秋の風が、ヴェルノ村の畑を吹き抜けていた。
土は乾き、空は高く、収穫の終わりを告げる冷たい光が、少女の背を照らしていた。
アデルは九歳になっていた。
痩せた体に、擦り切れた革靴と麻布の外套。
鍬を握る手は小さく、指先はひび割れていた。
朝は水、昼は拾った木の実、夜は父と母の残した皿のパンくず。
父は働かず、酒ばかり飲んでいた。
母は家事をせず、家のことはすべてアデルが担っていた。
薪を割り、水を汲み、洗濯をし、畑を耕す。
誰にも褒められず、誰にも労われず、それでも彼女は黙って働いた。
その姿を、馬車の窓から見下ろしていた男がいた。
バルド・エルゼリオ・ヴァン・グレイシュ男爵。
贅沢な服を纏いながらも、だらしない体と下品な所作で、その品を台無しにしていた。
「……馬車を止めろ」
男爵の声に、従者が手綱を引いた。
馬車が軋みを立てて止まり、男爵は窓から身を乗り出す。
畑の隅で黙々と鍬を振るうアデルの姿に、男爵の目が釘付けになった。
その小柄な体は、まるでガラスケースに収められた磁器人形のようだった。
そして、右目に宿る煌虹色の光――そのアンバランスな美しさが、男爵の欲望を刺激した。
「……あれを買い取れ。銀貨三枚で」
従者が村長マルティンを呼びつけた。
脂ぎった顔に緊張を浮かべながら、マルティンは男爵の前に立つ。
「あれは…拾い子でございます。村の者ではありますが、正式な……まあ、戸籍などはこの地にはございませんので……」
「銀貨三枚だ。今すぐだ」
マルティンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……しかし、まだ子供でして。痩せていて、ろくに働けるかどうか……」
男爵の目が細くなる。
「逆らうのか?」
その一言で、マルティンの背筋が凍る。
彼は将来アデルを自分の世話係に使おうと目論んでいたが、貴族に恩を売る方が得だと判断した。
「い、いえ……とんでもございません。すぐに手配いたします」
男爵が銀貨三枚を差し出すと、マルティンはそれを受け取り、
そのうちの一枚を、誰にも見られぬよう懐に滑り込ませた。
アデルの父と母は、2枚の銀貨を見て顔を綻ばせた。
「やっと厄介者が片付く」「金になるなんて、運がいい」
だが、彼らは知らなかった。
奴隷の正式な申請手続きも踏まず、相場も無視したこの取引が、どれほど異常かを。
貴族の間では、奴隷一人に金貨一枚が相場。
美しい者なら十枚以上。
今のアデルなら、金貨数十枚の価値がある――男爵はそう確信していた。
だが、辺境の者たちは何も知らず、ただ喜んで頷いた。
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アデルは訳もわからぬまま馬車に乗せられた。
男爵の膝の上に座るよう命じられ、恐る恐る座る。
男爵は不気味に笑いながら、質問を始めた。
「名前は?」
「……アデルです」
「村はどんな村だ?」
「……寒くて、畑が少なくて……」
「両親は?」
「……父は、働いていません。酒ばかり……母は……何もしません」
震える声に、男爵はまた笑った。
その笑いは、何かを試すようで、何かを壊すようだった。
「年齢にしては、ずいぶん聡明だな。言葉も綺麗だ」
「……」
「気に入った」
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屋敷に着くと、男爵は全使用人と奴隷を呼び集めた。
広間には、黒の燕尾服を着た痩身の執事セリウスが立ち、名簿を確認していた。
彼の目は冷静で礼節に満ちていたが、アデルを見た瞬間、わずかに眉が動いた。
「今日からこの娘は我が屋敷の奴隷として働く」
一同が一瞬ざわめく。
九歳の少女――その美しさと瞳の異質さに、誰もが息を呑んだ。
「挨拶を」
アデルは小さな声で名を名乗った。
その声は、硝子のように儚く、しかし澄んでいた。
その響きに、一同は静まり返った。
メイドのミレナ・ロシュが前に出た。
快活で冷静な彼女は、アデルの教育係を命じられた。
「まずは、身なりを整えましょう。リリィついてきて」
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アデルが身体を洗われたのは、屋敷の台所の隅だった。
この場所は、奴隷たちが人目を避けて身体を洗うために使う、暗黙の習慣がある。
壁には煤がこびりつき、床は油で滑りやすく、普段は食事の準備で常に誰かが行き交う。
だがこの時間だけは、がらんとしていた。
部屋の中央には、煮炊きに使われる大きな暖炉があり、その隣に湯を沸かすための大釜が備え付けられている。
火はすでに落ちていたが、大釜の底にわずかに残った熱が、湯気を立ち上らせていた。
同じ奴隷の身分だというアデルより少し年上のリリィがその湯を桶ですくい、アデルの体を洗った。
「ちょっと冷たいけど、我慢してね……」
洗い終えると、ミレナが灰色の奴隷服と靴など一式を手渡した。
それは奴隷用とはいえ、意外にも質の良い布地で仕立てられていた。
屋敷の格式を保つため、見栄えだけは整えられているのだ。
灰色の上衣と膝丈のスカートは柔らかく、縫い目は丁寧で、革靴も足に馴染むように作られていた。
アデルはそれを受け取り、黙って着替えた。
袖を通すたび、これまでの自分が少しずつ剥がれ落ちていくような感覚があった。
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その夜。離れの奴隷小屋は冷え込み、藁にボロ布を敷いて薄い毛布の寝床にアデルは小さく丸まっていた。
眠りは浅く、目を閉じても心は落ち着かない、これから自分はどうなるのだろう。
扉が静かに開き、ミレナが疲れた顔で立っていた。
「……アデル。男爵様が呼んでいるわ」
その言葉に空気が張り詰めた。
隣のリリィが目を見開き、布団を握りしめる。
カイラは眉をひそめ、ノームは読んでいた詩を止めた。
アデルは何も言わずに立ち上がり、ミレナに連れられて屋敷の奥へ向かった。
廊下は静まり返り、灯りは少なく、壁に映る影が不気味に長く伸びていた。
男爵の部屋の前で、ミレナは足を止め、アデルの肩に手を置いて低く囁いた。
「……自分を、強く持ちなさい。誰にも、奪わせないで」
重い扉が音を立てて開き、アデルは中へと導かれた。
その夜、彼女は誰にも言えない記憶を抱えて戻ってきた。
背中には、魔術で刻まれた奴隷の印。
顔は涙の跡。
それは主人に逆らえぬ呪いの証。
焼けるような痛みが皮膚の奥にまで染み込み、呼吸をするたび胸が軋んだ。
アデルはこれからの自分の運命を嘆き小さな声で泣いて眠りについた。
ただ、瞳の奥に宿った影が、彼女が何を経験したかを物語っていた。
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翌朝。
身体中が痛むのに、いつもの癖で早く目が覚めた。
見慣れぬ天井、冷たい空気。
昨夜の出来事は、身体がすべて覚えていた。
夢ではなかったのだ。
隣の藁布団で、リリィが眠たそうに起き上がる。
「アデルちゃん……大丈夫?」
「……うん。大丈夫」
カイラは静かにアデルの髪を撫で、ノームは何も言わず詩を口ずさんでいた。
誰も何も聞かない。
けれど、皆がアデルを気にかけていた。
そのとき、扉が開き、ミレナが立っていた。
いつもの冷静な顔に、わずかな疲れが滲んでいる。
「今日から屋敷の仕事を覚えるわ。まずは私と一日、動いてもらう」
アデルは静かに立ち上がった。
痛む体を引きずりながら。
灰色の奴隷服は昨日渡されたもの。
布地は柔らかく、縫製も丁寧で、革靴は足に馴染んでいた。
指先の震えを感じながらも、アデルの瞳の奥には昨日とは違う光が宿っていた。
それは、痛みの中で生まれた最初の意志。
この世界で生きるための、最初の選択だった。
バルド・エルゼリオ・ヴァン・グレイシュ男爵。