控室の扉が静かに開き、セリウスが姿を見せた。
「……来なさい。順番だ」
アデルは立ち上がった。
その瞬間、眼帯の下で赫蒼ノ奈落が微かに脈打つ。
封じられた呪いが、舞台の気配に呼応するように静かに震えた。
右目の煌虹色の瞳が、部屋の燭台の光を受けて淡く輝く。
その光は、宝石のようでありながら、どこか人ならざる冷たさを帯びていた。
セリウスはその瞳に一瞬だけ目を留め、何か声をかけようとした。
だが、アデルの横顔を見て言葉を飲み込む。
その瞳は、怯えでも不安でもなかった。
ただ、舞台に向けられた真剣な眼差しだった。
「……大丈夫だな」
セリウスは小さく呟き、アデルの背を押すことなく、ただ一歩だけ前に出た。
廊下を進むと、遠くから音楽とざわめきが聞こえてくる。
社交界――それは絢爛と虚飾が交錯する舞台。
貴族、商人、魔術師、冒険者。
力と富と名声が、香水のように空気に漂っていた。
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広間の中央には、円形の舞台が設けられていた。
周囲には絹張りの椅子が並び、着飾った人々が杯を傾けながら余興を眺めている。
アデルの前にも、何人かの使用人が順番に舞台に立っていた。
大道芸人が火を操り、歌い手が古の詩を歌い、詩人が即興で韻を紡ぐ。
だが、観客の反応は容赦なかった。
つまらないと判断されれば、果物が容赦なく投げつけられた。
リンゴ、柑橘、皮付きの果実が舞台に転がり、演者は顔を引きつらせて退場する。
笑い声が起こり、貴族たちは面白がって杯を掲げた。
一方、うまくやれた者には拍手が起こり、数枚の銀貨が舞台に投げ込まれた。
だがそれは、ほんのわずかな評価にすぎなかった。
この場では、芸も美も、すべてが“所有者の価値”として測られていた。
アデルはその光景に動揺することなく、静かに舞台袖に立っていた。
眼帯の下で赫蒼ノ奈落が脈打ち、煌虹色の瞳が燭台の光を受けて淡く輝いていた。
銀糸のドレスが燭台の光を受けて淡く輝く。
舞台に立った瞬間、ざわめきが走る。
「子供か?」「あの眼帯は……」「妙な気配があるな」「あの瞳は…」
アデルは深く一礼し、音楽が始まる。
その瞬間、空気が変わった。
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一歩、また一歩。
足音は絨毯に吸われ、腕の動きが空気を切る。
腰のしなり、指先の流れ、首の傾き――
すべてが記憶の中の踊り子の姿と、今の自分の身体に宿る力の融合だった。
観客の視線が集まる。
誰もが息を呑み、杯を置いた。
赫蒼ノ奈落は完全に封じられていたが、煌虹色の瞳は舞の中で静かに光を放っていた。
音楽が高まり、アデルは旋回する。
銀糸が空を描き、髪が弧を描く。
最後の一歩で静止し、深く一礼。
沈黙――そして、爆発するような歓声。
「素晴らしい!」「あれは誰だ?」「見たことがない……!」
おひねりが次々と舞台に投げられる。
銀貨、金貨、宝石のような小物まで。
屋敷の使用人が慌てて舞台に駆け寄り、拾い集める。
それらはバルド男爵の元へ運ばれ、セリウスがそれを受け取り、静かに鞄にしまった。
赤髪の少女は貴族らしい席に座り、目を逸らすことなくアデルを見つめていた。
その瞳には、驚きと憧れと、言葉にならない何かが宿っていた。
周囲の貴族たちがバルド男爵に詰め寄る。
「どこで見つけて来た?」「あの眼帯は?」「譲ってもらえないか?」
男爵は杯を掲げ、高笑いした。
「譲る? 馬鹿を言うな。あれは私のものだ。
美しさ、希少性、そして煌虹色の瞳と呪われた瞳、すべてが揃っている。
動く芸術品だ。誰にも渡さんよ」
その声に、周囲の貴族たちは苦笑しながらも、羨望の色を隠せなかった。
広間の隅では、黒衣の魔術師が静かに杯を置いていた。
彼はずっとアデルの舞を見ていた。
「煌虹色の瞳……あれは、まさか……」
呟きは誰にも聞かれなかったが、彼の瞳は鋭く光っていた。
その眼差しは、ただの美しさではなく、何か“封じられたもの”を見抜こうとしていた。
彼は席を立ち、誰にも告げずにその場を後にした。
その背中には、静かな確信と、わずかな警戒が滲んでいた。
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控室に戻ったアデルは、椅子に腰を下ろし、静かに息を吐いた。
眼帯の下で赫蒼ノ奈落は、今も静かに脈打っていた。
扉が開き、セリウスとミレナが揃って入ってくる。
セリウスは静かに言った。
「よくやった。見事だった」
ミレナは微笑みながら、銀の盆を手にしていた。
その上には、湯気の立つ紅茶のカップ。
「お疲れさま。少し落ち着いて」
アデルは受け取り、両手で包み込むように持った。
香りが鼻をくすぐり、温かさが指先に染み渡る。
「……実は、踊りを少し間違えました」
アデルがぽつりと漏らすと、セリウスは目を細め、肩をすくめた。
「気づかなかった。誰も気づかなかっただろう。
それだけ、お前の舞は完璧だったということだ」
ミレナは紅茶を注ぎ足しながら、優しく言った。
「間違えたとしても、誰よりも美しかったわ。
あの場にいた誰もが、あなたに目を奪われていた」
アデルは少しだけ笑い、カップに口をつけた。
温かさが喉を通り、胸の奥に静かに広がっていく。
アデルはどこか遠くを見ているようだった。
セリウスは少しだけ眉を上げ、静かに答えた。
「あの場でお前が放ったものは、誰にも真似できない。それは、お前自身の力だ」
ミレナは頷きながら、そっとアデルの髪を撫でた。
「誇っていいのよ。あなたは、もう“見られるだけの存在”じゃない」
アデルは目を伏せた。
眼帯の下で赫蒼ノ奈落が、静かに脈打っていた。
それは、まだ誰にも見せていない“もう一つの舞”の予兆だった。
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その頃、広間の隅では、黒衣の魔術師が書簡を手にしていた。
彼の瞳は、舞台に立った少女の姿を思い返していた。
「煌虹色の瞳……あれは、記録にある“異質の光”と一致するが……」
彼は書簡を折り、懐にしまうと静かに立ち去った。
その背中には、報告すべき何かを背負った者の重みがあった。
そして、社交界の夜は、何事もなかったかのように続いていた。
だが、アデルの舞は確かに波紋を残した。
それは、静かに広がりながら、やがて誰かの運命を揺るがす予兆となるのかもしれない。