アルゲンタイトとの訓練を重ね、赫蒼ノ奈落の奔流を辛うじて制御できるようになった頃、それは訪れた。
夜明け前、まだ空が群青色を残す刻。
浅い眠りから目を覚ましたアデルの胸の奥に、重く沈む感覚が広がっていた。
――今日は「人前に立つ日」。
それは彼女にとって、戦場に赴くのと同じ緊張を伴っていた。
奴隷小屋の扉が軋み、低く短い声が落ちる。
「支度だ」
アルゲンタイトの声音は、余計な感情を削ぎ落とした刃のようだった。
藁のベッドから冷たい床に足を下ろし、立ち上がる。
リリィは毛布を握りしめ、カイラは眉を寄せ、ノームは無言で頷いた。
その視線を背に、アデルは屋敷へ向かう。
支度部屋の洗面台で顔を洗うと、冷水が頬を刺した。
鏡に映るのは、まだあどけなさの残る自分の顔。
だが今日、それを人に見せることは許されない。
机の上には、白地に銀糸を縫い込んだ覆面と淡い灰色の衣装が置かれていた。
昨日、男爵は言った。
「お前の素顔は隠せ。人々は“人”ではなく“奇跡”を見たいのだ」
覆面は、アデルを一人の少女から「赫蒼ノ癒やし手」という象徴へと変えるための道具。
同時に、力を使うたびに流れ込む他人の痛みや感情から、わずかでも自分を守る盾でもあった。
布の冷たさが指先に伝わる。
頬に当て、紐を結ぶと、視界の端が狭まり、呼吸の音が内側でこもった。
その瞬間、自分が「アデル」ではなくなる感覚があった。
廊下に出ると、屋敷はすでに慌ただしい。
赤い絨毯が敷かれ、磨き上げられた燭台が壁に並び、香油の匂いが漂う。
使用人たちは低い声で指示を交わし、兵士たちは観衆の誘導のために持ち場へ散っていく。
正面玄関前では、バルド男爵が広場に向かって声を張り上げていた。
「領民よ! 商人よ! 兵士よ! 本日、我が庇護のもとに奇跡が行われる!」
広場には、病を抱えた老人、戦で傷を負った兵士、噂を確かめたい商人、物見高い子供たちまでが集まっていた。
吐く息は白く、足元の雪は踏み固められて薄く光っている。
人々は兵士の検めを受けながら、列を作って邸内へと入っていった。
カーテンの陰でその声を聞きながら、アデルは覆面の内側で静かに息を吐く。
横に立つアルゲンタイトが低く囁く。
「行くぞ。…もう後戻りはできん」
小さく頷き、足を一歩前に出す。
大広間は厚いカーテンで冬の冷気を遮り、燭台の炎が黄金色の光を床に落としていた。
壁際には領内の有力者や商人たちが並び、前列には兵士や役人が控えている。
観衆のざわめきは、期待と好奇心と半信半疑が入り混じった音の波だった。
中央の台座に、覆面をつけたアデルが立つ。
白地に銀糸を縫い込んだ布は光を受けて淡く輝き、視線が一斉に集まる。
「小さい…」「子供じゃないか」「人間なのか?」「なんだあの仮面は…」
囁きが四方から押し寄せる。
玉座に座るバルド男爵は、ゆったりと手を広げた。
「これより“癒やしの儀”を始める」
その声に、ざわめきが静まり返る。
最初の患者が兵士に伴われて台座へ進み出る。
アデルは覆面の奥で瞼を閉じ、赫蒼ノ奈落を半解放した。
胸の奥から冷たくも熱い奔流がせり上がり、相手の苦しみが映像と感情となって流れ込む。
その瞬間、兵士の腕にあった深い裂傷が、まるで影が移るようにアデルの左腕へと走った。
覆面の下で息が詰まり、鋭い痛みが骨まで響く。
袖口から赤い血が一筋、床に落ち、観衆の一部が息を呑む。
だが、赫蒼の渦がさらに脈打つと、傷口は音もなく閉じ始めた。
血が止まり、皮膚が再び繋がり、数呼吸のうちに跡形もなく消える。
兵士の腕も同時に癒え、彼は信じられないという顔で自分の手を握り開きしている。
「……治っている……」
その呟きが観衆に伝わり、ざわめきが広がった。
背後のアルゲンタイトが掌をかざし、温かな光を背中から流し込む。
それは傷を治すものではなく、今の一瞬で消耗した体力と気力を補うためのものだった。
二人目は腰を曲げた老女。
彼女の背中の痛みが、アデルの腰へと重くのしかかる。
骨が軋む感覚に思わず息を呑むが、赫蒼の渦がそれを呑み込み、瞬く間に痛みは消えた。
老女は背筋を伸ばし、涙を浮かべて深く頭を下げる。
観衆の中から「奇跡だ…」という声が上がった。
三人目は戦で片足を負傷した若い兵士。
彼の足の鈍痛と痺れが、アデルの脚に移る。
膝がわずかに折れかけるが、赫蒼がそれを飲み込み、血の巡りが戻る感覚と共に痛みが消える。
兵士はその場で足踏みをし、驚きと喜びの入り混じった笑みを浮かべた。
四人目、五人目と続くたび、観衆の熱は高まっていく。
「本物だ」「神の御業だ」――そんな囁きが波のように広がる。
人々の目は、もはや覆面の奥の素顔ではなく、その力そのものに釘付けになっていた。
やがて十数人を癒やし終え、バルド男爵が立ち上がる。
「見よ! これが我が庇護の力だ!」
歓声と拍手が大広間を満たす。
その喧騒の中、王国教会から派遣された司祭が男爵のもとへ歩み寄った。
白い法衣の裾が赤い絨毯を擦り、金糸の聖印が揺れる。
彼は低く、しかし周囲にも届く声で言った。
「閣下……この癒しは、我らが教義にも記されぬもの。
もしや、正しき神の御業ではなく、異端や……邪なる力によるものではありませんか」
その言葉に、近くの観衆がざわめく。
男爵は一瞬だけ目を細めたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「司祭殿、あなたほどの学識ある方が、神の御業を“異端”と呼ぶとは驚きですな」
声は穏やかだが、響きはよく通る。
「我らが目にしているのは、神が選び、我が領に授けた恩寵。
その形が聖典に記されていないからといって、神の御心から外れていると、誰が断言できましょう」
司祭は口を開きかけたが、男爵は一歩前に出て観衆へ向き直る。
「むしろ、今日この場に立ち会った皆こそが証人です。
この癒しが、病める者を立たせ、傷ついた者を歩ませたことを――」
歓声が再び広がり、司祭の言葉は熱狂の渦にかき消された。
男爵はその波を背に、司祭へだけ聞こえる声で囁く。
「……異端かどうかを決めるのは、教会ではなく、この地を治める私と、ここに生きる民だ」
司祭は眉を寄せ、しかしそれ以上は何も言わなかった。
その視線は覆面の少女に向けられたが、アデルは足元の台座の冷たさと、胸の奥でなお脈打つ赫蒼の疼きだけを感じていた。