アルゲンタイトの声は低く冷たい。
「赫蒼を呼び出し、対象を見据えろ。ただし暴走させるな」
眼帯を外すと、赫と蒼と黒が渦を巻く左目が冬の光を受けて輝く。
胸の奥で赫蒼がざわめき、熱を帯びた脈動が全身を駆け巡る。
視線を合わせた瞬間、男の中の痛みが流れ込んだ。
幼い頃に失った家族、飢えと寒さ、孤独の影――胸を締め付ける痛みが渦を膨れ上がらせる。
「抑えろ!」
アルゲンタイトの声が鋭く飛ぶ。
呼吸を深くし、渦を鎖で縛るように念じる。
痛みは波のように押し寄せ、意識をさらおうとするが、両足を踏みしめて吐く息ごとに勢いを削いでいく。
やがて赫蒼の光は脈動を弱め、男の表情が和らいだ。
その瞬間、渦を胸の奥に押し戻し、眼帯を戻す。
「……よくやった。半分成功だ」
アルゲンタイトは背を向ける。
「次は、完全に縛り切る」
アデルはその背中を見つめ、拳を握った。
――この力を、必ず自分の意思で使いこなすと誓った。