銀翼の奈落姫   作:虎屋敷はにわ

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第十六話 赫蒼の奇跡、異端の囁き

 アルゲンタイトとの訓練を重ね、赫蒼ノ奈落の奔流を辛うじて制御できるようになった頃、それは訪れた。

 

 夜明け前、まだ空が群青色を残す刻。

 浅い眠りから目を覚ましたアデルの胸の奥に、重く沈む感覚が広がっていた。

 ――今日は「人前に立つ日」。

 それは彼女にとって、戦場に赴くのと同じ緊張を伴っていた。

 

 奴隷小屋の扉が軋み、低く短い声が落ちる。

 「支度だ」

 アルゲンタイトの声音は、余計な感情を削ぎ落とした刃のようだった。

 

 藁のベッドから冷たい床に足を下ろし、立ち上がる。

 リリィは毛布を握りしめ、カイラは眉を寄せ、ノームは無言で頷いた。

 その視線を背に、アデルは屋敷へ向かう。

 

 支度部屋の洗面台で顔を洗うと、冷水が頬を刺した。

 鏡に映るのは、まだあどけなさの残る自分の顔。

 だが今日、それを人に見せることは許されない。

 

 机の上には、白地に銀糸を縫い込んだ覆面と淡い灰色の衣装が置かれていた。

 昨日、男爵は言った。

 「お前の素顔は隠せ。人々は“人”ではなく“奇跡”を見たいのだ」

 

 覆面は、アデルを一人の少女から「赫蒼ノ癒やし手」という象徴へと変えるための道具。

 同時に、力を使うたびに流れ込む他人の痛みや感情から、わずかでも自分を守る盾でもあった。

 

 布の冷たさが指先に伝わる。

 頬に当て、紐を結ぶと、視界の端が狭まり、呼吸の音が内側でこもった。

 その瞬間、自分が「アデル」ではなくなる感覚があった。

 

 廊下に出ると、屋敷はすでに慌ただしい。

 赤い絨毯が敷かれ、磨き上げられた燭台が壁に並び、香油の匂いが漂う。

 使用人たちは低い声で指示を交わし、兵士たちは観衆の誘導のために持ち場へ散っていく。

 

 正面玄関前では、バルド男爵が広場に向かって声を張り上げていた。

 「領民よ! 商人よ! 兵士よ! 本日、我が庇護のもとに奇跡が行われる!」

 広場には、病を抱えた老人、戦で傷を負った兵士、噂を確かめたい商人、物見高い子供たちまでが集まっていた。

 吐く息は白く、足元の雪は踏み固められて薄く光っている。

 人々は兵士の検めを受けながら、列を作って邸内へと入っていった。

 

 カーテンの陰でその声を聞きながら、アデルは覆面の内側で静かに息を吐く。

 横に立つアルゲンタイトが低く囁く。

 「行くぞ。…もう後戻りはできん」

 小さく頷き、足を一歩前に出す。

 

 大広間は厚いカーテンで冬の冷気を遮り、燭台の炎が黄金色の光を床に落としていた。

 壁際には領内の有力者や商人たちが並び、前列には兵士や役人が控えている。

 観衆のざわめきは、期待と好奇心と半信半疑が入り混じった音の波だった。

 

 中央の台座に、覆面をつけたアデルが立つ。

 白地に銀糸を縫い込んだ布は光を受けて淡く輝き、視線が一斉に集まる。

 「小さい…」「子供じゃないか」「人間なのか?」「なんだあの仮面は…」

 囁きが四方から押し寄せる。

 

 玉座に座るバルド男爵は、ゆったりと手を広げた。

 「これより“癒やしの儀”を始める」

 その声に、ざわめきが静まり返る。

 

 最初の患者が兵士に伴われて台座へ進み出る。

 アデルは覆面の奥で瞼を閉じ、赫蒼ノ奈落を半解放した。

 胸の奥から冷たくも熱い奔流がせり上がり、相手の苦しみが映像と感情となって流れ込む。

 

 その瞬間、兵士の腕にあった深い裂傷が、まるで影が移るようにアデルの左腕へと走った。

 覆面の下で息が詰まり、鋭い痛みが骨まで響く。

 袖口から赤い血が一筋、床に落ち、観衆の一部が息を呑む。

 

 だが、赫蒼の渦がさらに脈打つと、傷口は音もなく閉じ始めた。

 血が止まり、皮膚が再び繋がり、数呼吸のうちに跡形もなく消える。

 兵士の腕も同時に癒え、彼は信じられないという顔で自分の手を握り開きしている。

 「……治っている……」

 その呟きが観衆に伝わり、ざわめきが広がった。

 

 背後のアルゲンタイトが掌をかざし、温かな光を背中から流し込む。

 それは傷を治すものではなく、今の一瞬で消耗した体力と気力を補うためのものだった。

 

 二人目は腰を曲げた老女。

 彼女の背中の痛みが、アデルの腰へと重くのしかかる。

 骨が軋む感覚に思わず息を呑むが、赫蒼の渦がそれを呑み込み、瞬く間に痛みは消えた。

 老女は背筋を伸ばし、涙を浮かべて深く頭を下げる。

 観衆の中から「奇跡だ…」という声が上がった。

 

 三人目は戦で片足を負傷した若い兵士。

 彼の足の鈍痛と痺れが、アデルの脚に移る。

 膝がわずかに折れかけるが、赫蒼がそれを飲み込み、血の巡りが戻る感覚と共に痛みが消える。

 兵士はその場で足踏みをし、驚きと喜びの入り混じった笑みを浮かべた。

 

 四人目、五人目と続くたび、観衆の熱は高まっていく。

 「本物だ」「神の御業だ」――そんな囁きが波のように広がる。

 人々の目は、もはや覆面の奥の素顔ではなく、その力そのものに釘付けになっていた。

 

 やがて十数人を癒やし終え、バルド男爵が立ち上がる。

 「見よ! これが我が庇護の力だ!」

 歓声と拍手が大広間を満たす。

 

 その喧騒の中、王国教会から派遣された司祭が男爵のもとへ歩み寄った。

 白い法衣の裾が赤い絨毯を擦り、金糸の聖印が揺れる。

 彼は低く、しかし周囲にも届く声で言った。

 「閣下……この癒しは、我らが教義にも記されぬもの。

  もしや、正しき神の御業ではなく、異端や……邪なる力によるものではありませんか」

 

 その言葉に、近くの観衆がざわめく。

 男爵は一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。

 「司祭殿、あなたほどの学識ある方が、神の御業を“異端”と呼ぶとは驚きですな」

 声は穏やかだが、響きはよく通る。

 

 「我らが目にしているのは、神が選び、我が領に授けた恩寵。

  その形が聖典に記されていないからといって、神の御心から外れていると、誰が断言できましょう」

 

 司祭は口を開きかけたが、男爵は一歩前に出て観衆へ向き直る。

 「むしろ、今日この場に立ち会った皆こそが証人です。

  この癒しが、病める者を立たせ、傷ついた者を歩ませたことを――」

 

 歓声が再び広がり、司祭の言葉は熱狂の渦にかき消された。

 男爵はその波を背に、司祭へだけ聞こえる声で囁く。

 「……異端かどうかを決めるのは、教会ではなく、この地を治める私と、ここに生きる民だ」

 

 司祭は眉を寄せ、しかしそれ以上は何も言わなかった。

 その視線は覆面の少女に向けられたが、アデルは足元の台座の冷たさと、胸の奥でなお脈打つ赫蒼の疼きだけを感じていた。

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