「行きたくないな……」
冬の朝、イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェントは、深紅のドレスの裾を指でつまみながら、馬車の中でぼそりと呟いた。
「いけませんよ、ソフィア様」
隣に座る使用人メイド――クラリスが、柔らかく微笑みながら嗜める。
「今日は宰相閣下の代理としてのご出席です。お振る舞いも、情報収集も、すべてお役目です」
「…戦場の方がまだマシだわ」
ソフィアはため息をつき、窓の外に目を向けた。
馬車は、城塞都市ヴェルム・アルジェンタムの石畳を静かに進んでいた。
王国中央部に広がる肥沃な地――アルジェント公領。
政治の中枢であり、騎士団の訓練場でもあるこの城塞都市は、彼女の故郷だった。
街並みは整然としていて、王都ルミナス・グランディアにも劣らない。
宰相の居城「アルジェント公爵邸」を中心に、騎士団の宿舎や官僚の邸宅が規律正しく並ぶ。
人々は背筋を伸ばし、目的を持って歩いていた。
ソフィア自身も、宰相である父ヴィクトル・エドゥアール・ドゥ・アルジェントのもとで育ち、騎士団に所属している。
剣術と戦術に長け、次期団長候補とも目される存在。
だが今日、彼女は剣を置き、ドレスを纏い、社交界へと赴く。
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会場に着くと、すでに貴族たちの笑い声と香水の香りが空気を満たしていた。
ソフィアは背筋を伸ばし、広間へと足を踏み入れる。
すぐに人々が寄ってくる。
「宰相の娘殿、今日はお一人で?」「婚約はまだ?」「お父上はお元気で?」
笑顔を浮かべ、礼儀正しく応じる。
だが、心は少しずつ擦り減っていく。
婚約の話は特に面倒だった。
誰と結ばれるか――それは彼女自身の意志よりも、政治の駒としての価値が問われる。
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「…ちょっと失礼………クラリス、お手洗いに行きたい」
「かしこまりました。ご案内いたします」
ソフィアは広間を抜け、クラリスとともに廊下を歩いた。
向かう先は、誰もが避ける場所――トイレ。
そこなら、誰も追ってこない。
扉の前に着くと、クラリスが一礼する。
「中には私一人で入らないようにしております。外でお待ちしますね」
「ありがとう」
ソフィアは扉を開け、洗面台へ向かった。
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その時、視界の端に白銀の光が揺れた。
そこにいたのは、一人の美しい少女。
蒼と銀のドレスに身を包み、虹煌色の瞳に、方や美しい刺繍が施された眼帯をかけた、静かな気配の少女。
髪は銀に近く、肌は雪のように白い。
その美しさは、言葉を奪うほどだった。
「………きれい」
思わず漏れた言葉に、少女は軽く会釈を返し、何も言わずに颯爽と廊下を横切っていった。
ソフィアはその背中を見つめながら、心の中で叫んでいた。
――めちゃくちゃ可愛い! なんなのあの子!
トイレを出ると、クラリスがすぐに声をかけてきた。
「お疲れさまでした。……あの、先ほどすれ違った方ですが」
「うん。誰?」
ソフィアは振り返りながら尋ねた。
クラリスは少し戸惑いながら答える。
「バルド男爵が連れてきた者だそうです。余興で踊る予定だとか……」
その名を聞いた瞬間、ソフィアは眉をひそめた。
「バルド男爵? あの人、あまり良い噂は聞かないわ。
使用人の扱いも、ちょっと……」
クラリスは気まずそうに視線を逸らしたが、つい口が滑る。
「でも……綺麗でしたね、あの子。あっ……!」
言った瞬間、クラリスはハッとして口を押さえた。
「す、すみません。つい……」
ソフィアは少しだけ目を細め、そしてふっと笑った。
「いいのよ。私もそう思った。……とても綺麗だったわ」
クラリスはほっとしたように微笑む。
ソフィアの赤茶色の瞳が、静かに光を宿していた。
深紅のドレスに包まれた彼女自身も、十分に美しい。
編み込まれた赤髪は気品を帯び、騎士としての凛々しさと、娘としての優雅さが同居していた。
だがその瞬間、ソフィアの視線は自分ではなく、すれ違った銀の少女に向いていた。
その瞳の奥に灯ったものは、憧れでも嫉妬でもなく――ただ、純粋な興味と、静かな衝撃だった。
ソフィアはもう一度、すれ違った少女の背中を思い返す。
銀の髪、虹煌色の瞳、静かな気配――
あれは、ただの使用人ではない。
――あの子の名前、知りたい。
――あの子と、話してみたい。
その想いが、静かに胸の奥に灯った。
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広間へ戻ると、また貴族たちが寄ってくる。
退屈な会話、政治の話、婚約の話。
ソフィアは笑顔を保ちながら、心の奥でため息をついていた。
やがて、余興の時間が始まる。
舞台に立つのは、貴族たちの自慢の使用人たち。
踊り、歌い、演じる。
だが、どれも心に響かない。
下手な者には果物が投げられ、
それなりの者には銀貨が投げられる。
実に退屈で、ソフィアはこの余興が嫌いだったが先程すれ違った美しい少女の事は気になっていた。
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そして、彼女が現れた。
銀糸のドレスが燭台の光を受けて淡く輝き、
眼帯されていない側の虹煌色の瞳が、静かに舞台を見据えていた。
ソフィアは息を呑んだ。
あの時の少女――あの美しさが、今、舞台の中心に立っている。
音楽が始まり、彼女は踊り始めた。
一歩、また一歩。
その動きは、風のようにしなやかで、光のように儚かった。
指先の流れ、腰の揺れ、首の傾き――
すべてが、見る者の心を掴んで離さなかった。
ソフィアは、ただ見つめていた。
その舞は、言葉では表せない何かを持っていた。
美しさ、強さ、静けさ、そして哀しみ。
それらが混ざり合い、ひとつの物語となって広間に響いていた。
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踊りが終わると、深い礼。
そして、爆発するような歓声。
おひねりが次々と舞台に投げられ、
銀貨、金貨、宝石のような小物までが舞い降りた。
屋敷の使用人が慌てて舞台に駆け寄り、拾い集める。
男爵の元へ運ばれ、セリウスがそれを受け取り、静かに鞄にしまった。
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ソフィアは、ただ座っていた。
胸の奥が熱く、何かが震えていた。
あの舞は、何だったのか。
どうして、こんなにも心を揺さぶられるのか。
周囲の貴族たちがバルド男爵に詰め寄る。
「どこで見つけて来た?」「あの眼帯は?」「譲ってもらえないか?」
バルド男爵は高笑いしながら答える。
「譲る? 馬鹿を言うな。あれは私のものだ。
美しさ、希少性、そして虹煌色の瞳と呪われた瞳…すべてが揃っている。
動く芸術品だ。誰にも渡さん」
ソフィアは聞こえてきたその言葉に、微かな怒りを覚えた。
あの子は、芸術品なんかじゃない。
あれは、確かに生きている。
あの瞳は、あの舞は、…命そのものだった。
彼女は、ただの飾りではない。
誰かの所有物でもない。
――あの子と、話してみたい。
――あの子と、友達になりたい。
――あの子の名前を、知りたい。
その想いが、静かに胸の奥に灯った。
それは、社交界の虚飾の中で初めて芽生えた、純粋な願いだった。
ソフィアはそっとクラリスに耳打ちする。
「……あの子の名前、調べて。できれば、話す機会を作って」
クラリスは驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「承知しました」
ソフィアはもう一度、舞台を見つめた。
すでにアデルは控室へと戻っていたが、彼女の残した光は、まだ広間に漂っていた。
その光は、煌虹色の瞳の残像。
その瞳は、ただ美しいだけではなかった。
ソフィアの心に、初めて“誰か”が灯った瞬間だった。
イレアナ・ソフィア・ドゥ・アルジェント 15歳