「支度を」
バルド男爵の命が下ったのは、まだ朝の冷気が屋敷の廊下に漂う頃だった。
アデルは、今日がその日――社交界へ連れて行かれる日であることを知っていた。
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出発の朝、アデルは屋敷の奥にある使用人用の浴室へと案内された。
普段は奴隷に使わせることのない場所――石造りの床に湯気が立ちこめ、壁には磨かれた銅の蛇口が並んでいる。
ミレナとエリスが待っていた。
「今日は特別だからね。綺麗にしてあげる」
ミレナがそう言って、袖をまくる。
アデルは戸惑いながらも、言われるままに服を脱ぎ、湯の中へと足を入れた。
温かさが肌を包み、緊張が少しずつほどけていく。
ミレナが背中を流し、エリスが髪を丁寧に洗う。
二人の手つきは慣れていて、優しく、どこか母のようだった。
「くすぐったいです……」
アデルが小さく呟くと、ミレナが笑った。
「照れてるの? かわいいわね」
エリスもくすりと笑いながら、髪に香草の香りをなじませる。
「大丈夫。誰よりも綺麗にしてあげるから」
湯の中でアデルは、少しだけ目を閉じた。
この温もりが、これから向かう場所の冷たさを少しでも和らげてくれるような気がした。
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アデルは新しい奴隷服に着替え、頑丈な木箱の前に立っていた。
ミレナがそっと近づき、小さな包みを差し出す。
中には、乾いたパンと水の入った革袋。
「長い道のりになるわ。少しでも、落ち着けるように」
その声は、静かで優しかった。
アデルは受け取りながら、わずかに目を伏せた。
「……ありがとうございます」
ミレナは箱の蓋に手を添え、最後にアデルの髪を軽く撫でた。
「向こうでまた、綺麗にしてあげるから。今は、少しだけ我慢ね」
アデルは頷き、箱の中へと身を滑り込ませた。
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内側は滑らかな木肌で、わずかな隙間から光と空気が差し込む。
だが、箱の中は狭く、圧迫感があった。
アデルは狭い空間が好きではなかった。
息苦しさよりも、動けないことへの不安が胸を締めつける。
膝を抱えて身を縮めると、木の匂いが鼻をくすぐり、過去の記憶が微かに揺れた。
それでも、彼女は暴れたり魔術で壊したりはしなかった。
静かに、ただ静かに、箱の中で時間をやり過ごした。
時折、隙間から差し込む光が、木肌に柔らかな模様を描いた。
馬車が揺れるたび、その光は形を変え、まるで水面のように揺れていた。
遠くに見える空の青、通り過ぎる木々の緑、鳥のさえずり。
箱の隙間から見える世界は、切り取られた絵のように小さく、けれど確かに美しかった。
アデルはその景色に目を細め、ほんの少しだけ心を落ち着けた。
閉じ込められているのではなく、運ばれている――そう思うことで、わずかに呼吸が楽になった。
ミレナから渡されたパンを少しずつかじり、水を口に含む。
その味は淡く、けれど確かに温もりを運んでいた。
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やがて馬車が止まり、外が騒がしくなる。
荷物が運び出される音の中、アデルの入った木箱が持ち上げられると、バルド男爵の声が響いた。
「それを手荒く扱うな!」
運び手の動きが慎重になり、木箱はどこかへ運び込まれた。
静寂が訪れ、やがて木箱にノックの音。
鍵が外れ、蓋が開く。
ミレナがいた。
柔らかな微笑を浮かべ、手を差し伸べる。
「お疲れさま。さあ、こっちへ」
アデルはその手を取り、箱から出る。
冷えた空気の中、ミレナの手は温かかった。
案内された部屋には、蒼と銀糸のドレス、繊細な宝飾品、髪飾り、化粧道具が整然と並んでいた。
ミレナは黙ってアデルの髪を梳き始める。
その手つきは、母が娘を送り出すような丁寧さと優しさに満ちていた。
「今日は、誰よりも綺麗でいてね」
そう囁く声は、どこか誇らしげだった。
髪を結い、耳元に小さな宝石を飾り、首元には細い鎖のネックレス。
ドレスを着せると、銀糸が光を受けて淡く輝き、深い蒼が肌の白さを際立たせた。
ミレナは化粧道具を手に取り、頬に薄く紅を差し、瞼に光を添える。
鏡の中の少女は、もはや奴隷服のアデルではなかった。
煌虹色の右目が宝石のように浮かび上がり、どこぞの姫君のような気品を纏っていた。
アデルは思わず息を呑み、鏡に映る自分を見つめた。
「……これが、私……」
くるりと一回、鏡の前で回ってみる。
ドレスの裾がふわりと広がり、光が銀糸に踊る。
ミレナは笑いながら、小さな拍手を送った。
「完璧よ。誰が見ても、目を奪われるわ」
アデルは頬を染め、視線を伏せた。
その胸の奥には、誇らしさと戸惑いが静かに混ざっていた。
鏡の中の自分を見つめながら、アデルは静かに息を吐いた。
美しく仕立てられた姿に、誇らしさと戸惑いが混ざる。
そのとき、扉にノックの音が響いた。
ミレナが「どうぞ」と声をかけると、セリウスが入ってきた。
彼は一瞬、言葉を失ったようにアデルを見つめた。
そして、わずかに目を細め、静かに頷いた。
「……予想通りだがこれなら、どこに出しても恥はない」
アデルは小さく会釈を返したが、すぐに少し恥ずかしそうに口を開いた。
「……あの、トイレに行きたいです。箱の中でずっと我慢してて……」
セリウスは一瞬だけ驚いたように目を瞬き、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「それは……そうだな、案内しよう。」
ミレナがくすりと笑いながら、ドレスの裾を整えてくれる。
「大丈夫よ。誰も気にしないわ。行ってらっしゃい」
アデルは頬を赤らめながら立ち上がり、セリウスの後を静かに歩いた。
その背中は、着飾られた姫君のようでありながら、まだ十二歳の少女のままだった。
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用を済ませ、洗面所で手を洗っていると、背後に気配を感じた。
振り向くと、赤髪の少女が立っていた。
年はアデルより少し上の十五ほど。華やかなドレスに身を包み、宝石のような瞳がアデルを見つめている。
その視線は一瞬も揺れず、やがて小さく、しかしはっきりと口を開いた。
「……綺麗」
その言葉は、驚きと憧れが混じった響きを帯びていた。
アデルはわずかに目を見開き、軽く会釈を返す。
何も言わず、静かに部屋を後にした。
赤髪の少女は言葉を探したが、颯爽と去る背中に声をかけられなかった。
再びセリウスに案内され、アデルは舞台裏の待機室へと移動した。
石造りの廊下の奥、厚手の布で仕切られた空間。
外では、笑い声や杯の音、楽器の調べが響いている。
アデルは椅子に腰を下ろし、膝の上で手を組んだ。
ドレスの裾がふわりと広がり、銀糸が燭台の光を受けて静かに揺れている。
セリウスが低い声で告げた。
「今夜の余興は、貴族たちが自慢の使用人を披露する場でもある。
踊り、歌、演奏、魔術、剣技――それぞれが、己の“所有物”の価値を示す」
アデルは静かに頷いた。
自分が“見られる”ためにここにいること。
美しさも、技も、赫蒼さえも――すべてが、男爵の誇示の一部なのだ。
「順番が来たら、私が呼ぶ。それまで、心を整えておきなさい」
セリウスはそう言い残し、廊下の向こうへと消えていった。